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月の魔法  作者:
8/17

2015年 3月

 目覚めた時、「長い夢を見ていた」と鈴原知花は思った。その感覚は小さな頃から何度も味わった感覚だった。長い間、違う世界に居たような…。違う誰かになってしまったような…。

 そんなとりとめも無い思考を切り上げて起き上がり、カーテンを開ける。窓からは林しか見えないが、外は明るい。もう昼近いようだ。随分と寝てしまったが、春休みだしまあいいかと大きなあくびをして居間に向かう。

 テーブルにはラップをかけた皿が1つだけドンッと乗っていた。朝ごはんは手抜きでどんぶりになることが多いが、どんなに忙しくても母は必ず食事を作る。食に対する欲が無い知花にとって『食べる』という行為はかなり面倒な事なのだが、キッチンに向かう母が、

「体は食べた物で出来てる。料理は愛で出来てる。だからあんたはあたしの愛で出来てる」

と呪文の様に呟いていたのを聞いてから、後回しにしたり好き嫌いを言ったりするのをやめた。仕事で忙しい母なりの愛情表現なのだ。しかし、今年に入ってその多忙に拍車がかかってからは、食事を作る為だけに帰宅し、一緒に食べる暇も無くまた仕事に戻るということが続いている。適当に買って食べると言っても聞く耳持たずだ。知花だって今年で17になるのだから簡単な物なら自分で作ることだって出来る。

「…もう、ただの意地でしょ…」

スプーンでその親子丼をすくいながらひとりごちる。

テレビを付けると昼の情報番組が流れていた。「17年前はテレビも電話もここには無かった!」と母はよく愚痴る。今ではテレビや携帯電話はもちろん、ネットだって繋がっている。校舎を取り囲んでいた林は住宅地になり、学校関係者や、その隣の研究機関で働く者とその家族が暮らしている。魔法師学校へ通う生徒も、寮へ入る者と通いの者が半々といったところだ。

 藤城一族の脅威が無くなったとされてから17年。ここでの暮らしはどんどん便利になっていった。以前の様に閉鎖的な生活をする必要が無くなり、交通の整備なども進んで、学園都市として一つの町になりつつある。買い物だって近場で大抵の物は揃うし、娯楽施設も増えて、都心と殆ど変わらない生活を送ることが出来ている。

 変わらないと言っても本当のところは分からない。比べようが無いのだ。知花は生まれてこの方、この土地の外に一歩も出たことが無いのだから。母である尋花がそれを許さなかった。知花と尋花は相も変わらず、校舎の外れに建てられた小さな平屋で暮らしている。この町は尋花の開発した結界魔法ですっぽりと覆われ、厳重な警備が敷かれている。一族の脅威が無くなったからといって危険が無くなった訳ではないという理由だが、母の考えは違う。母はずっと藤城敬市郎が今も生きていると考えている。だからこそ、異例の若さで勝ち取った室長という立場を利用して、今年の初めに調査委員会を立ち上げたのだ。まるでそれが、父が生きている証拠だとでも言うように。

「本当にあんたは龍に似てる」

言われる度に分からなくなった。その笑顔は自分に向けられたものなのか。それとも、自分の中にある父の面影に向けられたものなのか。母は父を追い続けている。文字通り自分を殺してまで。

 右から左に流して見ていたテレビに、幼い子供を抱いた若い母親が映ってハッとした。そうだ、〝みいちゃん〟との約束をすっかり忘れていた。昼の1時に家に行くと伝えていたからもう殆ど時間が無い。いつの間にか食べ終わっていたどんぶりを流しに入れて、クローゼットから適当な服を掴み取る。一枚一枚脱ぐのがもどかしく、寝巻きと下着を重ねたまま脱ぎ捨てた。その時、

チリン。

小さな、本当に小さな鈴の音が一度だけ聞こえた。窓を見ると、黒猫を抱いた男子生徒が「あ」という口をあけて立っている。目が合って、しばらくお互い固まってしまった。そして自分も「あ」と声を出して裸だった事を思い出した。知花が服で体を隠したのと、男子生徒が一目散に逃げ出したのがほぼ同時だった。急いで服を着て外へ出たが、もう後姿さえ見当たらない。油断した。この辺りは今も宅地化が進んでおらず、滅多に人が来ないのだ。高等部の制服を着ていたが、見たことの無い顔だった。この時期に学校に居るという事は、新入生で初等教育を受けている者だろう。

「ああー…」

溜息と共に思わず声が出た。脱力してその場にしゃがみ込む。『のぞき』と言う訳ではなさそうだった。『たまたま』と言う方が正しい。けど……。

 顔を覆った手がやたらと冷たかった。




 「遅いね」

 時計が13時を回ったのを見て、自分の膝でまどろんでいる末娘に美輝は小さく話しかけた。知花はいつも、約束をしたらその10分前には必ずやって来る。尋花なんて昔から20分は遅れてやって来るというのに。会った事もない父親に姿だけでなく性格まで似るのは、やはり血なんだなと美輝は改めて思う。

 子育てをしていると、誰かを待っている時くらいしか物思いに耽る暇は無い。だからなのか、めずらしくあの子も大きくなったなあとしみじみ感じた。尋花から妊娠を知らされたのは、龍が学校を発ってから2ヶ月が過ぎた頃だった。あの日、負傷した特別部隊の者達が次々と運び込まれ、龍だけが行方知れずだと告げられたのだ。尋花は絶対に産むと譲らなかった。色々な人が反対したが、一番強く反対したのは光希だった。この状況では尋花にも生まれてくる子供にも負担が掛かりすぎると何度も説得していた。そして最後に泣きながら、「龍は死んだ」と言った。尋花は真っ直ぐ前だけを見て、「絶対に帰って来る」と言った。その目に涙は無かった。強い光だけが宿っていた。

 龍と藤城敬市郎の捜索は日本だけではなく海外にまで及んだが、たったの一つも手掛かりは出てこなかった。知花が生まれてからもそれは続いた。

 子育てを全面的にサポートしてくれたのは瀬野先生だ。定年まで数年が残っていたが、退職して尋花を支えてくれた。美輝や一馬、幕僚長も協力した。そして誰よりも知花を可愛がったのは、誰よりも出産を反対していた光希だった。一晩中知花を抱いていた姿を、美輝は昨日の事の様に思い出せる。しかし、卒業を控えていた光希は、この地を離れ一般の大学へ進む道を選んだ。彼が魔法師になる事は無かった。それからしばらく経って、『両者相打ち』の結論が出され、二人の兄を失った。

 その穴を埋めるため、美輝は一馬と〝そういう関係〟になる。とっかえひっかえ彼女を作っていた光希の気持ちが分かった気がした。寂しさを埋める為だけに利用していると本人に言い放った事だってあったのに、一馬は笑って傍に居てくれた。心の底から好きになってからも、付き合うという形は取れなかった。自分だけが幸せになるなんて、龍をなくし、独りで子育てをする尋花の前で到底出来る訳も無い。しかし違った。それは決して徒労ではなかったのだ。

 美輝と一馬が結婚したのは大学を卒業し、陸上自衛隊の特殊部隊へ入隊してから4年が経った頃だった。『両者相打ち』の結論が出されてから魔法師軍はすぐさま解体され、自衛隊に特殊部隊が新設される事となった。美輝と一馬は揃って入隊したが、昇格は美輝の方が早かった。そうして海外派遣のメンバーに選ばれる。戦地の最前線に立つのだから、命の保障は無い。一馬は、自分と結婚してこの仕事を辞めるよう美輝に言い募ったが、当然答えはノーだった。

 結局の所、妊娠は一馬の最終手段だった。尋花は常々「あいつは伊達に大家族の長男やってない」なんて事を言うが、本当にその通りだと思った。美輝の代理で海外派遣のメンバーになった一馬を、身重な体で見送った時、「こいつは絶対死なないな」と思った。もし自分が行っていたら死んでいたのだろうとも思った。そして、子供たちを育てて行く中で、段々と自分も死なないような気がしてきて、長い間己を支配していた孤独や不安が無くなっている事に気付いたのだ。こうやって尋花も生み育てる事で救われていたのだと、実感を伴って美輝は理解した。

 海外派遣後、日本へ戻ってからも各地へ単身赴任が続いていた一馬だったが、今年から通勤可能な駐屯地へ配属される事となった。しかし、生活は以前と左程変わらない。むしろ前より家族との時間は減っている。美輝も一馬も、尋花が立ち上げた調査委員会のメンバーだからだ。身動きの取れない尋花に代わり、今日も一馬は休日返上で二人の足取りを探しに青森まで行っている。美輝は子育て最優先の仕事量しか割り振られていないが、一馬がこれほど忙しいという事は、尋花はその何倍も忙しいという事だ。そうして知花が心配になって、今日約束を取り付けた。近くに住む瀬野先生も一緒に食事に出掛けようという話になっている。報告したい事もあった。4人目がお腹の中に居ることが分かったのだ。


 火と電気を使ったチャンバラごっこがヒートアップしている上二人を宥めていると、チャイムが鳴った。13時15分。知花にしては大幅な遅刻だ。

「どうしたの。遅かったね」そう言って玄関の扉を開けて招き入れるのだが、知花はいつまでも靴も脱がずに突っ立っている。顔が上気している。

「……は」

「は?」

「はだか見られた…」

そう言うと、その顔は益々赤くなっていった。




 「ともこさんも一緒にやろうよ」

 トランプにでも誘う様な調子で学生運動への参加を促した藤城晴花の声を、瀬野は今でもはっきりと覚えている。そして、何の返事もせずに席を立った自分に向けられた表情も。

 瀬野が、木崎と晴花が恋仲だと気付いたのは高校1年の秋頃だ。思い人の思い人は女なら誰しも分かるものだ。気付いた瞬間、体の中心から穢れていく様な感じがした。それ以来自身を何十年も支配していく〝嫉妬〟という感情が生まれ出た瞬間であった。晴花が死んだ時は喜びさえ感じていた。バチは当たるものなのだと思った。婚約者がありながら、他の者を愛したりするからだ。ましてや子供まで産むなど…。

 尋花の存在が明らかになり、裕花の元を訪ねた時は、怒りや嫉妬を通り越して絶望を感じた。一目見て、先生の子だと分かった。瀬野が教職の道へ進んだのは木崎の傍に居る為だ。しかし、献身的なサポートを続ける瀬野の姿が木崎の目に映る事は無かった。彼の頭の中はいつでもあの事件でいっぱいだった。晴花は死んでもなお、先生を捕らえて離さなかったのだ。瀬野が一番に望むものまで手に入れていたというのに。

 そんな思いを一言も伝えられぬまま、先生は死んでしまった。虚無感で身動きが取れなくなっていた時、瀬野は尋花から妊娠を打ち明けられた。誰よりも先にその事実を知った。無意識のうちに「生みなさい」と声が出て、「一緒に育てます」と言っていた。自分でも驚いたが、尋花はもっと驚いていた。みるみるうちにその顔は泣き顔に変わって、彼女は「自分は死んだと母に伝えて欲しい」と言ったのだ。藤城家の魔力を持った自分が傍に居れば、何の魔力も持たない裕花にまで危険が及ぶかもしれないと考えての事だった。ついこの間、母親と離れたくないと泣いていた娘には重すぎる決断だった。尋花のその姿を見て、瀬野も決意したのだ。この地では自分が尋花の母になろうと。その日、瀬野は初めて先生への思いを口にした。誰にも言えなかった思いを尋花にだけ打ち明けた。その日は夜通し二人揃って泣いた。

 校長や入院中の幕僚長とも話し合い、生まれてくる子は幕僚長の子供として鈴原家の戸籍に入れることにし、作っておいた偽の遺骨を持って、瀬野はひとりきりで裕花の元へ向かった。玄関先でその姿を見た裕花は、ぐっと唇を噛んで瀬野を招き入れた。そして、床に額を付けたまま上げない瀬野に向かって、

「龍くんは一緒だったんですか」とだけ聞いた。一瞬言葉に詰まったが、搾り出す様に、

「最後まで一緒でした」と伝えた。

 その後、裕花は仕事を辞め、生まれ育った孤児院でシスターをしている。

 裕花の元を訪れてから数ヵ月後、知花は無事生まれた。出産には瀬野だけが立ち会った。生まれたばかりの知花を腕に抱いた時、自然と笑みがこぼれ、終いには声を出して笑っていた。

なんてことはない。なんて自然なことだろう。

 世間が騒いでいる様な悲劇の果てでも無く、ましてや嫉妬や憎しみに値する様なものでも無く。こうやって晴花も裕花を生んだのかと思うと、長い間自分を縛り続けていた感情は一瞬にして消え去った。こちらに見向きもしない男など早々に忘れて、自分も子供を生んでみれば良かったと思った。


「先生聞いてる?」

怒っているのか、泣きそうなのか、向かいに座った知花が変な顔をして言う。

「…良いじゃない、裸くらい。減るもんじゃないし」

食後のコーヒーを飲みながら瀬野はあっさりと言い放った。カフェに着いた時点で、何があったかは笑いを堪えた美輝から聞いていた。

「そうだけど…減ったよ。心が…、心が減った」

キッズスペースの方に居る美輝とその子供達を見ながら、この世の終わりの様な声で知花が言う。その言葉に吹き出した瀬野を見て、知花は益々変な顔になった。

「若いわねえ」

そう言って、膨れた頬に手を伸ばす。

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