2015年 9月
朝、ダイニングテーブルの上には、食事代と一緒に『ほしいものとかなんかある?』と大きな字で書かれたメモが乗っていた。
ああもうこんな季節かと知花は憂鬱な気持ちになる。答えはいつも決まっていて『特に無い』なのだが、母は律儀に毎年聞いてくる。自分の誕生日をオメデタイなどと思えなくなって、もう何年が経っただろう。知花はそのメモをグシャグシャに丸めてゴミ箱に捨てた。意地でも作っていた食事すらここ最近は作れていないのに、プレゼントを買いに行く余裕など在る訳が無い。
「欲しい物なんかある?」
昼休み、何気ない調子で林太朗が聞くので、知花は驚いて目を見開く。
「…なんで?」
「え?知花そろそろ誕生日でしょ」
「え」
なぜ知っているのだろう。家族以外に誕生日を祝われた事が無いのだから、知られる筈も無いのに。知花の表情を見て悟ったらしい林太朗が言う。
「知花の担任の先生に聞いた!」
個人情報保護法とは何なのだろうか。
「なんかないの?何でも良いよー。え?何?俺が欲しいって?あ、すいません何でもないです」知花の冷め切った目を見て林太朗が縮こまる。
「…おめでとうって言って」
「え?そんだけ?」
「うん。それだけで良い」
誕生日当日、林太朗はハーモニカを持って来て『おめでとうのうた』というでたらめな歌を歌ってくれた。馬鹿でかい声を聞きつけた者達が面白がって囃し立てたりしたが、あまりにも変てこな歌だったため、知花は人目も気にせず笑っていた。今日はもうこのままの気持ちでいようと決め、一日中何度も頭の中で『おめでとうのうた』をリピートした。
午後、美輝から「帰りに寄って」と連絡があり、放課後真っ直ぐ美輝達の住むアパートへ向かう。玄関の扉からチビ達3人が顔を出していて、知花の姿を見ると待ち切れんとばかりに駆け寄って、クラッカーを鳴らした。手を引かれて居間に入れば、祖父と瀬野先生も居て、テーブルの上にはホールのケーキが2つも乗っていた。ケーキに目が釘付けのチビ達が「早く早く」と騒ぐ中、美輝が知花に「尋花と一馬は仕事終わり次第すぐ来るって」と耳打ちする。瀬野先生が、お腹がだいぶ大きくなった美輝を無理矢理座らせ、台所から包丁とろうそくを持って来た。長男坊が先生からろうそくを受け取り、ケーキに挿して「ちいちゃんのために練習したんだよ」と得意げに言うと、先生が電気を消した。
瞬間、ポンッと一斉にろうそくに火が灯った。すごいすごいと頭やほっぺをグシャグシャしてやっている間に、下のチビ達がハッピーバースデーを歌い始め、皆それに続いた。
ろうそくの火に照らされる笑顔を見ながら、きっと自分も笑えていると思った。皆の歌と一緒に林太朗の『おめでとうのうた』も頭の中で聴こえた。
子供達を寝かしつけた美輝がケータイを持って廊下に出る。酒に弱い祖父はソファですっかり寝てしまっているし、忙しく動き回っていた瀬野先生も先程からうつらうつらする回数が増えてきた。
静かな廊下に出ると、コール音が聞こえた。電話を切った美輝がこちらへ振り向く。
「二人とも、そろそろ帰って来るとは思うんだけど…」
無理に笑うその顔を、もう3回も見ていた。美輝と瀬野先生にお礼を言って、アパートを後にした。
満月がもうだいぶ高い位置にある。『おめでとうのうた』を口ずさみながら歩いた。でたらめな歌だったから、途中途中分からない所は飛ばして歌う。そうしているうちにどんどん思い出せなくなって、家に着き、玄関の扉を閉めた瞬間、それは完全に聴こえなくなった。
静まり返った部屋の中を月明かりだけがぼうっと照らしている。どれくらいその中に立っていたのか分からない。ガチャリと音がして振り向くと、母が玄関の扉を開けたところだった。
「良かったー!まだ起きてた。電気消えてるからさ、もう寝ようとしてた?」
そう言いながら靴を脱いで、知花の元へ駆け寄る。
「ごめん、遅くなって。これどうしても今日中にあんたに見せたくて」
誕生日おめでとう、そう言って渡されたファイルの表紙には父の名前があった様に思う。はっきり見えなかった。手に取った瞬間、砂になって散ってしまったからだ。
「あ」と小さな声がした。自分が言ったのか母が言ったのか分からない。月明かりに照らし出された顔を見て、ふと、藤城敬市郎と対峙した母は、一体どんな顔をしたのだろうと思った。
気付くと家を飛び出していた。後ろから母が追いかけてくるのが分かったが、知花の全速力に尋花が追いつける訳も無かった。身に纏った服は消し飛んだ。地面を踏み締める度、足の下の土や草が無に帰って行くのが分かる。
走って走ってたどり着いたのは学校の中庭だった。知花にとってそこはもう一人孤独に過ごす為の場所ではなくなっていた。あのへんてこな歌が、笑顔が、ふれてしまった時心地良かったあの手が、全て知花の逃げ場所になっていた。しかし、それも今ははっきり思い出せない。記憶まで分解されていく様な気がした。痛みも、喜びも、何も無い。凍りついた暗闇に落ちていく。地面にひざまずけば、触れ合った部分から分解の波が広がっていった。
ずっとずっとこうしたかったのだ。それでも知花は必死に思い出そうとした。あの温もりを覚えていたかった。
〝チリン〟と、小さな鈴の音がした。
顔を上げれば、クロを抱いた林太朗が遠くに見える。視界が滲んでいて、夢なのか現実なのか分からない。
「知花!!」
はっきりとそう呼ばれて、夢ではないと分かった。こちらへ駆け寄ってくる。知花は叫んだ。
「来ないで!!」
林太朗の足が目の前まで来ていた。
「知花…っ」
「来ないで…!」
ぼたぼたと顔を伝う雫がいくつも落ちた。次の瞬間、知花は林太朗の腕の中にいた。懸命にもがいたが、華奢なその体はびくともしなかった。林太朗が着ていた服が分解され、肌と肌が直接触れ合う。知花は強く目を瞑った。そこから零れた涙を拭うように、林太朗の手が頬に触れる。
「知花、見て」
知花は恐る恐る目を開けた。
「俺は大丈夫。傷ついたってすぐ治るから」
その言葉通り、触れ合った肌は知花の分解を上回る速さで再生していた。
「大丈夫。誰も傷つかないよ」
背中を撫でる手が温かい。知花も同じ様に腕を回して、深く深く抱き合った。溶け合って、ゼロになっていく。
知花の力の放出はピタリと止まった。
林太朗が寮から持って来た服を着て、家までの道を並んで歩いた。お互いの手をしっかりと繋ぎ合う。
「…どうして分かったの」真上に昇った満月を見ながらぼんやりと知花が聞いた。「私があそこにいること」
「クロが…」
「クロ?」
「あいつ、たまに夜になるとふらっとどこかに行くんだよ。いつもなら一人で勝手に行かせるんだけど、今日はなぜか追いかけなきゃダメな気がして…。あいつ、魔力でも持ってんのかな?」
林太朗は冗談なのか本気なのか分からない顔をしている。魔力は人類特有のものだと習っていたが、林太朗がそう言うならそうなのかもしれないと知花は思った。
「そう言えばクロは?」
「部屋戻ったんじゃないかな。俺らに気使ったんじゃない?あ、知花」
前方に母の姿があった。家の手前にあるベンチに座っている。こちらに気付いた様で、立ち上がるのが見えた。
「大丈夫だよ」そう言って、林太朗が繋いでいた手をぎゅっと握った。知花は両手でそれを包み込み、「ありがとう」と答えた。温かなその手を離し、母の元へ向かう。
「知花…!」
今度は尋花がその手を握った。氷の様に冷たかった。散々探し回ったのだろう。足元は泥だらけだった。尋花は向こうにいる林太朗に目を移すと、深く頭を下げた。林太朗も答える様に頭を下げて、その場を立ち去る。
「知花、あんたいつから…、いつからあの力を…?」
そう言って知花を見つめた目は真っ赤だった。知花は随分前から知っていた。自分の前で決して涙を見せない母が、時々このベンチに座ってこっそりと泣いていた事を。母の手を引いてそのベンチに一緒に座る。
「はっきり思い出せない…小学校卒業する時にはもう現れてたと思う」
「そんなに…!そんなに前から…」尋花が繋いでいた手に力を込めた。「どうして言わなかったの」
口調とは裏腹にその表情の中に怒りは無かった。気付けなかった自分を責めている。知花は目を瞑って深く息を吐いた。口元が震えていると自分でも分かった。
「怖かった」
繋いだ手も震えている。しかし、はっきりと声は出た。
「ママが後悔するんじゃないかって、怖かった」
「後悔?何を?」
「私を産んだこと」
涙が零れるより早く嗚咽が漏れた。ずっとずっと怖くて言えなかった言葉だった。後から後から涙が溢れ出し、自分の意思ではもう止められない。
「なんでそんなこと言うの…!」
尋花が知花の腕を掴み強く揺すった。呼応する様に知花の口調も荒ぶった。
「じゃあママはどうして私を産んだの?!どうして今もお父さんの事を追ってるの?!…私はお父さんの代わりにはなれない…」
「―――っ!」
絶句している。言葉を失っている母に向かって、知花は追い討ちを掛ける様に言った。
「分解の力が大きくなるに連れて、お父さんの硬化の力がどんどん小さくなっていくの。多分、そのうち消えて無くなる…そしたら、私は…」
「あんた、ずっとそんな風に思ってたの?」
「え…?」
「あたしがあんたを龍の代わりに産んだと思ってたの?」
「…違うの…?」
「違うに決まってるでしょ!!あたしはあたしが生きていくためにあんたを生んだの」
「…ママが生きていくため?」
「そうだよ!あんたがいなきゃ、辛くて辛くて生きて行く決心がつかなかった。だから生んだの。誰かの代わりにするためなんかじゃないよ!いつあたしがそんなこと言った?!」
「…じゃあ、どうして今もお父さんの事を調べ続けてるの?」
「それは…」
「私の中にお父さんの姿を見てるからじゃないの?」
「違う…っ、あたしは…!」
尋花の目から堰を切った様に涙が溢れた。
「あたしはただ、龍にあんたを見せたかっただけ」
泣きじゃくる母はあどけない少女の様だった。
「あんたに…龍を見せたかった…。三人で一緒に生きてみたかったの…っ、ただそれだけだよ…。知花、ごめん…ごめんね」
何度も何度も謝り、俯いて泣き続ける尋花を、知花はそっと抱きしめた。自分よりずっと小さなその肩に顔を埋めて母の匂いを吸い込めば、涙が溢れて止まらなくなった。この匂いを最後にかいだのが、もう随分と昔のことの様に思える。
「私は、ママが居てくれればそれで良いよ。今までだってそうだったんだから…もう、一人でご飯食べるの嫌だ」
「うん、うん…っ、ごめん、ごめんね」
背中に回された手の温もりが懐かしい。二人を照らす月明かりさえ温かく感じる。
遠くで〝チリン〟と小さな鈴の音がしたが、二人分の嗚咽でそれはすぐにかき消された。
翌日、尋花の立ち上げた調査委員会は解散した。




