使えない奴隷に罰を
街を通り掛かった商隊から奴隷を買った。雑多な街に似合わない、気品漂う金髪の少女だ。
聞くところによると、元は異国の商家の娘らしい。物静かな彼女の青い双眸は、暗く冷ややかだった。全てを見限り、周囲に何の期待もしていない、そんな姿に俺は惹かれた。
俺の予想に反して、彼女は一切の反抗を見せなかった。庶民の声に耳など貸さないだろうと思っていたが、無視されることも特にない。手伝いを頼めば、黙々と指示に従ってくれる。表情こそ虚ろだが、家事に取り組む彼女の姿は、懸命に道具であろうとするようだった。
ただ、手伝いになっているかと言われると、少なくとも今のところはなっていない。彼女はこれまでの人生で家事をしたことがなかったらしい。スープを作るにせよ、服を洗うにせよ、一人でさせるには頼りなかった。暮らし始めて一週間になるが、しばらくは目を離せそうにない。
だが、俺の監督のせいで、彼女が日に日に萎縮してきているのが気配で分かる。一人にはできないが、俺がいるとぎこちない動きが更に固くなる悪循環だ。今日の彼女は料理で指を切った。
『も、申し訳ございません……』
消え入りそうな小さな声で頭を垂れた彼女の姿を思い出す。傷の手当より謝罪を優先する彼女の姿は、痛ましいというより他になかった。恐怖を少しでも和らげてやりたいが、恐怖の大本に打つ手など皆無に近い。さて、どうすべきか。
足を広げ、ベッドで天井を仰いでいると、控えめに寝室の扉が叩かれた。
「やっ、夜分に失礼いたしますっ。ごしゅ、ご主人様よろしいでしょうか」
間違いなく件の少女、ナリアの声だ。まさか向こうからやってくるとは。凛とした涼やかな声は、俺と顔を合わせる前から上擦っている。意図は全く読めないが、何か話がありそうだ。
「気にせず入っていいぞ」
下手に怯えさせないよう細心の注意を払いつつ、俺はベッドの上から声を掛ける。
僅かな沈黙の後、扉の隙間から白い指が覗き、薄手の寝衣をまとったナリアが入ってきた。彼女は入口に立ったまま身を縮めて視線を泳がせている。燭台を持つ手は震え、何とも危なっかしい。
「椅子でいいか?」
俺はナリアの持つ燭台を指差し、脇の机に置くよう示す。それから上体を起こし、だだっ広いベッドの上であぐらを掻いた。
指示を受けたナリアは、跳ねるように明かりを置くと、行儀よくちょこんと椅子になおった。背筋の伸びたしなやかな居住まいだが、彼女の態度は、叱責を待つ部下かさながら咎人だ。肩を震わせ、身を縮め、逃げ場のない恐怖に支配されているのがありありと伝わってくる。それでも、ナリアは俺から目を逸らさなかった。
「どうかしたのか?」
瞳に確かな意思を感じ、俺はナリアに率直に尋ねた。ナリアは音を立てない浅い深呼吸をした後、意を決したように再び目を見開いた。
「お聞きしたいことがあります。よろしいでしょうか」
「ああ」
俺の首肯を確かめてから、ナリアはゆっくりと、しかし大きく口を開いた。
「ご主人様はなぜ、私に罰をお与えにならないのでしょうか」
邪気のない真っ直ぐな視線が俺を貫く。真正面から受け止める痛みに耐えながら、俺は思わず見惚れていた。いつもは気弱な態度だが、こいつは絶対に芯が強い。ナリアについて知るところは僅かだが、奴隷で終わらせるには惜しいと俺の直感が告げている。
「あ、あの……ご主人様……?」
無反応な俺を不審に思ったのか、真っ直ぐだったナリアの瞳が陰った。不安げに俺の様子を窺っている。俺は余計な考えを横へやり、姿勢を正してナリアに尋ねた。
「罰なんて、要ると思うか?」
ほんの一瞬の逡巡。しかし、ナリアはすぐに俺を見た。
「私は、必要だと、思います」
そして、声を震わせながら、それでもきっぱりと言い切った。態度から、返答の意味を理解していないとは到底考えられない。何が彼女を自傷に駆り立てているのだろう。
「理由を聞いても良いか?」
俺の問いかけに、ナリアは頷いた。
「私がご主人様にご温情をいただいてから一週間が経ちました。しかし、私がご主人様のお役に立てているとは到底思えません。報いがあって然るべきだと思います」
ナリアは硬い表情で、淀みなく最後まで言い切った。処罰の正当性を微塵も疑っていない顔だ。人に買われこき使われる理不尽に、抗う意志がどこにも見えない。俺の目に映るナリアは、どこまでも真っ直ぐな奴隷だ。
未熟を理由にすれば、彼女は責めも甘んじて受け入れるだろう。
だが、俺にそんな馴れ合いは何の価値もない。荷台に積まれたナリアを見たとき、俺が彼女に期待したのは、施しへの憎悪と裏切りなのだ。もっとも、今の彼女に期待するのは酷な話だろうが。
ともかく、俺にナリアを責めるつもりはない。街での生き方なんて適当に身につけていけば良いと思っている。だが、俺の考えを感覚として伝えるのはかなり骨が折れそうだ。
「なら、どんな罰が適当だと思う?」
説得の糸口を探るべく、話題を広げてみる。無意味な時間稼ぎをしているようで何とももどかしい。
ナリアが初めて視線を逸らした。
「罰になるかは分かりませんが……父が女についてこう言っていました。『どんな無能でも脱がせば手慰みになる』と。修道院で死体袋に入るまで使い潰されていくのを何度も見てきました」
ナリアは暗い瞳でとつとつと語る。過去に捕われた彼女の言葉は、いまいち要領を得ない。しかし、言葉の中に全くの虚構はなさそうだ。
俺は耳を疑いながらも、ナリアの態度に得心した。分かってはいたが、お嬢様の生い立ちも単純ではないらしい。
ナリアが、縋るような声で俺に迫る。
「ご主人様、私を使っていただけないでしょうか」
懇願する彼女の瞳は、絶望に塗りつぶされていた。「楽になりたい」と言外に訴え掛けてくる。
だが生憎と俺に陵辱の趣味はない。行き着く先が殺しなら尚更だ。ナリアが性にどんな偏見を持っているかは知らないが、応じるつもりは全くない。
とはいえ、突き放す訳にもいかない。彼女を買った責任が俺にはある。退くことは許されない。
「使って欲しいのか?」
再度ナリアに意思を問う。俺の威圧にも彼女は視線を逸らさなかった。。お互いに沈黙を保ったまま、ただいたずらに時が流れ続ける。
不意に、ナリアが口を開いた。
「はい」
答えたナリアの瞳には、希望の光が宿っていた。自らの破滅を予感する、悲しい期待の眼差しだ。彼女の決意は硬いらしい。
「そうか。なら来い」
彼女の説得に、言葉は意味を持たないだろう。俺は会話を打ち切り、ナリアを招くことにした。
だが、彼女には不意打ちだったらしい。
「え、あっ、はいっ。ふ、服はいかがいたしましょうかっ」
一瞬にしてナリアが、落ち着きのない少女に戻る。態度こそ狼狽えているものの、冷静に作法を聞いてくるのがまたおかしい。笑うに笑えない妙な気分だ。
「そのままでいい。部屋履きは脱げるか」
「はい。……これで、よろしいでしょうか」
おずおずと寄ってきたナリアを、有無を言わさず抱き込んでベッドに倒れ込んだ。柔らかくか細い彼女の全身が、一瞬にして強張るのが伝わってくる。気にせず、自分の胸に右腕でナリアを密着させつつ、自由な左手で掛け布団を手繰り寄せる。ナリアを抱えたまま、俺は布団に収まった。
甘く柔らかな存在が、俺に全てを委ねている。触れ合う肌から伝えられる確かな温もり。その実感は、一瞬にして俺を脳髄まで痺れさせた。これまでのやり取りが消し飛びかねない、破壊的な高揚感に我を忘れそうになる。色欲の一言で片付けるには余りにも甘美な多幸感。今、初めて「人に触れる」という快楽を知った思いだ。
だが、俺が勝手に情動に流されるわけにはいかない。ナリアにとって俺は暴力の表象でしかないのだ。俺の一挙手一投足が彼女を摩耗させることを忘れてはならない。
幸い、興奮は俺がその気になりさえしなければなんとかなりそうだ。感覚に自分を慣らしながら、しばらくナリアの様子を確かめる。
初めは身を竦めていたナリアも、手を出されない状況に徐々に違和感を覚えてきたらしい。ガチガチに固めていた肩から力が抜け、身をよじってこちらの様子を窺いはじめた。それでも俺が何もしないと悟ると、ナリアは戸惑いがちに、上目遣いで俺を呼んだ。
「あの……ご主人様……?」
彼女の全てが愛おしい。だが、俺にはもう伝える資格のない感情だ。
「どうかしたか」
普通に返したつもりの声は、どこか腑抜けた響きだった。
ナリアが再び口を開く。
「裸には、されないのですか……?」
「ああ。これで十分だ」
答えを聞いたナリアの瞳に、暗い色が差した。失望と取れる冷たい色だ。それを悟られまいとするかのように、ナリアはゆっくりと顔を伏せる。
「どうして、ご主人様は私に情けをかけるのですか。私には資格なんてないのに……」
胸元に、籠もった吐息の熱が伝わってくる。
「私は悪党の娘です。生かす価値なんてありません……」
吐息の少し上辺りで、微かに滲む熱の感触があった。
彼女を抱える腕に、知らず力がこもる。
ナリアの言う「悪党」とは父親だろう。「死体袋」を見たと言うからには、遊び半分に女を何人も殺しているのは想像に難くない。だから、犠牲者たちと同じ末路を辿るべきだと考えているといったところか。気持ちは分からないではない。
それでも、俺がナリアを虐げる理由にはならない。
「聞いても良いか?」
問い掛けに、ナリアは顔を伏せたまま頷いた。
「お前は人を殺したことがあるか?」
ナリアの父親に興味がないではない。だが、今知りたいのは彼女自身のことだ。
亡霊のようにおとなしくなったナリアは、消え入りそうな暗い声で呟いた。
「死なせてしまったことはある、と思います……」
予想外の答えだった。しかし、今聞きたいのは、もっとはっきりとした答えだ。
俺はもう一度問いただした。
「聞き方が悪かった。ナリア、お前は自分の意志で人を殺したことがあるか?」
ナリアがしばし沈黙する。そして、首を横に振った。
「ありません」
今度は予想していた通りの答えが返ってきた。とりあえず「殺していた」と言われなかったことに胸を撫で下ろす。
緩んでいたナリアの背中には力が再び入り始めている。だが、ここで怯んでいては先がない。俺はさらに質問を続けた。
「そうか。なら、誰かをいたぶったことはあるか? 自分の意志で、だ」
二度目の問いに、ナリアの全身がさらに固くなる。だが、先程より短い沈黙でナリアは答えた。
「ありません……」
か細い声で、しかしはっきりとナリアは言い切った。あとは確かめるだけだ。
「ナリア、俺の目を見えるか?」
操られるように、ナリアは声もなく顔を上げた。澄んだ青い瞳は微かに赤らんでいる。俺にはその中に嘘を見い出せなかった。
「分かった。それなら今後も態度を改めるつもりはない」
ナリアの目が丸くなる。家に来て一番の大きさだ。
「ご主人様、本気、でしょうか?」
恐る恐る尋ねるナリアの声音には、多大な不安に混じって微かな希望が含まれている気がした。死への期待ではない。もっと前向きな生への渇望だ。
「ああ。俺にとってお前は『悪党の娘』でなくただの『ナリア』だ。懺悔があるなら聞くが、それでも多分裁かんぞ」
俺は神でも法でもないのだ。罰を求めるなら他を当たってほしい。
「ただの、ナリア……」
ナリアは目を大きく開けたまま、俺の言葉をうわ言のように繰り返してる。その瞳に涙と光が揺らいでいるのを、彼女は自覚しているだろうか。
色づき始めたナリアの頬を見て、俺は彼女が本当に欲しているのは、死神の鎌などではなく、生きるための免罪符なのだと思った。
「ご主人様、私の話を聞いていただけますか?」
真っ直ぐなナリアの訴えに、俺は笑みを作ってみせる。
ナリアは切々と自分の過去を語り始めた。まとめると、ここへ来るまでは、山奥に作られた修道院で父が嫁ぎ先を決めるのを待っていたのだという。だが、その修道院は、父が潰した政敵たちの娘を入れる獄を兼ねていたらしい。支配の首輪を持たない修道女は、自分の他には父の息がかかった者しかいなかったそうだ。娘たちが消費される傍らで手駒として育ったが、駒の持ち主たる父が兄の謀反により失脚したそうだ。その後処理でナリアは国外に売り飛ばされることが決まり、今に至るという。
「国内で地下競売にかけられる話もあったんですが、『殺してください』とお願いしたら国外になりました」
自嘲気味に笑うナリアに、掛ける言葉が見つからなかった。
「偽りはないか?」
辛うじてそう尋ねる。
「はい。一切の嘘偽りはございません」
ナリアはどこか晴れやかな面持ちで頷いた。嘘の臭いがしないのが逆に不気味だ。話を聞く限り、自死を考えねばならないほど自分を追い詰めなければならない理由が見つからない。
「聞きたいんだが、どこにお前が死ななきゃならない理由があるんだ?」
思ったままをそのまま口にしたが、ナリアにはうまく伝わらなかったようだ。問い掛けに慌てふためき、目を白黒させている。
「えっ、え? だって、私は『死ぬべきだ』って……。皆から恨まれていて、それで……」
取り乱すナリアを眺めながら、俺は彼女を一人にできないと思った。
俺にはもう、ナリアに触れる資格はない。分かっていてなお、俺は道理を無視することにした。ナリアに添えた手に力を込める。
「何を言われたか知らないが、生きろ。一人で立てないなら俺に聞け。立てるまで手伝ってやる」
胸元に再び熱が滲んでくるのが伝わってきた。ナリアの肩が上下に震えている。
「本当、ですか……?」
息を詰まらせながら、ナリアが聞いてくる。
「ああ。女神に誓いを立ててもいい」
俺は彼女を強く抱きしめながら答えた。護られる神が違っても、意味するところは伝わるだろう。ナリアが望むなら、明日の朝教会へ出向いたって構わない。
震えていたナリアから嗚咽が伝わってきた。続いて堰を切ったような鳴き声の波が押し寄せてくる。口元を布団や服に隠していてもなお伝わる大号泣だ。
「わた、私も誓いますっ! 神様に! ごしゅ、ご主人様に全てを捧げると!」
俺にしがみつくナリアは、半ば狂乱していた。感情の制御を自分でも付けられないのだろう。引かれた服が肩に食い込む。だが、何時までも続かないはずだ。彼女が溜め込んでいたものを吐き出し終えるまで、俺は黙って胸を貸す。
ひとしきり泣き終えたナリアはぐちゃぐちゃになった顔を拭い、赤い鼻のまま俺を見て笑った。腫れ上がった目には一筋の光が宿っている。意思を持った人の光だ。
彼女に釣られて、俺の口からも思わず笑みが溢れた。
「ご主人様、これまでの、そして今宵のご無礼を、改めてお詫び申し上げます」
憑き物の取れた顔で、ナリアが謝罪を口にする。ナリアの口振りは儀式めいていて、有無を言わせないひたむきさを備えていた。
「気にするな」
俺は誤魔化すことができず、そう答えるのが精一杯だった。ナリアの頬が俺の胸元に触れる。
「私、ナリアは、ゼーノ様に、変わらぬ忠誠をお約束いたします」
全身に触れるナリアの感触が、より一層強くなった。華奢な体からは想像もつかない、暴力的なまでの質感が俺に襲いかかる。
誓いの甘露な響きに倒錯しながら、俺はのしかかる罪科の重圧に苛まれた。
自惚れでなければ、ナリアを過去から一歩連れ出せたと思う。だが、彼女の視線を俺から明日へと向かわせる手立てが思い浮かばない。少し踏み込みすぎてはいないだろうか。
「一時の気の迷いで誓うと後悔するぞ」
苦し紛れの一言に、ナリアが不満げに眉をひそめる。しかしそれも一瞬で、彼女はすぐに笑みを湛えた。
「私はしないと思いますよ」
真顔で返されると返す言葉が見つからない。俺はなす術もなく顔を逸らした。
防戦一方の俺をよそに、ナリアはうつらうつらと船をこぎ始めている。ここらが切り上げ時だろう。
「ナリア、寝室へ戻れとは言わん。明かりを消させてくれ。ロウソクがもったいない」
「あ、それなら私が」
体を浮かせたナリアが机の方へ腕を伸ばす。だが、その手は燭台へと届く前にはたと止まった。ナリアが困った顔で俺を見る。
「ご主人様、ろうそく消しはどちらでしょうか……?」
そういえば、そんなものもあったか。記憶が正しければおそらく机の中だ。
「上の取っ手を引いてみてくれ。多分そこだ」
ナリアは言われた通りの引き出しを開け、中を覗き込んだ。
「ありました」
部屋が暗闇に包まれる。ナリアはもぞもぞと戻ってきた。
「ご主人様、失礼いたします」
一言断りを入れてから、ナリアが横たわる。俺が半身をよじれば抱き込める位置だ。頭は先程と同じく俺の胸の高さにある。
うつ伏せの彼女に掛け布団を掛けると、小さな感謝の声と、微笑みが返ってきた。
「おやすみなさいませ。ご主人様」
「おやすみ、ナリア」
俺は胸中に渦巻く感情をすべて飲み込み、短い挨拶を返す。ベッドに響いた余韻の中で、俺達は眠りに落ちていった。
翌朝から、ナリアの学習速度は飛躍的な向上を見せることとなる。
同名キャラの短編が幾つかありますが、個々の短編と完全につながっているわけではございません。
ここまでお読みいただきありがとうございました。