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ヒプノシス舞子

「あああああ……ううううう……おおおおお…………!!」


 この物語の主人公、西民舞子は今、深い懊悩のさなかにあった。


「私は……私はどうすればいいんだ……!!」


 机に座り頭を抱えても、おもむろにスクワットを繰り返してみても、わけもなく床に仰向けになり、脚を使ってくるくる回ったりしてみても、悩みからは一向に抜け出せそうになかった。

 舞子を悩ませるものは何か。言わずもがな、恋の悩みである。愛するが故の苦しみである。

 彼女の恋する相手は、ひょろりとした優男であった。しかしこの優男というものに舞子は弱かった。その理由は明らかではないが、舞子が男勝りな性格であることと関係があるのかもしれない。

 とにかく舞子は落ちたのである。高い棚から物を取ろうとして脚立から足をすべらせ、一年下である松岡が優男に似合わぬ体力で舞子の身体を抱きとめた日から。いわゆるダブルミーニングである。

 その時を境にふたりは親しくなった。お互いに幽霊やUFOなどのオカルト話が好むということがわかり、話もはずんだ。異性の友達に恵まれなかった舞子にとって、松岡はまさに王子様であった。舞子は学校に行くのが楽しくなった。

 しかし舞子には、胸に秘めた想いを告白する勇気など持ち合わせていなかった。助けてもらった上にこちらから恋愛関係を要求するなんておこがましい、とすら思っていた。要するに意気地がなかったのである。舞子は松岡との日々に幸福と、いつか彼が自分の手から離れてしまう不安を同時に感じていた。舞子はこちらが書いていて恥ずかしくなるほどの思春期女子だったわけである。


「舞子先輩、ちょっとお話があるんですけど」


 そんなある日の帰り道、舞子は後輩である醍醐 杏(だいご あん)に声をかけられた。杏と舞子は同じ陸上部に所属しており、松岡と杏は同じクラスであった。


「お時間いいですか?」

「かまわないけど、どうかしたの?」


 とはいえ、杏と舞子はそれほど親しい間柄ではなかった。なんだか彼女とは性格が合わないような気がしていて、深い理由はないがなんとなく会話するのをお互いに避けているような感じの関係だった。


「先輩が、片想いしているという噂を聞きまして」

「えっ?」

「相手はうちのクラスの松岡くんだとか」

「だ、誰が言ってたんだ、そんなの」

「情報元は明かせません。でも、信頼できる筋です」

「誰なんだよ、一体……」


 杏は声をひそめ、トーンを下げて忠告した。


「やめといたほうがいいと思いますよ。これは先輩のためを思って言うんです。松岡くん、めちゃくちゃモテますから。倍率超高いですよ」

「げっ……」


 舞子は動揺を隠せなかった。あたりを見回し、誰もいないことを確認してから、念のため校舎の影に杏を引き寄せて会話を続けた。


「……やっぱり、そうなのか?」

「ええ、そりゃもう。だって、考えてみてくださいよ。男子に全然興味なさそうだった舞子先輩ですら一発でコロッといっちゃうぐらいです。他の女子が目をつけないわけがないでしょう?」

「確かになあ……」

「仮に、松岡くんとお付き合いできるチケットが先着販売されたら……秒でなくなりますね。徹夜組も出ます。確実に」

「だよなあ……」

「しかも、名だたる恋愛のエキスパート、いわゆる猛者たちまで松岡くんをモノにしようと血眼ですからね。アホみたいに可愛くて性格もいい女子たちが、虎視眈々と松岡くんの隙を狙っているわけです。いまやこの学園は一触即発の戦場と化しているんです」


 舞子はがっくりと肩を落とした。そんなに強力なライバルたちが勢ぞろいしていては、自分など相手にされるはずもない。うすうす気づいてはいたことだが、現実に突きつけられるとつらい事実であった。


「私は全然興味ないですけどね。あんな中性的なタイプより、私、筋肉ゴリゴリだったり原人みたいに毛深かったりするような、男性ホルモン全開男子のほうが好みですから。まあそれはどうでもいいか。とにかく先輩、注意はしておきましたからね」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

「なんですか?」

「私……」


 舞子は一旦うつむいたが、覚悟を決めたように杏をまっすぐに見た。


「本気で松岡が好きみたいだ。今気づいたけど」

「え?」

「だって、今の話聞いてもあきらめる気にならないもん」

「……マジで言ってるんですか?」

「恋愛なんてイベント、私の人生で次にいつ発生するかわからないし……どうせなら、悔いの残らないように挑戦してみたい」

「あきれた。先輩って根っからのアスリートタイプなんですね」


 杏はため息をついたが、すぐに笑顔を見せた。


「でも私、先輩のそういうところ尊敬してるんです。実は前から。なんか今までは恐れ多くて、あんまり話しかけられなかったくらいで」

「恐れ多くて? 私が?」

「はい。結構部内でもそういう子多いですよ」


 こんな臆病な自分が後輩から恐れられていたとは、自分自身の評価などわからないものである。


「わかりました。先輩がそこまで言うなら、私、サポートします」

「え、本当か?」

「……でも、はっきり言って、勝ち目は薄いと思います。まともにぶつかって告白しても、おそらく玉砕して終わるだけです。ですから……」


 杏は、真剣なまなざしで舞子を見つめた。その瞳には、舞子が圧倒されるほどの強さがあった。


「どんな手段を使っても、松岡くんを手に入れたいという覚悟が必要です。例え……人の倫を踏み外したとしても」


 ゴクリ、と舞子は唾を飲み込んだ。


「その覚悟はありますか?」

「…………もちろんだ」


 燃えるような夕陽をバックに、ふたりは固い握手を交わした。ここに、奇妙な友情同盟が爆誕したのであった。


「……これです」


 作戦会議は、杏の自宅で行われた。杏の家は、今時珍しいほどの重厚な日本家屋であった。杏は舞子を奥の部屋へ案内すると、押し入れのさらに奥深くから、古い木箱を取り出し、神妙な面持ちでそれを開いた。


「これって……」


 中から現れたのは、不可解なシロモノであった。


「……マイク?」


 棒の先端に丸いものがついているその物体は、マイクにしか見えないものだった。ただ一つ違っているのは、それが木で出来ていることだった。


「木で出来た、マイクのようなもの……これが一体なんだって言うんだ?」


 舞子は不安な表情を杏に向けたが、杏は真剣そのものだった。


「これは、江戸時代から我が家に伝わる由緒あるマイクです」

「おい、ちょっといいか」

「先祖代々、醍醐家の家宝として大切に保管するようにと……」

「確認したいことがあるんだけど」

「……何か?」


 話の腰を折られ、杏はきょとんとした顔をした。


「江戸時代にマイクがあるわけないだろ」

「どうして?」

「いや、だって、マイクって電気で動く……動くっていうか、電気を通して初めてその効果を発揮するもんじゃん。江戸時代にコンセントとかないじゃん。あと、マイクって英語じゃん。江戸時代って基本的に英語はないじゃん」

「ああ、先輩、それは勘違いです」

「どこが?」

「江戸時代にマイクはあります」

「はっ!? 嘘だろ! そんなわけないって!!」

「いえ、マイクと言っても、マイクロフォンのマイクではありません。『舞倶マイク』という、木製の器具です。その歴史は古く、卑弥呼の時代から使われていたという文献も残されているとかいないとか」

「ないよ、そんなの!!」

「でも現にこうして、目の前にあるじゃないですか。これがニセモノだとでも言うんですか?」

「うう…………」


 確かに、目の前に置かれた『舞倶』なる物体は、古物特有のものものしい雰囲気を発していた。醍醐家に漂う歴史的な風格も、その信憑性を増すのに一役買っていた。


「……で、これは、松岡を手に入れることとどういう関係があるんだ」

「この『舞倶』は、ある儀式の際に用いられるものです」

「儀式?」

「それは……催眠の儀式です」

「催眠って言うと、糸で吊るした五円玉を左右に揺らして、あなたはだんだん眠くな~る……っていう、アレか?」

「そうです。ですが『舞倶』を用いて行われた催眠は、現代で行われているものよりももっと深く、人間の心……魂の、奥底にまで作用するものだったようです」

「っていうと……」

「例えば……相手の心に対して強制的に何かを植え付け、あたかも初めからそうであったかのように書き換えてしまうとか」

「…………」

「記憶や感情、あるいは……特定の異性を、愛するという気持ちです」


 ふたりの間に、静寂が流れた。


「じゃあ、つまり……これを使って、松岡の心に、私のことが好きであるという気持ちを無理矢理植え付けようって……そう言いたいのか?」


 杏は、黙って目を閉じた。


「……ダメだよ、そんなの」


 舞子は思わず立ち上がった。


「そんなの、人として絶対やっちゃダメなことだろ! 何考えてるんだよ!!」

「先輩」


 杏は座ったまま、舞子をはっきりと見据えた。


「どんな手を使っても、例え人の倫を踏み外しても、松岡くんを手に入れたい。そう言いましたよね?」

「言ったけど、言ったけどさ」

「そもそも先輩が松岡くんを好きなのは、どうしてですか?」

「それは、脚立から落ちたところを助けてもらったり、一緒にいて楽しかったり、そういうことがあって……」

「じゃあ、その思い出が全部、松岡くんの作戦だったとしたらどうですか? 初めから先輩を好きで、なんとかして振り向いてほしくて脚立に細工したりしてたんだとしたら、先輩の恋は醒めますか?」

「うっ……それは……」


 舞子は考え込んだ。


「確かに、ショックではあるけど……好きな気持ちは、変わらないと思う」

「むしろ、向こうがそんなに好きでいてくれたなんて、ちょっと嬉しいくらいには思いますよね?」

「否定は……できない」

「それが惚れた弱みってやつです。手段がどうであれ、結果好きにさせてしまったんならこっちのものなんです」

「そうかなあ……」

「こうしている間にも、松岡くんは誰かに告白されているかもしれません。松岡くんの気持ちがちょっとでもその子に傾いているとしたら、どうですか?」

「うう……」

「恋愛において、誰かを得るということは、他の誰かを切り捨てるということなんです。先輩……やるか、やらないかです」


 舞子は強く目をつぶった。そして、静かに開いた。


「……わかった。やる」

「それでこそ先輩です。女が惚れる女です。さあ先輩、『舞倶』を手に取ってください」


 杏は慎重に『舞倶』を箱から取り出すと、それを舞子に手渡した。


「……これ、どうやって使うんだ?」

「まず、棒の部分を右手で持ちます」

「こうか?」

「そして、丸い部分を口元に近づけます」

「…………」

「その状態で、催眠の言葉を相手にささやくんです。リズムに乗って、なるべく韻を踏むような言葉を使います。ボキャブラリーが重要です。現代風に言うなら……ラップ、すなわちヒップホップのような感じです」

「……あのさあ」

「はい。何でしょうか?」

「これ……あれだよな? 最近流行ってる、ヒプノシス……」

「すみません。私、流行り物にうといものですから」

「……いや、もういい。私はやると決めたんだから、いちいち突っ込むのはやめる。見てろよ、女子ども。松岡はもう私のものだ!!」


 舞子は勝利を確信した。舞子と杏は再び握手を交わしし、友情を確かめ合ったのであった。



「あああああ……ううううう……おおおおお…………!!」


 この物語の主人公、西民舞子は今再び、深い懊悩のさなかにあった。

 時は放課後。『舞倶』はすでに、舞子の手の中にある。そして彼女は今、恋する松岡が出てくるのを玄関の前でいまや遅しと待ちかまえているのである。

 松岡は、金曜日は委員会で帰りが少し遅くなる。舞子はそれを把握していて、偶然を装って彼を待つ行為を常習しているのであった。

 しかしこの期に及んでまだ、舞子は思い悩んでいるのである。


「いいのか、こんなことをして……本当にいいのか……!!」


 良心の呵責が、舞子を強くさいなんでいた。彼女は頭を抱え、靴箱の影でうずくまっているのであった。


「先輩!」


 そこに、杏が現れた。


「何やってるんですか! もうすぐ松岡くん来ますよ」

「ダメだ、やっぱりダメだ、私はやめる! これは人としていけないことなんだ!」

「今さら何言ってるんですか、もう後戻りはできないですよ! 一度決めたことはやり通すのが女でしょう?」

「だが……しかし……!!」

「先輩、これは先輩の決心が揺らぐと思って言わなかったんですけど」


 杏は突然切り出した。


「松岡くん、彼女出来たんですよ」

「はっ!?」

「昨日私たちが作戦会議しているまさにその最中に告白されて、付き合うことを決めたようです。もううちの学年では話題になってます」

「そ……そんなことが……」


 舞子の身体は完全に脱力した。ショックで放心状態になっているようだった。

 杏はその肩を揺さぶり、発破をかけた。


「先輩、あきらめちゃだめです。いえ、松岡くんのためにも先輩は挑戦するべきなんです」

「え……どうして……?」

「いいですか、先輩。松岡くんが付き合った女ですけどね……学年でも評判の、性悪です」


 杏は舞子に言い聞かせるように、力説した。


「自分ファースト、ちょっとでも自分より下だと思った相手は徹底的に見下すわがまま女です。しかも浮気性。今までに何回もやらかしてます。でも、えげつないくらい可愛くて胸が大きくて、おまけに口も達者だから、きっとあの手この手で松岡くんをモノにしたんです」

「そ、それは……本当なのか?」

「当たり前です! 先輩、あいつから松岡くんを救ってあげられるのはあなたしかいません。さあやるんです、先輩!」

「よ、よしわかった。やるぞ、私はやる!!」


 そこに、委員会を終えた松岡がとうとう現れた。


「来ました! 私は離れたところで見守ってますから、万事打ち合わせ通りにお願いします!」


 杏が玄関を飛び出し、草むらの影に隠れたと同時に、松岡が舞子に気づいた。


「あ、西民先輩。お疲れ様です」

「や、やあ、松岡じゃないか。お疲れ」

「いつも金曜になると、偶然会いますよね」

「そ、そうだな、あははは」


 後ろ手に持った『舞倶』に気づかれないよう、舞子は不自然な体勢で、松岡が靴を履き替えるところを見ていた。

 舞子はそっと、深呼吸をひとつした。覚悟を決め、『舞倶』を取り出した。


「ま、松岡」

「はい?」

「あ、あのさ、ちょっといいかな」

「……なんですか、それ。木のマイク?」


 松岡はけげんな表情で舞子を見ていた。


「聞いてくれ。これが私の気持ちだ」


 舞子は大きく息を吸い込んだ。


「ヘイヨー!!」

「はっ!?」

「今から伝える私の想い! ちょっと重いが聞いてほしい!!」

「ちょ……どうしたんですか、先輩?」

「脚立から落ちたあの日の出会い! 恋に落ちた時感じためまい!!

 キミと過ごす日々だけを願い! 初めて知った新しい世界!!」


 突然のアカペラップ(アカペラかつラップ)に、松岡は激しく戸惑った。しかし、舞子のライムはもう止まらなかった。


「キミの考え方すごく感心! 単身でもキミのため邁進!!

 全身!でキミに興味津々! 渾身の愛を日々更新中!!

 頭ん中キミのことでいっぱい! キミを想い毎晩乾杯!!

 心の駐車場はもう満杯! キミの魅力に私はもう完敗!!」

「西民先輩……」

「どうか私を見てほしい! 私を好きになってほしい!!

 私と一緒に生きてほしい! 涙なんて見せないでほしい!!

 星!より輝く私の愛! キミを幸せにしてあげたい!!

 キミとふたりで笑っていたい! 共に手を取りユーアンドアイ!!」


 舞子の額には汗がにじんでいた。ゲリラライブはいまや最高潮に達しようとしていた。


「アイ・ラブ・ユー!! マツ・オーカー!!

 アイ・ニー・ジュー!! マツ・オーカー!! セイ!!」


 舞子は両手を左右に大きく振り、オーディエンス(松岡)を煽った。

 松岡もその勢いに押されたのか、少しずつ声を出し、次第にふたりの歌は大合唱となっていった。


「アイ・ラブ・ユー!! マツ・オーカー!!

 アイ・ニー・ジュー!! マツ・オーカー!! イエーイ!!」


 どちらからともなく拍手が起こった。ライブは大団円の中、終了となった。

 全力で熱唱した舞子は、激しく息切れをしていた。


「……どうだ!?」


 松岡は、あっけにとられたような表情をしていた。


「……なにが!?」

「いや、だから……私のこと、今どう思ってる!?」

「その……なぜラップを?」

「え?」

「唐突にこんなところで、木のマイクを片手に……なぜ、ラップを?」


 松岡の顔には、数えきれないほどのクエスチョンマークが浮かびあがっていた。


「ま、まさか……効いてない!?」

「いや、歌なら聞かせてもらいましたけど……」


 舞子はあまりの事態に、顔が真っ赤に紅潮した。


「う、う……うわあああああ!!!!!!」


 いたたまれなさに耐えきれなくなり、舞子は駆け出した。その後ろ姿を松岡は、口をあんぐり開けたままただ見つめていた。



「おい、どういうことだ!!」


 舞子は草むらに隠れていた杏を見つけ出すと、大声で問いただした。


「まったく効いてないじゃないか!! 本当に催眠の力があるのか、この『舞倶』には!!」

「ぷっ、あはは、あはははははははは…………!!」


 杏は、糸が切れたかのように笑い出した。


「効果なんてあるわけないじゃないですか、そんなの」

「はあ……!?」

「嘘ですよ、ぜーんぶ嘘。先輩、私にだまされたんです。ばっかみたい、あはははははは…………!!」


 舞子は茫然自失の様子であった。


「オカルト好きな先輩とはいえ、まさか本当に信じちゃうなんて思いませんでしたよ。もう私、笑いをこらえるのが必死で……」

「お、おい……ふざけてんのか」

「ふざけてますよ、当たり前じゃないですか。そもそもねえ、松岡くんがそんなにモテてるわけないでしょ。あんなひょろい優男のこと好きになるなんて、先輩か私くらいのもんですよ……くくくく……!!」

「お前……!!」

「でも最近、先輩が松岡くんとずいぶんお近づきになってるみたいなんで……ライバルは確実に減らしておきたいじゃないですか? だから私、面白半分で試してみたんです。自分でこんな木のマイクまで用意して。せんぱーい、片想いしてる時に一番気をつけなきゃいけないのは、突然近づいてくる同性なんですよ。そーんなこともわかってなかったんですねえ?」


 舞子は、怒りに打ち震えた。杏はその姿を、あくまで嘲笑していた。


「あーあ、あんな醜態さらしちゃって、もう嫌われちゃいましたね。人前で恥ずかしげもなく堂々とあんなことする女の子と付き合いたい男子なんて、いるわけないですよねえ? っていうかせんぱあい、催眠術で誰かの心を操ろうなんて、人として最低な行為なんですよ? そんなことする女に、松岡くんと付き合う資格なんてあるわけないですよお。わかってますかあ? 女のクズの舞子先輩♪」

「わ、私は……」


 舞子の瞳に、涙がにじんだ。


「松岡のこともそうだけど、私は……お前のことも……友達だと思ってたんだぞ……!!」

「へえ、そうなんですか。そんなの知らないですけど。そっちが勝手に思ってただけでしょ? 私に押し付けるのやめてもらえませんか?」

「ちくしょう……!!」


 舞子は膝から崩れ落ち、地面に肘をこすりつける形で泣き崩れた。その様を杏は、頬をニヤつかせながら眺めていた。


「ライバルもいなくなったことですし、私、明日ゆっくり松岡くんに告白しますね。彼、純情そうなんで、キスのひとつもしてあげれば簡単に落ちそうな気がしますし。じゃあね先輩。寒いから風邪引かないようにしてくださいねー」


 杏は振り向きもせず、舞子の元から立ち去っていった。

 そこに、松岡が現れた。


「西民先輩……ちょ、どうしたんですか!?」

「ううっ……くそお……」

「起きてください、先輩」

「まつおかあ……私は、悔しい……!!」

「何があったんですか? あ、いや……言わなくても大丈夫です。とにかく、こっちへ……うち、この近くですから……」


 もはや一人では歩けないほどに打ちのめされた舞子の肩を、松岡は抱えるようにして連れていった。舞子はただ、松岡にもたれかかることしかできなくなっていた。


「杏、お疲れ」

「……お疲れ」


 数日後。醍醐杏は、陸上部の同期である友達とともに、校舎の玄関先を歩いていた。


「聞いた? 舞子先輩のこと」

「……うん」

「松岡くんと付き合うことになったんだってね」

「そうみたいだね」


 しばしの沈黙。

 その後、杏はぽつりとつぶやいた。


「あーあ、好きだったんだけどなあ」

「しょうがないよ。でも……松岡くんなら、よかったじゃん」

「そうだね」

「きっといいカップルになるよ」


 そしてまた、沈黙。


「……あの、さ」

「何?」

「ちょっと、泣いていい?」

「……うん」


 杏は友達の肩にもたれかかり、静かに泣きだした。


「頑張ったよ、杏は。すごい頑張った。偉いよ」

「あの日以来、口もきいてもらえないんだ……当たり前だけど」

「仕方なかったんだよ。だって、舞子先輩は……そっちの人じゃ、なかったんだもん」

「どうせ手に入らないなら、いっそとことん嫌われようって思ったんだけど……つらいなあ。やっぱり、つらいなあ」


 ふたりは立ち止まり、そのまましばらく抱き合っていた。

 空はどこまでも青く、澄み切っていた。

 足元には、あの日舞子が捨てた『舞倶』が、誰にも気づかれずに転がっていた。

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