2015年 5月
再会の時は突然訪れた。
昼休み、知花はいつも通り中庭の端を陣取り、独りでパンを食べていた。「チリン」という鈴の音と共に足に生暖かさを感じ、驚いて下を向くと一匹の猫が足元に纏わり付いていた。前身真っ黒で赤い首輪をしており、足先だけが靴下を履いた様に白い。その白い部分に、見たことも無い魔力痕が何重にも折り重なっていた。しかも、左前足の指先が欠けている。虐待でもされたのかと心配になってぐっと近寄れば、どこかで見たことのある猫のような気がしてきた。
「あー!やっと見つけた!」
突然の大声に飛び上がった知花が振り向くと、なんと、あの男が立っているではないか。あの覗き魔が。
「あ…、あの時の…!」
「ごめん!本当にごめん!!ずっと謝りたくて探してたんだ。わざとじゃなかったんだよ。逃げたから信じてもらえないかもしれないけど……」
わざとだったら自分から謝りに来るなんてしないだろう。わざとじゃなくてもしないかもしれない。
「…うん。もう良いよ」
「えっ、本当?」
「うん。クラスと名前だけ教えて」
「えっ、やっぱ疑ってる…?1年2組、諏訪林太朗です…」
「分かった。この前の事はもう忘れて。他言無用、良い?」
ギロリと知花に睨まれた林太朗が、縮こまって頭を下げる。
「うん!本当にごめん!ほら、クロ行くよ!!」
そう言うと、知花の隣から離れようとしない猫を無理矢理抱いて校舎の方へ駆けて行った。
ハアーッと大きく息を吐く。緊張した。自分の裸を見た男というのもあるが、生徒とあんな風に言葉を交わすのが久しぶりだった。まあ、学年も違うしもう話すことは無いだろう。ほっとしていた知花は、翌日の昼休み目を疑うことになる。あの男が、諏訪林太朗が中庭の知花の指定席に居るではないか。
「…な…何してんの…?」
「あ!これ、お詫びにと思って買ってきたんだー。昼はいつもパンなの?好きなやつある?」
林太朗は5、6個のパンが入ったビニール袋をこちらに差し出した。
「いらない。そういうのいいから」
「えっ、そんなあ…」
落胆する林太朗に背を向けて歩き出そうとした知花の足に、またしても生暖かさが纏わり付いた。
「うわっ」あの靴下猫だ。
「珍しいなー!クロが誰かに懐くなんて。俺には17年間喉も鳴らしたことないのに」
アハハと林太朗が笑う。この男は一体どういうつもりなのだろう。何かを企んでいるに違いない。そうでなければ自分と接触を図ろうとする意味が分からない。
「ウニャン」足元の猫が短く鳴いて、大きな目でこちらを見上げた。
可愛い。知花は動物が好きなのだが、彼らに好かれたためしが無かった。実を言うと今すぐそのツヤツヤの頭を撫で回したかった。
「で、どういうつもりなの」
猫の魔力には誰も勝てない。林太朗の隣に腰を下ろし、無造作にパンを引っ掴んで聞く。クロは知花の隣にちんまりと箱座りした。
「どういうつもりって?」余ったパンを齧りながら、とぼけ顔の林太朗が聞き返す。
「どういうつもりで私にかまうの?」
「え…普通に、友達になりたいなあと思って」
「あぁ…」
このパターンか、と思った。知花の特異な出生や魔力を珍しがって、度胸試し的に近付いてくる者は今までもたくさん居た。そういう奴らは飽きればすぐどこかに行ってしまう。それ以外は疎んじて近付きもしない。だから随分前に独りで居ると決めたのだ。
「…藤城一族ってのが珍しくてそんな事言ってるなら、どっか行って。気分悪いから」
知花はクロを撫でるのを止め、シッシッと手を払った。
「ふじしろ…?なんだっけそれ、聞いたことある」
「は?」
「んー?ちょっと待って。受験のとき勉強した気がする…。俺、勉強苦手なんだよー。興味ある事しか覚えらんない」
「え、何、本当に知らないの?」
「いや!知らないんじゃなくて思い出せないだけ!どんな人達だっけ?」
林太朗の様子は嘘を付いている様には見えない。
「…たくさん人を殺した一族だよ。私はその血が流れてるの」
「あー…なんか思い出した。戦争の時でしょ?じいちゃんも言ってたなあ、そんなこと。アイヌは体も魔力も強いから、がんがん前で戦わされたって。そういう時代だったんだよ」
「…アイヌ…。北海道から来たの?」
北の果てには詳しい話が伝わっていないらしい。
「そうそう。釧路の奥の方。村で初めての魔法師学校合格者なんだよ!すごいでしょ?まあ1年浪人したけど」
へへ。と笑う林太朗を見て、知花の指先がじわり、じわり、と温かくなった。不思議な感覚だが、心地良い。
「あ、笑うと可愛いね」
「は?」
「もっと笑ったら良いよ」
顔に熱が集まって行くのを感じた。自分でも真っ赤になっているのが分るので、咄嗟に顔を伏せる。
「なしたの?怒った?」
声は本気で心配している様に聞こえるが、天然なんだろうか。それともただの女たらしか。
「林太朗ー!!」校舎の窓から男女数人が顔を覗かせている。
「なにー?!」
「グラウンド行かねえの!?」
「行く!ちょっと待ってて!!」
手に持っていたパンを一口で食べてしまうと、林太朗はまだ開けていないパンを全部知花に押し付け走って行ってしまった。残された知花は顔の熱が治まるまで無心でクロを撫で続けた。
次の日も、その次の日も、昼休みになると林太朗は知花に会いに中庭へやって来た。5分も経たずに仲間の元へ行ってしまう日もあれば、休み時間が終わるまで話し込んでいく時もある。その気まぐれなリズムが心地良くて特に拒むことはしなかった。クロに毎日会えるのも嬉しい。
「寮ってペット可なの?」
今更ながらの疑問だが、パンを齧りながら知花が聞く。
「可な訳ないよ!」
笑った林太朗がエノコログサでクロの鼻先をくすぐった。クロは完全無視を決め込んでいる。
「大丈夫なの?」
「寮母さんに頼み込んだんだよ。誰も荷物に紛れ込んでるなんて思わないでしょ。送り返そうとしても怒るしさ。頑固なんだよなあ。そんなに俺と離れたくなかったのか!クロ~」
林太朗はクロをグシャグシャと撫でてから、ぶちゅぶちゅと鼻っ面にキスをした。すかさず猫パンチが飛ぶ。
「いて!素直じゃないな!」
クロは隠れる様に知花の後ろへ座りなおした。
「生まれた時から一緒って良いよね」
林太朗が生まれたその日、玄関先に倒れていたクロをおじいちゃんが拾って来たというのはこの前聞いていた。
「うん。まあ実を言うと離れたくなかったのは俺なんだ。それがクロに伝わったんだと思う。こいつ優しいから。ここに入学出来たのもクロのおかげだし」
「そうなの?」
「そうそう。勉強さぼろうとすると猫パンチ飛んでくんの。おっかしーよね!魔法師になろうと思ったきっかけの1つもクロだしなあ」
「きっかけって?」
「足、白いとこあるでしょ。それ俺が生やしたの」
「えっ?じゃあここだけ欠けてるのは…」
「うん。まだ途中なんだ。あと1、2年で生えきるとは思うんだけど。ここまで17年かかったからねえ。あとちょっとだよ」
―『再生』―
かなり珍しい魔力だ。それも骨や身を形成できるような強力なもの…。
「怪我で足を失くしたの?」
「ううん、凍傷。うち来る前に結構彷徨い歩いたみたいでさ。4月つってもぜんぜん吹雪くからねー。な、大変だったんだよな」
林太朗が、その欠けた左前足を両手で包むように握った。クロは気持ち良さそうに目を細めている。
「知花は?」
「え?」
「なんでこの学校に来ようと思ったの?」
「――っ…」
考えた事も無かった。考える余地も無かった。
全て決まっていたのだ。この地に生まれた時点で、この血に生まれた時点で。
『再生』という希望に満ち溢れた魔力を持ったこの少年は、本気で聞いている。その事が知花を無性に恥ずかしく、惨めな気持ちにさせた。
「…ないよ」
「え?」
「理由なんて無い」
それだけ言って立ち上がり、校舎の方へ無心で歩いた。
「ウニャン」
短く鳴いたクロの声が、後ろから微かに聞こえた。




