表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜乞叉姫恋恋(やしゃきれんれん)

作者: 高沢りえ


 もうすぐ、満ちる。

 十六夜月が、都をあかあかと照らしだしている。大路をゆく牛車もたえた夜中、とある屋敷の殿の内まで届いた月光は、女の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 腰を抜かして、床に倒れ込んだ男は、脇息を女に向けて投げつけた。女はよける素振りも見せない。

 青ざめた頬をゆがめ、女はほほえんだ。

「もうおしまい?」

 恐怖で動けなくなった男に、そうっと身を寄せる。寝はだけた胸に、女は長い爪で格子の模様をきざんだ。おびえきった目を、うれしそうにみつめた。

「きれいね」

 血で染まった指を、女はゆっくりと舐った。

「あらがうのはよしたの。つまらない、わ」

 女は口元をぺろりとなめた。厚みのある艶やかな唇から、鋭い犬歯がのぞいた。

「なら、おやすみ」

 首に手をかけたとき、間延びした猫の声が響いた。

 女は男の首根っこをつかみあげたまま、ぐるりとそちらへ顔を向けた。白い猫がいる。月の光をためて、みずから光り輝いているかのような、うつくしい生き物だった。

 長い尾は、ふたつに分かれている。するりと戸の隙間をぬけだし、なおも甘え声で鳴き続ける猫に、すっかり興をそがれ、女は舌打ちをした。

 男を手荒に放り出すと、女は妻戸を蹴り開け、とんと欄干を飛びこえた。紅の袴がたなびき、白いすねがのぞいた。

 築地塀を足がかりにして、さらに高くへ跳躍すると、ぐんと月が近くなった。やけにすばしこい猫だ。白描を追って、女は大路へさしかかった。

「よくも邪魔をしてくれたな」

 長い髪を揺らし、血にまみれた紅い唇をゆがませ、夜乞叉姫は叫ぶように笑った。

 追いかけるのは、楽しい。追いついたらその肉を引き裂いて、骨までしゃぶり食らってやろう。

「おーい、おーい」

 甲高い声がした。小柄な人影が路に立って、両手を振っている。

 牛を外した車が停まっている。大路が川だとすれば、渡し石のように点々と。ちょうどいい。

「こっち、こっち!」

 ひとつ車を踏みつけにしたところで、足下が抜けた。女の体はちいさな網代車のなかにすっぽりと落ちこんだ。ぬけだそうともがくと、四方から竹の杖が突き出され、もがく女の体の自由を奪った。

「かかったぞ」「逃がすな」

 ざわめく声に、歯噛みをする。女は唸った。

 車の内側には、墨の黒々とした札が、びっしりと張りつけられていた。力がみるみるうちに奪われていく。女は悲鳴を上げた。

「誰だ」

 天井にあいた穴から、月がのぞいている。そこに被さるように、ぴょこりと小さな顔がのぞいた。

「名乗るまでもねぇあよ」

 猫の鳴き声がまじった、甘やかすような声だ。

「聞いても仕方にゃい。あたしにみんな食べられちゃうんだからね」

 翡穂色の瞳をした水干姿の娘は、みずらに結った髪を揺らしながら、ふてぶてしく笑った。

 舌なめずりを、ひとつ。

「さあ、覚悟しにゃさい」 

 朱音は超ふきげんだった。

 体が痛い、ぎしぎしいって、寝つけない。

 仕事のあとは、いつもこうだ。

「わたしの体なのに。はしゃいで飛び回るからこうなるの。聞いてる?」

 ぶつくさ言いながら顔をしかめると、足下に丸まった二つ尾の白描がのんきに鳴いた。

「知らにゃい」

 たしかに、そう聞こえた。

「にゃあ、祝殿。夜乞叉姫を捕まえられたんだから。そう怒るにゃよ」

「怒ってない、注意してるの」

 朱音は頬をふくらませた。

「わかった、枕が悪いんだろ。腕枕してあげよか」

 起きあがった白猫は、面倒そうに前足をついとさしだした。翡翠色の目が、機嫌を伺うように朱音をみおろした。

「いりません」

 五条にある古びた屋敷は、ひっそりと静かだった。

 竹林に三方を囲まれ、都にあって里の趣がある。といえば聞こえはよいが、年中青々としげる竹群が屋根に垂れかかり、昼なお薄暗い。

「忘れてないでしょうね、奈母呂。わたしたち、取り逃がしたのよ。鬼にとりつかれた人は助けられたけど、何にも解決しちゃいないんだから」

「あと少しだったのに、食べそこねちゃったね。ぐーぺこにゃ」

 近頃、都には夜乞叉が出る。うつくしい女君の姿をした鬼だ。

 幸い人死にはないが、人々は夜乞叉姫と呼んで恐れおののいている。

「もう二度と奈母呂を降ろしたりなんかしないから」

 どこでつけたか覚えていない、左の肘の大きな青あざを眺めながら、朱音はつぶやいた。夜乞叉を追いつめるまでが大変で、都じゅうをかけずり回った。その苦労を思い返したくはないが、疲労が体にしっかり刻まれている。

「それ何度言った? 一生一緒の一蓮托生にゃんだからさ、もっと仲良くしようにゃ」

 そう言われても、うなずきたくはない。

 奈母呂は阿倍の娘につく、なんだかよくわからないものだ。説明しようにも、うまくは言えない。

 亡くなった母から受け継いで、一年になろうとしている。

 陰陽師のつかう式神のようではあるが、飼い慣らせるわけでもない。

 自由気ままでわがままで、何より朱音の膝の上でごろごろするのが大好きだという、変わりモノだ。

 朱音は奈母呂を神おろしすることで、常人離れしたことができる。

 たとえば、高い築地塀を乗り越えたり、牛車の屋根を踏み石を跳ぶように行き来したり。そのつけは、こうしてあとから来るのだ。

「仕事だもん、文句いうにゃ。いやなら、やめにゃ」

「もう黙って」

 朱音は、上掛けの衣を頭からかぶった。

 水干を着込み、髪をみずらに結うといった男装で、奈母呂と溶けあい力をつかう。人を助けて感謝されればうれしいが、人並みから大いにはずれているという自覚もある。

 あられもない姿を見られて、胸を張っていられるほど朱音は世慣れてもいなかった。

 父は平凡な官吏だ。数年前は殿上すら許されない地下のひとりでもあった。陸奥守をつとめたとき、母と出会い恋に落ちたらしい。

 母は、代々験者の家柄で、勧請調伏を心得ていた。都に戻った後、母は奈母呂とともに仕事をはじめた。人にとりついた妖霊のたぐいを、母が解呪し、奈母呂が食うのだ。

 ある時えらいお大臣を助けたことで、父は身に余るような官位を得て、五条に住まいを移した。屋敷の竹林を一目で気に入ったのは、母だという。

 ふくろうの声がした。

 秘密の合図だ。

 朱音はうぐいすの声を返した。

 妻戸が静かに開いて、きき慣れた香が漂ってきた。きしむ体をおこして、朱音は幼なじみをみあげた。

「こんばんは、朱音」

 落ち着いた低い声音は、ひそやかで遠慮がちだった。

「こんばんは、俊」

 藤原俊之は、簀の子のところで立ち止まり、たらした御簾を少しだけずらして顔を見せた。

 ここ数年できゅうに背が伸び、見下ろしてくるまなざしも大人びたような気がする。

 俊之が十七、朱音は十五。となり同士、ともに遊び育った筒井筒の仲で、気兼ねはいっさい無用の間柄だ。楽しければ転げ回って笑い、喧嘩をするなら本気の手加減なし。

 最近は喧嘩がつづいていたのだと、朱音は気まずい思いで彼と向き合った。

「雲が晴れて、月がうつくしいよ」

 いくらか緊張した様子だった。らしくなくて、おかしい。まるで、ういういしい恋人同士みたいだ。

 朱音はへんにうろたえてしまった。上着をひきかぶり、いまさら、髪をなでつけた。

「なにしにきたの?」

 朱音は簀の子へ出て、彼のそばに腰を下ろした。

「そのう、きみがどうしてるかな。というか、ようするにさ、礼を言いに来たんだよ、姉さんのことで」

 俊之はうわずった声で言った。

 満月が明るく庭を照らしている。その光は幼なじみのこわばった横顔を、あますところなく朱音にみせた。

「ありがとう。きみがいなけりゃ、助けられなかったよ」

 打ち解けてそんな風に言われると、やはりうれしい。言葉もなく見合っているのが落ち着かなくて、顔を隠せる扇でも、硯のふたでもあればいいのにと思うくらいだった。

 俊之を前にして、こんな風に思うのははじめてだ。

「舎人を何人も引き連れて行きながら、何の役にも立たなかった。きみに頼りきりで」

「気にしなくていいのに。晴子殿の一大事でしょう。助太刀だって、勝手にしたことだし」

 朱音はひざを抱えてうつむいた。俊之はそっと言い出した。

「きみには恩がある。姉さんのことを公にせずにすんだのは、きみが口をつぐんでくれたからだ」

「当たり前じゃない。晴子殿は入内をお控えになった、晴れがましい身の上なんだから。それに、姉様みたいに思っているのよ。お守りしなくちゃ」

 俊之は、目を細めた。

「あの、さ。きみのそういうところ」

 指が朱音のあごに添えられ、顔を上向かせられた。俊之は照れくさそうに見下ろしてきた。

「すごくいいと思うよ」

 笑みが刻まれると、りりしい面立ちに、人好きのする甘さが加わるのだった。

 役に立てたというのなら、この笑顔だけでじゅうぶん報われたような気さえする。

「なんだ、おれの顔に何かついてるか?」

 薄い唇が、ため息を落とした。

「なにも。ただ、見てただけ」

 俊之はおかしそうに眉を上げた。

「見飽きたろう。おれの顔など」

「そんなことない」

 気恥ずかしくなって朱音は言い添えた。

「笑顔は久しく見てない気がして」

 目をみはった俊之は、ちいさく吹き出した。

「わるかった。このところ、ずっと難しい顔をしていただろう」

 鳴りだした胸にとまどい、俊之の笑顔から目をそらした。

「きみには迷惑をかけてばっかりだな。このうえ、さらに頼みごとをするのは心苦しいんだが。じつはさ、夜乞叉姫のことが解決するまで、姉さんについていてほしいんだ」

(にゃに! 冗談じゃにゃい)

 くぐもった抗議の声が聞こえた。衣の下に奈母呂がいるのを忘れていた。

「姉さんが誰も寄せつけなくて困ってる。ああ見えて、頑固者だからな。またいつ屋敷を飛び出ていくかと、気が気じゃないんだ」

 俊之は物思わしげにつぶやいた。

「きみは昔から姉さんと気が合っただろう。なんとか頼むよ、この通りだ」


 池へと張り出した釣殿に、一はりのそうの琴が置かれている。

 かき鳴らすたびに生じる音が、水面をしずかにふるわせるようだった。

 細く白い指が迷いなく動き、音が奏でられる。天上の音楽とは、きっとこんなふうに清らかで、雑多な憂いを忘れさせてくれるものなのだろう。

 朱音は晴子の横顔を盗み見た。面やつれしていてもなお美しい、典雅な雰囲気だ。

(何をお考えなんだろう)

 清らかな横顔からは、何も読みとれない。

 幼い頃、朱音が遊びに行くと、いつもうれしそうに袖を引いてくれた。貝あわせが一番の得意で、あふれんばかりの貝を両手に持って笑ってみせると、やんちゃな俊之そっくりに思えたものだ。

 半年ほど前に入内話が持ち上がると、腹心の女房さえも遠ざけて、物思いに耽る日々が続いていたという。

 陰陽師も僧侶も、彼女を快復させることはできなかった。

 そして数日前、晴子は床を抜け出し単衣で端近までふらりと出た。女房が目を離したわずかの隙に、欄干を乗り越え、駆けだして行ったらしい。

 朱音は両手をひざの上で握った。

 最後の一音が、昼過ぎの物憂いけだるさを縫うように響いて消えていった。

「心の雲も晴れるような、澄んだ音がいたしますね」

 じっと見据えられ、朱音は息をのんだ。

「聞き手がいてくれてうれしいわ」

 晴子はかすかにほほえんだ。

「楽の音は、奏でる人の心をはっきり映し出すというけれど。わたくしの心の内は、野分のようなのよ、朱音」

 苦しげに目を細めた晴子は、うつむいた。

「ずっとそう。荒ぶる風がやまないの」

「入内が、おいやなのですか」

「わたくしの気持ちなど、どうでもいいの。この身は、時をかけて用意された調度と同じ。欠けなくそろえて、帝に差し出す贈り物なのよ」

「そんな風におっしゃらないで」

 朱音は唇を結んだ。

「女御様がご健在なら、わたくしなど出る幕ではないのに」

 一年前、登花殿女御が病にかかった。命は取り留めたが、父の右大臣を喪い気力をなくし、里に下がるとほどなくして孤独の内に亡くなった。

 朱音の母もそのときに帰らぬ人となった。死に顔は眠っているように穏やかだったけれど、残された者としては、それが憎らしいほどだった。

「夜乞叉になったときのことを、覚えているわ」

 晴子は、ほほにかかった髪を真珠色の爪でそっと払った。

「とても、気持ちがよかった。しがらみから解き放たれて、なんでも思いのままだった」

 弦を指ではじく。ぞんざいな仕草だった。

「人の命を吸って、彼らはわたくしを強くうつくしい存在にするの」

 朱音は息をのんだ。うつむいた晴子は、いとわしそうに髪を揺らした。

「あてがわれた相手と、用意された恋をして。それはどんなにつまらぬことでしょう。ごめんだわ。入内などするより、夜乞叉になったほうがましよ。自分の心を封じられ、政治のための道具として扱われることなど、がまんならない」

 晴子は、薄い草子をさしだした。何度も繰ったあとがある。

「夜乞叉になりたいと。そう思うのは、わたくしだけではないはずよ」

 憎しみとも悲しみとも嘲弄ともつかない笑みが、白い面輪を陰のあるうつくしさで彩った。

 朱音が通されたのは、東の殿だった。

 調度はすべて拭き上げられ、ちりひとつ見あたらない。屏風には、松の林と広々とした海原が描かれている。化粧道具をしまってある唐櫛笥は、古めかしいが螺鈿細工も美々しかった。

 立てかけられた鏡に自分の顔を映すと、驚くほどこわばっていた。

(夜乞叉になりたいと。そう思うのは、わたくしだけではないはずよ)

 晴子の声が耳の奥にこびりついている。

 まるで、夜乞叉が救いをもたらすと信じているかのようだった。

 草子を開こうとしたが、ためらったすえにやめにした。開けば、奔放な夜乞叉が目の前に舞い降りてきそうで怖かったのだ。いつ何時、どんなことをきっかけに夜乞叉を歓迎する心持ちになるのかと想像すると、背筋が冷えた。晴子は身近な人で、ごくふつうの女人だったから、なおさらだ。

 畳の青あおとしたのを撫でていると、簀の子のほうから足音がする。入るよとも言わず、御簾をかきあげて俊之が顔を見せた。

「やあ、姉さんのご機嫌はどうだった」

 どこから話すべきか考えても、うまくまとまらなくて、もどかしい。

「何を言われた。教えてくれ」

「晴子殿は、魅入られているのよ。夜乞叉を望んでいるの」

 口にすると、胸がいっそう重苦しくなった。

「姉さんがそう言ったのか?」

 俊之は頬をひきつらせた。草子を渡すと、彼はいとわしそうに眉間にしわを寄せた。

「なよたけの鬼姫、か」

「夜乞叉になりたいと、そう思うのは、自分だけではないはずだって」

 あぐらをかいた俊之は、うなだれたまま、自分のひたいを拳で何度も打った。

「どうしたの」

「これを姉さんに渡したのは、おれだ。ちょっと面白いのがあると聞いて、慰めになればと思って。本当、後悔しているよ。おれは考えなしだった。姉さんを悩ませるようなことをして」

「ただの物語でしょう」

 俊之はちらりと朱音を見やった。

「夜眠れず、うなされるようになったのは、この物語を読んでからだ。人がかわったようになったのも。偶然と言えるか?」

「必然の結果とも思えないけど」

「まあ、あらすじを聞いてくれ。竹から生まれたうつくしい姫が、初恋の人を殺され、恨みのあまり鬼になる。あまたの求婚者を一人残らず血の海に沈めるんだ」

 朱音は言葉をうしなった。屏風の青あおとした海原が、一瞬のうちに真っ赤に染まって見えた。頭を振って目を閉じたが、まぼろしは振り払えそうになかった。

「そして都で悪行の限りをつくす。討ち取ろうと太刀や弓を携えて、やってきた男たちを、ここでもやはり皆殺しにする。内裏は火の海。燃えさかる紫宸殿で、髑髏を杯にして、鬼が恋人の亡霊と酒を酌み交わすところで物語は終わる」

 うんざりした顔つきで、俊之は唇をつぐんだ。

「それだけの話だ」

 あらすじを聞く限り、両家の姫君が楽しめる読み物とも思えない。

「入内の話が出てから、晴子殿は様子がおかしくなったのでしょう」

 俊之は口ごもった。

「姉さんには、実は好きな人がいたんだ。家にもよくいらしてた」

 心当たりがあって、朱音は声を上げた。

「晴子殿の書の師匠?」

「うん。源家理殿だ。床にふせがちだった姉さんの話し相手で、ずっと年上のお方だったけど。おれたちともよく遊んでくれたな」

 雨上がりの庭先で、咲き初めた紫陽花に手をのべて笑んでいた人のことをはっきりと覚えている。

「姉さんは、あの方が好きだったんだ。たぶん、語り合う仲だったのだろう。姉さんは、あの方といると、とても幸せそうだったよ」

 朱音は頬が熱くなるのを感じた。語り合うとは、つまり、親しい男女の間柄ということだ。

「登花殿女御様が床に伏せられると、入内の話も現実味を帯びてきた。家理殿はほどなくして、遠方へ左遷されたんだ。噂になったほど急なことだったよ」

 いつのまにか日は陰り、室は薄暗くなった。

「初恋を失って、晴子殿は捨て身になっているというの」

「追っていきたいという気持ちが、憧れ出ているのかもしれない」

 俊之は、唇を噛んだ。

「現実は、ままならないことばかりだからな」

 草子を手に取った朱音は、表紙にそっと唇を押し当てた。

「解」

 すると、重なり合う紙のすき間から、煙のようにたちのぼるものがあった。灰色の煙は口を大きく開いた憤怒の表情を形作り、すぐに消えてしまった。

 朱音と俊之は、顔を見合わせた。

「この物語を一番はじめに書いた人を、探しましょう。何か手がかりがつかめるかもしれない」


 かぐや姫のしろい頬に、涙がつうとながれて落ちました。

「どうか、常盤のように瑞々しく健やかに、いつまでもお元気で」

 恋しいお方に言い残し、姫は空を見上げたのです。

 昼かと見まがうほど、空を明るい満月が照らしておりました。

 豪勢な車に錦で着飾った徒歩の供人たち。使いの列は果てもなく、御幸より仰々しいほどです。

「姫を、行かせてはならぬ」

 月光のもとに、そのお声はむなしく響くばかりでございました。

 帝はただ、お手を伸ばされました。姫の衣のすそに、あとすこしで届こうというそのとき、姫は一度だけ振り返り、そうっとほほえんだのです。

「ずっと、ずっと、お慕いしております」

 かぐや姫は、天上の御殿へお帰りになりました。

 地上に残されたのは、希有なる宝。

 うつくしい赤子だったのでございます。


 小弁は筆を置いた。墨がとうとう尽きたのだ。同僚のいびきに興をそがれたというのもある。狭い局は文机を置くにもきゅうくつだ。

 昼間は華やかでにぎにぎしい後宮だが、日が落ちて一人二人と寝入ってしまうと、うるさい雑音も消え、まるで荒れ屋敷の片隅にひとりきり座しているような気さえする。その想像が愉快で、小弁は声もなく笑った。

 かた、と物音がする。

 はっとして顔を上げると、御簾のむこうに人の気配がある。

 息を殺すと、壁代が不自然に揺れた。

「もし、おたずねいたします」

 低い、男の声だ。寝たふりをしようかとも思ったが、品のよい声と、ふいの風が運んできた香はかぐわしく、小弁のおそれを拭った。

「なんでしょう?」

「なよたけ姫をご存じですか」

「決して手に入らない恋人をお探しですか」

 声が震えていないといいが。御簾の向こうの人はかすかに笑った。

「それもいい。ですが今夜は、なよたけの鬼姫という、近頃評判の物語の作者を捜しているのですよ」

 小弁はためらった。書きためた料紙の束をみつめた。そうして、首を横に振った。

「ずいぶん前に、出て行かれました」

「そうですか、それは残念だ」

 遠ざかる足音にほっとしたとき、突然御簾が巻き上げられた。顔をのぞかせたのは翡翠色の瞳をした麗しい公達だった。彼はほんの一瞬、小弁をみつめて悪びれもせずにほほえんだ。そして、あっという間に文机のうえの料紙をさらった。

「あ、あのう」

「確かに」

 形のよい口元に扇をとん、と当てて、公達はため息をおとした。

「あなたではないようだ。新味も毒もない。つまらぬ模倣だ」

 よけいなお世話だ。そもそも、見せようと思って書いたものではない。

 辱められたような気がして、筆を投げつけると、男の顔と胸元に墨がとんだ。小弁は我に返って息をのんだが、彼は頬を拭いもせず、やさしく目を細めた。二十四、五の男盛りには似合わない、いたずら者めいた微笑だった。

「ですが、御子が残されたというのは、なかなか面白い。続きをできれば拝見したいものですね」

 公達は御簾を戻して立ち去ろうとした。

「お待ちください」

 小弁は思わず呼び止めた。おそらく、二度とこの男はこの局には現れまい。自分はとくに秀でたところもない、ありふれた女だ。だからこそ、こういうことはよくわかるのだ。

「忘れられた姫君をお訪ねください。さすれば、きっとお望みは叶いましょう」

 関白邸で居残りを任された朱音は、内裏から戻ってきた男たちを出迎えた。

「忘れられた姫君って、どういうこと」

 開け放したままの妻戸のところに、すらりとした人影が伸びている。

 指貫さばきも軽やかに、奈母呂は歩み寄ってきて、朱音のすぐそばに静かに座した。絹を張った扇を広げ持ったまま、顔を寄せてささやいた。 

「さあね。だれとも教えてくれなかったけど。そういうことは、中将殿のほうが詳しいのではないかな」 

 流し目がじつに色っぽく、さまになっている。それは認めるが、よけいな甘さを振りまくのはよしてほしい。翡翠色の瞳を細めて、じいっとみつめられると落ち着かないのだ。ひざを動かしながら、朱音は咳払いをした。

「俊、思い当たる方がいる?」

 俊之は不機嫌を通り越していっそ暗い顔つきで、戸口にたたずんでいた。

「ありていに言うと、帝の寵愛が失われた、ということだ」

 かたい表情で俊之は続けた。

「登花殿女御様のことだろう。かの方は重い病にかかり一命をとりとめられたが、お体に疱瘡が残ってしまった。鬱々として閉じこもるようになった女御様は、里下がりをしたまま二度とお戻りにはならなかった」

 朱音は詰め寄った。

「女御様がお書きになったっていうこと?」

「誰かに書かせたのかも。関わりはないとは言えない」

 俊之は力なく言った。

 奈母呂は笑みをうかべて、扇を閉じた。

「人はなぜ物語るのか、ということですね。何かを伝えたいと思うからこそ、人は物語るのです。恋慕か、それとも憎悪か。紙に染み込んだのは、墨だけではありません。人の想いもまた宿り、それだからこそこの草子は女人の心を捕らえたのではないかな」

 俊之は苦々しい顔つきをした。

「女御様の生家、三条の右大臣邸に人をやってみたが、荒れ果てて人の気配もないようだ」

「さぞかし上物の怨念がこもっているだろうなあ」

 舌なめずりをした奈母呂を、俊之は胡散臭そうに見やった。

「ところで、失礼ですが、あなたはどこのどなたですか」

 俊之の問いかけに、奈母呂は余裕ありげに笑った。

「さあ。風にお聞きください」

 侮りがすけてみえる言いぐさだ。

「では、別の人に聞きましょう」

 つっけんどんに言い捨てて、俊之は朱音に矛先を向けた。

「きみと一心同体だと聞いたぞ。この公達を、おれに紹介してはくれないのか?」

 俊之の目つきがこわい。

「ええと、これはあの」

 朱音はあわてて言った。

「この人は、そう。同族でね。一番信頼できるの。役に立ったでしょ」

「たしかに。後宮へするりと忍び込む手際は、まるで猫のように鮮やかだった」

 奈母呂はにっこりと笑った。 

「中将殿はすこし臆されたかな。仕方ありませんな。こういうことは、経験を積み重ねてこそ。わたしのほうがすこし長生きしている分、ものの道理を心得ているだけです」

(奈母呂ったら) 

 言い返せないのが悔しいのか、俊之の顔が朱に染まった。

「久しぶりにむせるような花々の香りをききましたよ。それでも、やっぱりここがいいな。朱音のひざのうえが、いちばん好きだ」

 扇で、朱音のひざをかすめるように撫でる。

 俊之は腰を上げた。

「では、ごゆっくり」

「あの、俊」

 ひややかに俊之はこちらを見下ろしていた。

「なにか?」

 ぎくりとした。はじめて見るような、よそよそしい表情だったのだ。足音も荒く、俊之は室を出ていった。奈母呂はといえば、すまし顔を早々に引っ込め、しのび笑いをはじめた。

「あいつ、いびりがいがあるね」

「奈母呂。やりすぎよ」

 朱音の顔をのぞき込み、奈母呂はにっこりとほほえんだ。切れ長の翡穂のような瞳が、輝きをまして見える。

「正体、ばらしたらだめだよ。中将殿には内緒。でないと働かない。やる気でないもん、少しくらいの楽しみがなけりゃ」

 奈母呂は朱音の腕をひき、畳のうえに寝ころんだ。

 ふしぎだった。奈母呂は人の理からははずれたところにいる、神仏に近しい存在だ。なのにほほに押しつけられた胸は温かく、胸はたしかに鼓動を打っている。

「墨がついてる」

「いいんだよ。そんくらい」

 奈母呂はやさしく笑った。身を起こすと、奈母呂は目を細めた。

「ご褒美をくれる」

 干し魚を差し出すと、奈母呂は目を輝かせた。

「わあ、大きいね。祝殿大好き」

 年も背丈も、彼は自由自在に変化させることができる。

 今は男盛りの二十五、六。精悍な顔つきだが、口元に魚の骨をくわえているので台無しだ。尾をつまんで、口をもぐもぐやるのがおかしくて、朱音は吹き出した。

 尾まできれいに食べ終えた奈母呂は、指をなめながら、たずねた。

「祝殿、元気ないな。大丈夫?」

 物語に登花殿女御が関わっているかもしれないと、そう聞いたとき胸が痛んだ。母のことを思いだして、苦しくなったのだった。

 母は最後までくやんでいた。

 救うことができなかった人がいると。そう言って。

 自分も死の淵にいたのに、最後まで人の心配ばかりして。

 朱音は唇をかみしめた。

「奈母呂、少しだけ。いい?」

 心得たように奈母呂は腕を広げた。やわらかな袖にすっぽりと包まれ、守るように抱きしめられた。

「ねえ奈母呂。母様のことを教えて」

 深く息を吐くと、涙がこぼれそうになる。

「きれいで、やさしくて、おっかなかったよ。でもちょっとだけ、愚かだったな。恋などしなければ、大好きな産土を捨てずにすんだのに。傷つかずにすんだのにね」

 背をやさしく撫でられた。赤ん坊をあやすように、ゆっくりと。

「祝殿は、くれぐれも恋などするなよ」

 朱音は目を閉じた。

「誰よりも大事にする。甘やかしてあげる。誰にもおまえを傷つけさせやしないから。ずっと言っているだろ、奈母呂を選びなって。ねえ、朱音。聞いてる?」

 一日ひなたぼっこをした描のにおいがする。どんな薫香より、好ましい。朱音は顔をこすりつけ、こっそり涙をぬぐった。 


 関白邸から晴子の姿が消えたのは、その夜の明け方のことだった。


 舎人らがともした篝火にこうこうと照らされ、屋敷は昼間のように明るかった。暗闇に浮かび上がる主のない屋敷は、かつての姿がしのばれるだけに、荒れ果てた様子がもの悲しかった。

 なまぐさい、よどんだ気配が満ちている。

 この屋敷の周辺で、あやしい影が跳梁するのを見たものが何人もいるらしい。奇しくもここは、忘れられた姫君、登花殿女御の生家だった。

 松明が揺れながら近づいてくる。若い舎人がやってきて、頭をさげた。

「妖しい気配はあったか」

「いいえ、猫の子一匹おりません」

 寝殿まえの庭に足を運ぶと、雲隠れしていた月がそろそろと現れて、池にうつりこんだ。紅葉が水際に寄せ集まり、上衣の柄めいてみえる。中島にかかる橋は板がいくつか抜けかけているようだ。水音がしたような気がした。魚がはねたのかもしれない。

 静まりかえった寝殿に目を向けると、簀の子の透かしのところどころから、草が好きかってに生えでている。落ちて斜めに倒れかかった蔀戸の奥、真っ暗なところから誰かがこちらを睨みつけているような気がして、朱音は身震いをした。

「いかが致しましょう。中をもう一度調べて参りましょうか」

 松明を掲げた舎人たちは、次の指示を俊之にあおいだ。

「俊」

 目は泳ぎ、顔色は青ざめたのを通り越してすっかり白い。

 朱音は肘でこっそり俊之をつついた。

 顔を見合わせる舎人たちを前にして、はっとした様子の俊之は、内部の捜索を命じた。松明の明かりが、寝殿のうちにのみこまれていく。朱音は俊之の背中をばちんとたたいた。

「大丈夫、俊」

「すまない」

 疲れきった声で、俊之はつぶやいた。

「姉さんが今どうしているかと思うと」

「中将殿、こちらへ」

 呼び声が、奥から響いてくる。

 俊之はちらりと朱音を振り返った。不安を凝り固めた目をしている。晴子がここにいるかもしれない。しかし、それを暴くのもおそろしいのだろう。

 前を行きながら、俊之はとつぜん手を差し出した。

「つないでくれ」

「どうして」

「おれは前を向いているだろ。後ろがおろそかになる」

 朱音はおずおずと手をのばした。指先が触れる。すると、すぐさま大きな掌に握り込められた。あたたかい。はりつめていた気持ちがふっとやわらぐ。そうだ。妖しい気配ごときにびくついてはいられない。

 俊之がきゅうに立ち止まったので、朱音はその背にぶつかってしまった。

「どうしたの」

 松明の灯が、床をてらした。苦しげなうめき声が聞こえる。大の男たちが、折り重なるように倒れ伏している。

「引き返せ。人を呼んでくれ」

「俊は?」

「先へ行く。どうやら一太刀は浴びせたようだ」

 点々と血のあとが奥へ続いているのを見定めて、俊之は言った。

 母ならこうした事態に甘んじるようなへまはしなかっただろう。何らかの手を打てたはずだ。けが人がでる前に。助太刀どころか、なんの役にも立てていない。

 急がなくては。俊之を一人で行かせるわけにはいかない。

 朱音はみずらに結った髪に忍ばせておいた、小さな包みを抜き取った。

「奈母呂」

 それを開いて呪言をつぶやくと、かすかに青白い光がはじけ、猫の鳴き声がした。

「やあ祝殿」

 のんきな声だ。朱音はいそいで言いつけた。

「この人たちを、外に運んで。それから、俊を助けてちょうだい」

「あいつか」

 あざ笑うような冷たい声だった。

「どうなろうと、知ったことか」

「奈母呂」

「いやだからね。あいつ嫌いだよ。祝殿をいやらしい目で見るから」

「それ、絶対気のせい。ばかなこと言ってないで、助けて」

「気のせい? 手をつないだだろ」

「奈母呂」

「うーーーん。わかったよう。ご褒美、はずんでよね」

 ちゃらん、と鈴の音がした。閉ざされていた蔀戸が、ばたんばたんと、開け放たれていく。月光とともに、すずやかな風が吹き込んできた。身を洗われるような心地がする。立ち尽くしたまま、朱音は室を見渡した。男たちの姿はあっという間にかき消えていた。

 月光で足下は明るい。朱音は先を急いだ。渡殿をすぎ、からっぽの対を通り抜けようとしたところで、まとわりつくような、甘い薫香が漂ってきた。薄物のとばりをかき分けるなり、朱音は目を疑った。

 真っ白な屏風を立て巡らせた、その中央に豪奢な帳台が据えられている。一段床を高くし、四方には薄い帳をめぐらせてある。天井からは金色の飾りが垂れて揺れていた。

 帝の寝所にこそ相応しいような、きらびやかな帳台の中、単衣に袴の紅もなまめかしい女がいた。しどけなく身を横たえ、ほほえんでいる。そのそばに立ち尽くしているのは、俊之だ。

「俊?」

 様子がおかしい。呼び声がまったく届かない。

 俊之は手にした太刀を、ゆっくりとみずからの喉元にあてがった。

 女がおかしそうに笑った。

「俊!」

「魅入られちゃったね」

 十四、五くらいの少年が、いつのまにかそばにいた。奈母呂は首を掻きながら、しげしげとそちらを眺めている。

「あいつの姉さんに取り憑いたのと、同じやつのしわざだな」

「あの人は?」

「まぬけな女の子が憑かれたんだろう。そんなことより、わかる? 祝殿。いい具合に育ってきたよ。うまそうだ」

 朱音は身震いをした。

「愉快だね。はは。あのままあいつの首がぽろっと落ちたら楽しいね」

「ばかを言わないで」

 奈母呂は肩をすくめた。

 駆け出そうとすると、腕を捕まれた。

「ここで死ぬなら、それだけの奴だよ」

「何言ってるの、はやく俊を助けて」

「やだね」

 ぺろりと舌を出す。

「もういい」

 朱音は顔を上げた。

 奈母呂の手を借りるまでもない。朱音は帳台の内に飛び込んだ。

 肌がぴりりとひきつる。

 結界だ。ここに足を踏み入れれば、正気をうしなってしまう。朱音は俊之の衣の袖を引っ張った。

「俊、しっかりして」

 女は低くうなり声をあげ、朱音をきつくにらみつけた。倒れた灯台をひっつかみ、彼の喉元と太刀の間にねじ入れ、太刀を押し返した。

 早くしなければ。

「俊!」

 朱音は叫んだ。

「藤原俊之、目を覚ましなさい」

 彼は太刀をかまえたまま、ぼんやりとした顔で、朱音のほうを見た。その惚けたような顔とは裏腹に、太刀を持った腕には力がこもり、ぶるぶると震えていた。

「朱、音?」

「おのれ」

 男とも女ともつかない声が、恨めしそうに言った。

 ぎらつく太刀がせまってくる。

「俊、押し返して」

「無理だ。言うことをきかない」

 朱音ははっとした。今まで見えなかった女の顔の半分を覆うように、痘痕が見えたような気がしたのだ。

「こっちを向いて。はやく」

 顔をのけぞらせ、朱音は俊之に口づけをした。

「解!」

 まじないは、すべてを解く。

 吐いた息が戻ってきたような息苦しさに、思わず朱音は目を閉じた。血の気が引いていく。全身がつめたい水にさらされているようだ。十に振れたところを、一に戻す。もしくは、生じる前の無に戻す。これはそういう術なのだ。


 太刀が落ちた音で、朱音は我に返った。

「朱音」

 すぐ目の前に俊之の顔があった。

 心を騒がす薫香はかき消えてしまった。がらんとした床の上に、月明かりが落ちている。

 古びた畳が一枚、裏返しになったその上に、女人が横たわっていた。かるい咳をしたあと、彼女はうっすらと目を開けた。

「もし」

 ひざをついて顔をのぞきこんだ朱音を、彼女はぼうぜんと見つめ返した。

「あなたは、登花殿女御様に縁の方では」

 目のふちから、涙があふれた。

「女御様」

 その人は涙をこぼした。

 手を取ると、指先には墨がこびりついている。

「もう、どこにもいらっしゃらない」

 室のすみに、古ぼけた文机がある。書き散らされた料紙の束が床に広がっている。

「なよたけの鬼姫を書いたのは、あなたか」

 俊之は厳しい声で言った。

「さようにございます」

 嘲弄するように、女人は顔をゆがめた。顔から血の気は失せ、脂汗が浮き出ている。

「女人を夜乞叉に落とすのは、男君の残酷さ、ですわ」

 肩をつかんで揺さぶろうとするのを、朱音は止めた。

 衣から血がしみだし、いつの間にか埃っぽい畳のうえに真っ赤な血だまりをつくっていた。

「やめて。もう」

 かすかにまぶたを閉じ、唇をかるく笑ませながら。

 彼女は息を引き取っていた。


 物語とともに残された日記で、彼女は登花殿女御の腹心の女房だということがわかった。

 なよたけの鬼姫の執筆を望んだのは、女御だったらしい。

 たわむれに書き散らしたのを見せると、たいそう女御は喜んで、続きを求めたのだという。病から快復したあとも、父の死により権勢はよそにうつり、帝の訪れもなくなった。孤独の中で、恨み怒り悲しみ、諸々の憂さを物語がはらしたのだった。

 物語を書き写し広めるのが女御の楽しみとなった。主が孤独のうちに亡くなったあとも、ひとり荒れ果ててゆく屋敷に残って物語を書き続けたらしい。女御がどのようにして亡くなったのかは、記されていない。

「忘れられた姫君か」

 俊之は車の中で、そうつぶいた。

「また逃げられた。すばしっこいんだよな」

 翡翠色の瞳の少年を、俊之はじろりとにらんだ。

「どこかで見たような」

「わたしをお忘れですか? 寂しいな」

 奈母呂が片目をつぶると、俊之はひたいに手を押し当てた。

「珍しい目の色をした同族が、いったい何人いるんだ」

 朱音はにやつく奈母呂の頬をつまんだ。

「この子はね、奈母呂というの。わたしに憑いている猫又よ。この間内裏まで行ったのもこの子。自由に身をかえることができるの」

 奈母呂は舌を出した。

「祝殿のうそつき。ばらさないって言ったのに」

「これが、猫神か?」

「せいぜいあがめ奉れ。ここだけの話、おまえ好みの女人にだってなれる。ほら、こんなのだろ?」

 奈母呂は俊之にしなだれかかった。どう姿を変えたものか、よくは見えなかったが、せまい車の中で悲鳴があがった。もちろん俊之のだ。

「よせ。よさないと、叩き出すぞ」

 ひっくり返った声で、俊之が叫んだ。よっぽど腹の立つことをされたのだろう。鬼にでもばけたのか。

「おうおう。やってみなよ。面白い」

 物見から、空を見上げる。満月がこちらを見下ろしているかのようだ。

 晴子の行方が気にかかる。でも、手がかりはない。

 朱音は目を閉じて、車の揺れにしばし身を任せることにした。


 竹山第に戻ると、朱音は釣り殿へ足を運んだ。久しぶりに帰ってきたような気がする。

 思った通り、竿を斜めにかまえ、腰を下ろした父をみつけた。

「父様」

「朱音か。奈母呂も。久しいな。おお、よちよち」

 白描はたらいに泳ぐ魚に魅入っていたが、撫でられそうになって素早く朱音の足下に逃げてきた。

「げえ。ごめんだよ」

 奈母呂を抱き上げると、朱音は父のとなりに腰を下ろした。

「関白殿からお伺いしたぞ。ずいぶんお役に立っているようだな」

「そんなことないわ」

 なんだか照れくさくて、朱音はそっけなく言い返した。

「晴子殿の行方もわからないし。何一つ解決していないもの」

 竿にあたりがきたようだ。釣り竿の先を、みながみつめた。

「知っていたか? この池には、大物がいる。朱音の背丈より大きく、奈母呂と同じくらい年を重ねた、主がいるのだ」

「それ、ほんとう!」

 奈母呂がはしゃいだ声を上げた。

「つり上げて、干魚にしようよ、ね、ね、簀の子に干しとこう」

「それは無理というものだ。地の神を干物にするなど」

 父は愉快そうに笑った。こんな声を聞くのは久しぶりだ。母と一緒にいるとき、父はいつだってこんな風に笑っていた。

「そういえば、御前で懐かしい方を見たぞ。源殿だ」

「源殿?」

 はっとして、朱音は聞き返した。

「源家理殿だ。少しお痩せになったようだな」

 糸はぷつんと切れ、魚は逃げてしまった。

「残念」

 父と奈母呂の声がそろった。

 ひとつ、足らない。母の声が足らないのだ。

 胸が苦しくなって、朱音は波立つ水面をにらんだ。

 文を送ってすぐ、網代車がやってきた。

 衣を被いた朱音が乗り込むと、ゆっくりと車は動き出した。

 黙り込んだままの俊之は、物見からぼんやりと外を眺めている。朱音は彼の狩衣の袖を引っ張った。

「俊、聞いてるの」

「ああ、すまない。何の話だっけ?」

 悪路に車の輪がきしんで、大きく揺れた。抱き止められたのに気づいて、朱音は急いで礼を言った。

「あ、りがとう」 

 顔を上げると、俊之は不機嫌に言った。

「猫又は一緒じゃないのか」

「一緒よ」

「いないじゃないか」

 どう答えたものか、すこし迷った。

 奈母呂は朱音の中に棲んでいるが、自由に身を変えて外に出て行くことのほうが多い。そうした時も、つねに細い糸でつながっているような感覚がある。どこでなにをしているのか、集中すればなんとなく感じ取れるのだ。きっと、奈母呂もそうなのだろう。

 いまは、朱音の身の内でひっそりと眠っている。

「一心同体というが、べったりというわけでもないのか」

 俊之は、かすかに笑ってみせた。

「猫又がきみを守るのは、きみが宿主のようなものだから?」

「母様が言うには、決して結ばれない恋人同士みたいなものだって」

「恋人?」

 俊之は尖った声をあげた。

「母様がそう言ってた」

 奈母呂にとって、いとおしいと言うのと、腹が減ったと言うのは、ほとんど同じ意味だ。つきつめると、食べて一つになるのが、奈母呂の慈しみ方なのだ。

 俊之はじっと朱音をみつめた。真剣に、何かを考えこんでいるような表情だ。

「きみが食われたいと望めば、あいつはきみを食うと思うか」

「奈母呂がよくても、わたしはいやよ」

 かすかに俊之は笑った。

「そうだな。おれも何が何でも反対だ」

 どうして胸がこれほど鳴るのか、さっぱりわからない。沈黙が気詰まりで、朱音は早口にたずねた。 

「家理殿が都に戻られていたこと、俊は知っていた?」

「いや。きみの文で知った」

「家理殿のもとに、現れると思う」

 俊之はうなずいた。

「きみに来てもらったのは、いざというときのためだ。おれでは太刀打ちできないからな」

 

 源家理の屋敷へついたのは、もうすぐ夕暮れになろうという時だった。

 忙しそうに立ち働く人を呼び止めると、ほどなくして母屋の簀の子に通された。

 室内には仕切もなく広々としている。越してきたばかりなのだ。

 かすかに沈香が漂ってくる。

「これは、これは」

 姿を見せた人は、軽く目をみはった。

「俊之殿と、そちらは、もしや朱音姫では?」

 家理はくつろいだ格好で、腕には赤子を抱いてあらわれた。円座に腰を下ろすと、やつれた面もちながら、かすかに笑った。

「お元気でしたか」

「あの、そのお子は」

 まさかと思ってたずねると、家理はほほえんだ。

「わたしの娘です。真那ともうします」

 俊之は困惑した顔つきのまま、身を乗り出した。

「北の方はどちらに」

 家理のもとに子どもがいるということは、妻もいるにちがいない。

「ここには、おりません。遠いところで待っております。いかがです、朱音姫、抱いてごらんなさい」

 紅葉色のおくるみを差し出され、朱音はとまどいながら腕にだきしめた。餅のようなぷっくりしたほほをつつくと、小さな手が朱音の指をにぎりしめた。力は思ったよりずっと強く、そっと開いた目はつぶらで愛らしかった。

「そのご様子では、姉のことを思い出されたことはなかったようだ」

 俊之は冷たく言った。

「わたしの姉は、かいのない恋をしたようです。すぐに忘れられてしまうのなら、苦しむことなどなかったのに」

「一の姫が、どうかなさったのですか」

 家理はふしぎそうに聞き返した。

「あなたは秘密の恋をなさったのではないですか。明らかになれば、身を滅ぼすことになる恋です」

「何を」

 顔色を失った家理は、扇を広げようとしたが、取りおとしてしまった。その手は震えていた。

「恋を信じていた人を、夜乞叉におとしたのはあなたでは?」

 腕の中の赤子が泣き出した。

 朱音は背筋をはいのぼってきた寒気に、身を震わせた。

 何かが近づいてくる。異様な気配を感じるのだ。

「俊」

「なんだよ」

 ふいの風が起こった。巻き上げた御簾がざんざら揺れる。床に身を伏せた。風音のなかに、女の笑い声が響いたような気がした。

「朱音! 大丈夫か」

 赤子を抱きしめ、ただただ石のように身を丸めてうずくまっていると、俊之の声がした。

 先をとがらせた竹が、射るように室に飛び込んできた。庭の垣に使ってあるようなものだ。土がこびりついている。朱音をかばった俊之は、背を痛めたのか、苦しげに顔をゆがめた。

 家理は衣手を床にぬいとめられて、身動きができないでいる。

 どこからか琴の音が響いてくる。

 いつの間にか、女がそこにいた。血の気の失せた白い頬に、笑みを刻んでいるのは、晴子だった。

「おひさしゅうございますわね」

 晴子だった。彼女は床に顔をこすりつけた家理を見下ろした。

「どうか、晴子にお顔をみせてくださいまし。もういちど、抱きしめてはくださいませんの?」

「やめて」

 声を上げると、晴子はぎろりと朱音をにらみつけた。

「やめてください、こんなことは」

 烈しい目つきをして、晴子は叫んだ。

「はじめたのは、この方なのよ。なら、せめてわたくしが終わらせてもいいのではなくて」

「だめです。絶対にだめ!」

「裏切られたことなどないでしょう。望みを絶たれたこともないでしょう。そんなおまえに、いったい何がわかるというの」

 晴子は、家理の顔をのぞきこんだ。ぐったりとして動かない。気を失っているようだ。

 耳障りな、金物を打ち鳴らすような悲鳴があがった。晴子は怒りで顔を赤黒く染め、叫んだ。

「家理殿はどこ。あの方を、どこへ隠した。なぜ答えてくださらないの。忘れられたくない、わたしを、お忘れにならないで。いとしいあなた」

 見知らぬ女のしわがれた声と、晴子の声が重なって聞こえた。

(女御様?)

「恨めしい、恨めしい」

「晴子殿」

 朱音は声を限りに叫んだ。

 ぴくりと、指がほんのわずかに震えた。

「これがあなたの望みなのですか。終わらせようと思って、終わるものなのですか」

 憤怒の表情は微妙に色を変え、激しい悲しみを宿して見えた。涙がひとすじ、血走った目からこぼれてあごを伝った。

(いまだ)

「俊、この子を」

 赤子を俊之にたくすと、あわてたように俊之は抱き取った。

 朱音は晴子に思い切り抱きついた。

 髪を引っ張られ、拳で殴られて気が遠くなりかけたが、離さなかった。しがみついたまま、彼女の髪を引っ張り顔を上向かせると、ほとんど歯がぶつかる勢いで唇を唇に押し当て、息を吹き込んだ。

「解!」

 効果はてきめんだった。暴れることをやめた晴子の身体はずっしりと重たく、寄りかかってくる。その背から影のように漂い出てきたものがあった。朱音はとっさに叫んだ。

「奈母呂!」

 猫がのどを鳴らすのが聞こえた。

 髪を吹き上げるほどの熱気が押し寄せ、火の矢がいっせいに降り注いだ。それらは朱音の胸も刺し貫いたが、痛みはなかった。

 やせ細った、骨と皮ばかりの鬼は、長い髪をなびかせ、身をくねらせながら逃げ回っていたが、ついには一矢に腕を貫かれた。

「おのれ、口惜しい」

 次々と青白い火矢に射抜かれて、はいつくばった。

「大きいね。ごちそうだね」

 奈母呂はうれしそうに舌なめずりをした。

「恨めしい、恨めしい」

 うめき声をあげる鬼を、ひざまづいて朱音は見下ろした。憤怒の形相に手を這わせると、黒い虫のようにのたうつ無数のものが、朱音の手をはい上ってこようとする。

 骸骨のうつろな穴でしかない目を、朱音はじっとのぞき込んだ。果てなく生みだされ続けるもの、嫉妬、怒り、憎しみが渦を巻いているのがわかる。

 うねる髪は、幾万の小蛇だ。朱音の首にからみつき、締め上げようとするが、ちっとも苦しくはなかった。

「あなたを解きます」

 応えはなかった。何層にも厚く積み重なったうらみや口惜しさで、朱音の声も届かないのだろう。

 夜乞叉姫とは、物語に魅入られた女たちによってこの世に生みおとされた。自分の身一つ、心一つ自由にできない恨めしさが、夜乞叉をここまで育てたのかもしれない。

「お慕いしております。誰よりも」

 かすかな声が、聞こえたような気がした。

 誰のものかもわからなかった。娘の弾んだ声音のようにも、老女のひびわれたつぶやきのようにも聞こえた。

 醜いとは思わない。ただ、いとおしい。朱音は鬼の頭を抱きしめた。

 顔を近づけ、白い頬の骨を唇でなぞり、歯列のならんだ上顎に口づけをした。

「おやすみなさい」

 それが合図だった。崩れてゆく。

 すべてはほどけて、無にかえる。

 それと同時に、静けさと暗闇があたりに広がった。

 泣き声が聞こえた。

 顔を袖で覆い、泣く女の姿が、暗闇にさく蓮の花のように浮かび上がった。

「晴子殿?」

 いいや、ちがう。紅葉の衣をまとった後ろ姿は、晴子よりもいくぶんふっくらとしている。まろやかな頬にこぼれた涙を拭う仕草は艶めいて、ひどく心を動かされた。

「あなたは、どなたですか?」

「真波ともうします」

「登花殿女御様ですか」

 しっかりと、その人はうなずいた。

「あの方と、添い遂げる夢をみました。でも、今生では果たされないはかない夢でございます」

 あの方とは、帝のことだろう。

 袖で顔を覆ったまま、女御はふるえる声で言った。

「憎んでいるのですか。薄情な方を」

「いいえ、今でもお慕いしております。どうして憎めましょう」

 まっすぐに朱音を見つめ返した女御の面には、病の残した爪痕がはっきりと残っていた。けれど、ほほえむ顔はただ穏やかで、麗しかった。

「苦しみが、消えました。あなたは、まあ、水月殿の娘御なのですね」

 朱音は目をみはった。水月は、朱音の母の名だ。

「真那を抱いてくれて、ありがとう。この子は、わたしと家理殿の子です。わたしたちは幼い頃からともに育った仲でした。ずっとかわらずお慕いしていたのは、家理殿ただおひとり」

 朱音はただ呆然と女御をみつめていた。

「病にかかり、父も失い、帝の思し召しも指の隙間からこぼれ落ちてしまいました。里に下がったところで、人は次々と去って行くばかり。とても寂しかった。恨みの心が起こり、わたしはすさんだ気持ちでおりました」

 笑みながら、女御は朱音の手を取った。

「それを、家理殿が救ってくださったのですよ。心をこめて、語らいました。今までのことと、これからのことを。家理どのは、約束してくださいました。ずっとそばにいると。もう、ひとときも離れないと」

 血の気の失せた手を、朱音はにぎりしめた。

「そんなとき、家理殿が遠くに参られることになったのです。わたしもお供したかった。けれど、そのときすでに身重だったわたしは、ただ待つ身となったのです」

 女御という身分もある。公にはできなかっただろう。

「この命が長くはもたないと、悟ったのはいつ頃だったでしょう。いとしいお方とは二度とお会いできまい、我が子を守ってやることもできない、口惜しくて、恨めしかった。すべてを恨み、のろい、わたしは夜乞叉に落ちてしまったのです」

 恨み、のろい。おどろおどろしい言葉が、これほど似合わぬ人もいるまいと思われた。それほど、女御の面差しは清らかでやさしく、おおらかだった。

「水月殿から教わったはずなのに。恨みは、あらたな恨みを生むだけ。苦しみの道を行くだけだと、あの方ははっきりおっしゃっていたのにね」

「女御様」

 朱音は女御のほほにこぼれた涙を、指で払った。

「お母上のこと、さぞかし心を痛めたことでしょう、朱音殿。お母上は、りっぱな方ですよ。やさしいお方です。あの方の術が、誰かを呪うものではなく、そういったしがらみを解くものだということ。これ以上にあの方の本質をあらわすものはありますまい」

 こみ上げてくるものがあった。

 朱音は顔をゆがめた。涙があふれて、止まらなかった。

「あなたのお母上は、あなたの内におられますよ。あなたの血の中に。吐く息、流す涙の中に。死は人を分かちません。憎しみや怒りによってのみ、人は分かたれるのですから。わたしは気づくのがすこし遅すぎたけれど」

 女御は腕に真那を抱いていた。ふっくらとした頬に口づけをし、頬と頬をこすりあわせて、楽しげにほほえんだ。

「一の姫にも、むごいことをしてしまった。身代わりなどではないと、あなたから言って差し上げて。一の姫の恋は、まだこれからなのだから」

「女御様」 

 とつぜんまぶしい光に包まれた。しだいに光は天へむかって飛んでいき、夜空に浮かぶ月に吸い込まれてしまったようだった。

「女御様!」

 朱音の腕には、赤子がのこされた。

 叫ぶ声は、しじまにとけて消えた。

 

 ぬくもりがあった。そのあたたかさを確かめようと目を開けると、ごつごつとした手が目に入った。朱音の手をしっかりと握り込めている。

 脇息に寄りかかるようにして、俊之が眠っていた。狩衣のくたりとしたのを、首もともゆったりとくつろげて着流している。髻はほつれて乱れ、くまの浮き出た目元にかかっている。眉間にはしわが深く刻まれていた。

 幼いころに合わせた手のひらは、たしかほとんど同じ大きさで、餅のようにふっくらしていたのに。

 そばにいてくれたことが、ただうれしかった。

 蔀戸の格子影がしとねの上に落ちている。

 夕暮れ時だ。丸一日、眠っていたのだろうか。

「朱音」

 寝ぼけた声がした。

「目が覚めたか」

 ものを言おうとして、口の中がからからなのに気づいた。

 身体を起こそうとしても、思うように力が入らない。

「無理はするな」

 三日も高熱がひかなかったのだという。

「苦しくはないか。痛むところは」

 首を横に振ると、吐息のように俊之は言った。

「よかった」

 身をのりだすようにして、彼は朱音の顔をのぞきこんだ。細められた目は、赤く充血していた。

「大丈夫?」

 かすれた声しか出なかった。それを聞いて、俊之は声もなく笑った。

「おれが言いたい」

 手が頬に触れ、口元に張りついた髪をつまみとった。指がかすめたところが熱を持ったようで、朱音は戸惑った。

 見下ろしてくる瞳は、ひどく気遣わしげだった。

「姉さんは、憑き物がおちたように元気になったよ」

 ほっとして、朱音は笑った。

「あれは、どこへ行ったんだろう。また来るのかな」

「いいえ。たぶん、もう来ない」

 猫の足音がした。のどを鳴らしながら、二つ尾の白描がふたりの間に割り込み、毛繕いをはじめた。

「またおまえか」

 尾をはたはたと動かして、奈母呂は素知らぬふうにあくびをした。

「夜乞叉は、この子のはらの中だもの」

 俊之は絶句した。

「いや、それはどういう冗談なんだ」

「言葉のまま。奈母呂が食べて、ひとつになったの」

 驚いて手を引こうとしたのをそっと握りしめ、朱音は目をとじた。

「あのね。女御さまは、笑っておられたわ」

「そうか」

「伝えてほしいって。晴子殿の恋は、まだこれからだと。どういう意味だと思う?」

 俊之は苦笑いをした。

「家理殿からお聞きしたよ、すべて。なんと言ったらいいか。なあ、朱音。ところでさ、きみはどう思う、もしおれが」

 朱音はあくびをひとつした。

 ふいの眠気がおそってきたのだ。

「ごめんね。あとにしてくれる」 

 俊之が何を言おうとしたのかは、わからずじまいだった。

 聞いておけば良かったと、朱音は何度も後悔することになった。

 冬は深まり、正月もすぎた。

 俊之とは二月もの間疎遠になっている。こんなことは一度だってなかった。

「せいせいするね」

 退屈しのぎに絵巻をいくつも広げたはいいものの、奈母呂がちょっかいをかけてくるので気が散らされてしまう。そして、いつの間にか俊之のことを考えてしまうのだ。

「おじゃま虫がいなくなって、すっきりだ。ねえ、そっちに行ってもいい?」

「だめ」

「けち」

 寝ころびながら奈母呂は鼻をならした。紫匂の狩衣に、烏帽子もかぶらず放ち髪のまま、痩身を長々とのばしていたが、ふいに起き上がりあぐらをかいた。少年のすがたに、その仕草はぴったりだった。

「あいつのことなんか、忘れられるようなことをしようか」

 どうせ、ろくなことじゃない。朱音はそっぽをむいた。

「絵巻みてるの。忙しいの」

「源氏きらいだろ、祝殿は」

「薫は好きよ」

「奈母呂よりもか? なんで好きなんだ。あ、色白だから?」

「薫は、俊ににてる」

 奈母呂は呆然とした顔つきになった。

「はあ? あいつ、一度でもかぐわしく薫ったことあるかい。ねえあよ」

 高ぶると、猫の声がまじるのがおかしい。

「金めいた、いやあなニオイしかしない」

 朱音は頬杖をつきながら、ため息をはいた。

「祝殿を待ちぼうけさせるなんて、あいつ、ちょっと見直したな」

 つまらなそうに奈母呂は言った。

「待ってない」

「どうして、素直にならないの?」

 奈母呂は絵巻をじっとにらんでいる朱音の肩を、やさしくたたいた。

「ほんとうの気持ちを、あらいざらい吐き出してごらんよ。うちにためこむと、よくない。奈母呂がきいてやるから」

 翡穂色の目が、なだめるように朱音をみおろした。ふしぎな気分だった。こんなに美しい瞳をしていただろうか。朱音はぼうっとして見つめ返した。

「どうして来ないと思う」

 頬につめたい唇がふれた。驚いて見上げると、怯むようなまなざしに見下ろされ、朱音は息をのんだ。

「はっきり言ってやる。あいつは、もうここへは来ないよ」

「うそ」

「だって、もう用事はないじゃないか。姉さんの件だってめでたく片づいたし、夜乞叉も食べちゃったし」

 朱音はあえぐように言った。

「用事なんてなくても、俊は来る。晴子殿が無事に入内したら、きっと」

 耳元で奈母呂はささやいた。

「そうかなあ」

 ぎくりとした。

「いくら忙しくたって、文のひとつやふたつ、したためるヒマはあるだろ。なのにもうずいぶん放っておかれてる」

 いやな感じがした。

「はっきり言ってよ」

「い、そ、が、し、い、の。年頃の娘がいる家は、婿がねをなんとか引き入れようとしてる。花見の宴もひっきりなし。へたに断ることもできないよね。独り身なんだもん」

「やめて。もういいから」「いいの?」

 奈母呂は朱音の肩をそっと押し、あっさりと組み伏した。畳に広がった髪を巻きとると、ねぶるように口づけをほどこし、ほほえんだ。

「名だたる家の姫君と結婚するのが当然だろ。選び放題なら、さ」

 声は甘く心地よいが、ひどく胸が痛んだ。

 わかっていたはずだ。言われなくてもそんなことは。

「ほとぼりがさめたころに、会いに来るかもね。愛人にならないか、とか口説きに」

「もういいから!」

 奈母呂はうれしそうにほほえんだ。

「そうだね、つまらない話はやめよう。あいつのことなど、忘れてしまおうよ」

 やさしい声が、子守歌のように言いさとす。

「いい子だね」

 ささくれだった気持ちが、やんわりと慰撫されてゆく。

 腹立ちは消え、それと一緒に何を待っているのか、どうして胸が苦しかったのかも、あやふやになった。

「おまえには、奈母呂がいればいい。あんなやつ、ふさわしくない」

 手を握られると、かすめるように、あたたかい手のことが思い出された。

「俊」

 奈母呂は目をみはった。皿のような猫の目だ。

「まだ言うの。おまえが呼ぶのは奈母呂だけでいい」

 腹の底がきゅうと冷えるような感じがした。

「はなして!」

 朱音は奈母呂をにらみあげた。身をおこすと、奈母呂の胸ぐらをつかんだ。

「油断ならないわ、本当に」

 いつのまにか引き入れられていた。なぜ、許してしまったのだろう。

 焦ったように、奈母呂は逃げようとした。袖をつかむと、泣きおとしにかかった。

「怒らないで。ごめんね、ごめん。おまえがへこんでたから、ちょっと元気づけてやろうかと思って」

「わたしを食べようとしたでしょ」

「大事な祝殿を食べちゃうわけないじゃないか。もったいない」

「よくないことをしようとしたね?」

 俊のことを忘れさせようとした。

 じわじわと腹が立ってきた。

「ち、ちがうんだよ。いや、そうなんだけど! 悲しい顔をするんなら、あいつのことなんて忘れちゃえば、て思っただけで」

 あまりに正直なので、朱音は怒る気もなくなってしまった。

「ねえ、わたしがどう見える」

「どうって」

「俊を待っているように見える?」

 奈母呂は目をみはり、つんと横を向いた。

 いつからなのか、はっきりしない。けれど、たしかに朱音の胸にめばえたものがある。俊之が来なければ寂しいと思う。

 誰か他の人のもとを訪ねるかもしれないと、そう考えるだけで苦しくなる。

「待っても、裏切られるかもしれないじゃないか。夜乞叉がどうして生まれたか、もう忘れたの。恋などするなと、言ったじゃないか」

 ふてくされたように奈母呂は言った。

「二番目も三番目もない。奈母呂は、おまえのそばにいる。それが奈母呂の望みだ。それが信じられないなら」

 奈母呂は朱音の手を引いて、抱き寄せた。息をすることもできない。

「本当に食べてやるよ。きれいな髪も、ぬばたまみたいな瞳も、まっさらな体もぜんぶ、奈母呂のものにする。あいつには、骨のかけらだって残してやらない」

 朱音の衣の合わせを、奈母呂は乱暴にくつろげた。首もとに噛みつかれ、朱音はきつく目をつぶった。食べられるかもしれない。それでも、突き放すことはできなかった。

 やめろといったら、すぐに奈母呂はやめるだろう。朱音の迷いを読みとって、奈母呂はこうして揺さぶりをかけてきたのだ

 朱音は奈母呂の頬をやさしくつねった。

「ごめんね。わたしは、たぶん、俊が好き」

 奈母呂は顔を上げた。唇には血がにじんでいる。泣きそうに目を細めたのがいとおしくて、朱音は唇のはしを親指でやさしくぬぐってやった。

「やっぱりいやだな。おまえが傷ついても、見ていることしかできないと思うと。いっそのこと、あいつを食べちゃおうか」

 翡翠色の瞳が、苦しげにゆがんだ。

「でも、そうしたら祝殿に嫌われる」

「心配してくれたのね。もう大丈夫よ」

 奈母呂は名残惜しそうに体をはなした。

「心配なんか」

 少しだけ顔が赤らんで見える

「まじないをして。たまにはそういう解かれ方もいい」

 朱音はうなずいた。頭を引き寄せて、かすめるように口づけをした。奈母呂は、痛みをこらえるように、苦く笑った。

 静まりかえった室の中、広げた絵巻の上に仰向けになったまま、朱音は少しだけ泣いた。

 春の盛りの夜は、寒いよりもすがすがしい。

 花明かりが夜のしじまを薄ぼんやりと照らしているさまを、朱音はながいこと釣殿に座って眺めていた。

 屋敷にあるのは竹林ばかりではない。山桜も何本かあちこちに植わっていて、花の時期にはこれ見よがしに清艶な姿を見せてくれるのだ。

 死は人を分かたない。

 その言葉の意味をずっと考えている。

 胸にふれると、鼓動が手のひらに伝わってくる。奈母呂がいるように、母もここにいるのだろうか。流れる血の中に、吐息の中に。流す涙の中に、本当に母はいるだろうか。

 足音がした。急いで頬をぬぐうと、釣り灯籠のあかりを背に受けて、父が立っていた。

「まだ夜は冷えるぞ」

 あたたかな衣がふわりと肩にかかった。朱音は父の顔を見られないまま、うつむいた。隣に腰を下ろした父は、しばらく押し黙っていた。

「奈母呂の元気がないようでな。喧嘩でもしたか?」

「すこしね」

「中将殿に惚れたのか」

 かなわない。朱音は素直にうなずいた。

「ねえ、母様のこと、どう思っていたの?」

「どうも、こうも」

 父は、痩けた頬を照れくさそうにかいた。

「思い出さない日はないよ」

 朱音は重ねてたずねた。

「どうして好きになったの。猫憑きなのに」

「さあ、気づけば、あの人のことばかり考えていたよ。笑顔が見たくて、喜んでほしくてね。最初は、追い払われてばかりだったが」

 朱音は吹き出した。

「あきらめなかったの」

「あきらめていたら、朱音をさずかることもなかったろう。おまえの笑い顔は、あの人とよく似ているよ。とてもうつくしい」

 朱音は頬をおさえた。それほど美人でないのは承知している。

「おまえは人のために泣くことができる。損得をこえて、自らを投げ出すこともできる。そういう人間は、多くはない」

「母様に置いて行かれたことを、うらんでいないの」

 ちらりと父は朱音を見やった。聞くまでもないことだった。

「おまえには、すこやかに笑っていてほしい。できるだけ長い間、いつまでも。父がいつか、この世を心おきなく去ったあともな」

 朱音は父をだきしめた。

 池の向こうの満開の桜がにじんで見えた。


「ところでさ、きみはどう思う。もしおれが、きみをさ、好きだって言ったら」

 眠り込んでしまった朱音は、たぶん聞いていなかっただろう。

「身の程知らず」

 じゃまな白描が、俊之の手をびしびしと二つ尾で打った。

「断固として、反対。あっちいけ。やっぱり。やっぱりおまえは、いやらしい目で祝殿のことを見てたんだにゃ」

「おい、猫又」

 猫の眉間を、俊之はひとさし指でつついた。

「おとなしく引き下がれ。報われぬ恋をしてもつらいだけだぞ」

「生意気にゃ。じゃましてやる。絶対絶対、絶ーーー対!」


 あのときは思い切り笑い飛ばしてやった。しかしどうやら、本当に恋路を妨害されているらしい。そう気づいたのは、屋敷に戻った次の日のことだ。

 文を書き送っても、返事が来ない。

 訪ねていこうにも、あろうことか屋敷の門が見あたらない。はしごをかけても、塀が天をつくような高さになっていて、越えられない。

 どう訪ねていくべきか考えているうちに、姉の入内の日付も決まり、せき止められていた水戸が開け放たれたかのように、停滞していた物事が

動き始めた。

(姉さんの恋していた人が、家理殿ではなかったなんて)

 流れてくる琴の音にひかれて、姉のもとをたずねた。

 端近まで出て、一心に琴をかきならす姿をじっと眺めた。丁寧に、細やかに。奏し方はやわらかで、しかも内に秘めた強さを感じさせる凛としたものだ。

(家理殿にたばかられたのではないか、とも思ったが)

 登花殿女御は八つ年上で、よき姉のような存在だったらしい。

 女御の病のことも、里下がりのことも、孤独のうちに死なせてしまったことも。赤子のことも。すべてを聞き終えたあと、至らぬところがあったと、帝は苦しそうに打ち明けた。

 一の姫にも、つらい思いをさせてしまったと。

 事の次第は、こうだ。

 帝は、入内する予定の姫をぜひとも見てみたいと考え、ある日家理と入れ替わってお忍びで屋敷を訪れたのだという。

 ちょうどそのとき、登花殿女御が里下がりをし、内裏はざわついていた。右大臣のなきあと、あからさまに派閥が生じたことも帝を悩ませた。

 入れ替わりは、帝と家理だけの秘密だった。

 ままならぬことだらけだと、そう感じていたとき、姫のやさしさに救われた。しかし正体を明かせず、姫に辛い思いをさせたことは、心苦しく、情けないことだったと。

 俊之は晴子に御文を届けることになった。それを読んだ姉が、脇息に取りすがるようにして泣いたのを見た。男女の機微にはうといが、悲しみの涙ではないことは、はっきりとわかった。

 家理の左遷は、娘に恋をあきらめさせようという、親心だった。

 父はすっかり恐縮し、家理に深く詫びたのだった。

 万々歳、というわけにはいかない。けれど、もう大丈夫だと、そう思えるのは、幼なじみのおかげだ。

「姉さん」

 声をかけると、晴子はほほえんだ。

「朱音との逢瀬がうまくいかないの。情けないこと」

 元気になったかと思えば、これだ。俊之はしかめつらで言い返した。

「あっちには猫又がついてますからね」

「門前払いなの、あいかわらず」

「ええ。ひたすら塀ばかりで、入れません」

「文もだめ?」

「うちの家人はだれもあちらに入れません。よその人を御使いに頼んでも、無理なんです」

「賄賂は贈ったの」

 俊之はうなるように言った。

「干魚だけが消えて、文は突き返されるんです」

 いままで、こんなことは一度だってなかった。いつの間にか、正月もすぎてしまった。そろそろ桜が満開になるころだ。

 次に会うときはきっと、今までの関係から一線を画することになる。少なくとも、俊之はそういう心づもりでいる。だからこそ、奈母呂はこんな風にじゃまをするのだろう。

 試されているのだ。

 いつだったか、朱音の父が問わず語りに話してくれたことを、俊之は思い返した。

 朱音の母への求婚は、命がけだった。二度は死にかけ、三度目でようやく奈母呂に認めさせることができた。肝要は、絶対にあきらめないことで、とにかくあきらめなければ大丈夫、ということだけはわかっている。

 しかし、とっかかりがつかめない。

 閉め出された状態で、どうすればいいのか、俊之は途方に暮れた。

「何かいい考えでもありますか」

 晴子はうれしそうに目を細めた。

「おまえに護法を施してあげる」

「護法?」

 驚きようがよっぽどおかしかったのか、晴子は袖で口元を隠して笑った。

「なにも、陰陽師や験者の専売とは限らないのよ。かわいい弟のために、今度は姉がひと肌ぬぎます」

「こんなもので、ほんとうにおびき出せるものだろうか」

 口元を布で覆った俊之は、火鉢を扇であおぎながらぶつぶつ言った。

 買い集めたのは、都中の干魚だ。

 それらを、屋敷だけではなく、あちこちで焼かせている。

 鯛にひらめ、はては強烈なにおいのする室鰺まで。焼いた煙を竹山第に流し込み、猫又をおびき出そうという作戦だ。

(これが護法、か?)

 こんな方法に頼るしかない我が身が不憫だ。煙がしみて、目に涙がにじんだ。

 屋敷のまわりで魚を焼き始めたのを面白がって、見物人が現れた。噂がどこから漏れたのか、高価な熨斗までつけて、酒やら何やらが届けられ始めた。まるで祝儀の進物だ。

 門からはひっきりなしに人が出入りし、車宿りは牛の鳴き声やら人のわめき声で騒然としていた。

「若君。かしこき方から、首尾はいかがかと。それから、火鉢五十が届きましたが」

「使者殿はてきとうにもてなしておけ。それから、あとで酒を振る舞うから、魚は自分で焼けと、見物人に頼んで回れ」

 俊之は半分やけになりながら、言いつけた。

 牛の体を押しのけて往来にでると、まるで加茂祭のときの一条大路のようなにぎわいだった。御所からの車が何台も屋敷にやってきたのを、面白がって見に来たのだろう。

 魚を焼くものと、焼きあがったのをむしろの上に並べるもの。気をひこうというのか、猫をどこからか借りうけてきたものがいる。にゃあにゃあと鳴き重なる声が耳についた。俊之は口元の布を押し下げて、辺りを見回した。

 呼び声が聞こえたような気がしたのだ。

 父が人をかき分けてやってきた。二人は道のはじに身を寄せた。

「ここにいたか」

「父上。騒ぎを起こしてすみません」

 竹山第の門がこのまま現れなければ、塀を突き崩して入るしかない。

 そんなことを考えながら塀を見上げていると、父は俊之の肩を叩いた。

「猫神様の試練とやらだな。よし、火鉢はどこだ。わしも一枚焼こう」

 俊之は口ごもった。

「よいのですか?」

「なにがだ」

「わたしはこの先、よそには一切通わぬつもりですが」

 父は、切れの長い目で、にらむように俊之をみつめた。

「当たり前だ。神に仕えるくらいの心持ちで、くれぐれも朱音殿に愛想をつかされぬようにするのだな」

 それから、しみじみとつぶやいた。

「祝殿には、頭があがらぬ」

「父上、祝殿、というのは」

 猫又が朱音をそう呼んでいた。

「あまたの言祝ぎを、口づけひとつで下されるからついた呼び名だ。おまえは赤子の時分に、朱音殿の母上の言祝ぎで救われた。それから、病一つしたことがない。竹山第にお招きしたのも、それが縁なのだよ」

 父は小さな袋を俊之に手渡した。灰のような手触りがある。

「これは何です」

「猫神様に差し上げろ」

 歓声があがった。

「門が現れたぞ!」

 誰かが声を上げた。ざわめきの中、俊之は駆けだした。

 屋敷というのは、どこも造りはそう変わらない。

 幼い頃から出入りしているなら、なおさら、迷うはずなどない。

 門から入ってまっすぐ朱音の居所を目指したはずが、いつのまにか池のふちをぐるぐる歩き回っていた。

 人の気配はまるでない。竹も草木もそよともなびかず、ことのなりゆきを見守っているようにも思われた。

 寝殿に向けて走ったはずが、気づけば車宿りにでている。

 首をひねっていると、門から顔をのぞかせた見物人から「臆したのか」「がんばれ」などと無責任な野次が飛んできた。頬をひきつらせながら、きびすを返すと、俊之は簀の子を一歩一歩踏みしめて北の対をめざした。

「朱音!」

 まるで迷い道だ。目指すところまでたどりつける気がしない。でも、引き返すつもりもない。

「きみの顔を見るまで、帰らないからな」

 声をかぎりに叫んだとき、鈴の音がかすかに耳に届いて、俊之は顔を上げた。白描が目の前にいて、毛繕いをしていた。

「うるさいにゃあ。人の家でやかましく騒ぎ立てるのはよせってば」

「あらわれたな、猫又」

 ひたすら歩かされるのにうんざりしていたので、このさい現れたのが猫又でもありがたかった。

「朱音はどこだ。あの人に会わせろ」

「いやだね。そんなに会いたいなら、奈母呂を倒してからいくにゃ」

「じゃあ、遠慮なくそうさせてもらおう」

 猫又は不機嫌そうにうなった。

「祝殿には一生会えない。あきらめにゃ」

「何を言おうと、むだだ」

 袖から干魚を取り出すと、俊之は桃色の鼻先にちらつかせた。舌なめずりをした奈母呂は、全身をふるわせ、毛を逆立てた。

「あまく見るにゃよ。干魚のひとつやふたつで」

「何が一番好きだ? 鯛か、ひらめか、室鰺か? ああ、そうだ、これはどうだ」

 父に渡された袋も一緒に見せると、奈母呂は震えだした。

「わわわわ、またたびびびび」

「猫にまたたびか」

 俊之は吹き出した。

「ず、ずず、ずるいぞ。さっきから薫香責めにしてるのもおまえだろう。ずるい。こんなの認めにゃい。正々堂々とかかってこいにゃ」

 むせび泣くように猫又は激しくしっぽを振った。理性とまたたびの間で揺れているのだろう。

「知るか。酒で神をやわすのは、大昔からの人の知恵だ」

「ちょこざいにゃ」

 飛びかかってきたので、魚をひとつ放ったら、そちらに気がそれたらしい。俊之はそのすきにむんずと腹のあたりをひっつかんだ。

「ンィニィィヤァァァ!」

 すさまじい声が響いた。耳をつんざく、絶叫だ。

 頬や手をさんざん引っかかれたが、離すつもりはない。

 首根っこをつかむと、俊之は翡翠色の眼をにらみつけて、厳かに言った。

「さあ、案内しろ」

 朱音は釣殿にいた。とたとたと軽やかな足音がして、奈母呂があわてた様子で飛びついてきた。

「どこに行ってたの。また魚をくすねてきたのね」

 ぷうんと生臭い香りがする。

「祝殿、助けて。あいつがいじめる。いじめるんだよう」

 振り返ると、俊之がいた。

 くたびれ果てた様子で彼は座り込んだ。

「久しぶり」

 頬はそげ、目つきなどはいくぶん殺気立っている。

「元気か?」

 別人のような変わりように驚いて、朱音は目をみはった。

「どうして、魚臭いの」

「けっこういぶされたからな」

 俊之は朱音の膝の上で丸まった白描を一睨みして、低い声で命じた。

「席を外せ。猫又」

「どかせるものなら、やってみにゃ」

 俊之は腕を伸ばし、奈母呂のしっぽをあっさり捕まえた。そして、二、三度振り回し、池へと放り投げた。ぽちゃん、というかすかな水音がした。

 俊之は冷ややかに言った。

「負けは負けだ。いいかげん、認めろ」

 それから、朱音をみつめた。

「きみは、よっぽど愛されているよな」

「そう?」

「そうだよ」

 苦笑いするのを、朱音は息をのんでみつめた。

「さあ、おれは来たけど、きみはどうする」

「どうするって、どうしたらいいの」

 俊之は情けない顔でつぶやいた。

「おれの妻問いを受けるのか、断るのか」

「う」

「う?」

 向かい合うと、俊之は笑顔になった。

 かすかに笑って、俊之は顔をかたむけた。鼻先がふれあうくらい近くで、彼はやさしくうながした。

「うんって言いな」

 顔がほてり、鼻の奥がつんとして涙がこぼれそうになる。

「うん」

 あえぐように声を上げ、朱音は彼の背に腕を回した。

 俊之はひたいに唇を寄せた。

 くすぐったくて、うれしい。胸が、苦しい。

 俊之は笑みを消して、こわばった顔で朱音をみつめた。

「どれだけ顔を見たかったか、きみに会ってやっとわかった」

 朱音の頬をつたいおちた涙を、俊之の唇がたどる。いつしか、二人の唇はぎこちなく合わさった。

 今このときの気持ちが、ずっと続けばいい。

 とらわれていたいと願う心が、同じならいい。

 結ばれた想いが、とこしえにほどけないように、願いをこめて。

 朱音はそっと、目を閉じた。

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ