the girl licking a wound
俺の右腕はこんなに真っ赤だっただろうか。
俺の右腕はこんなに痛みを刻んでいただろうか。
俺の右腕はこんなに生温かいものだっただろうか。
力を入れれば入れるほど、真紅の流体は噴き出し、俺の足元まで染めあげる。まるで大洋を作る神にでもなったような。流れ出る勢いも弱まり、その力も入らなくなってきた頃、ようやく頭が状況を理解し始める。
光を失った目、ピエロのように薄ら笑いのまま固定されている唇の端、幼稚園児の落書きのように入り乱れている長い髪の奥にこんな表情をみてとることが出来た。
表情は静止画の様に止まり、体は引きつるように笑う間隔で上下に挙動する。
狂気めいた少女がそこにいた。
めいた、と表現するより狂気そのものなのかと気付く要因は別にあった。彼女の右腕に握られているものが、俺の右腕から発している色と同じ色で。俺の足元と同じように彼女の足元にも海が作られていた。彼女のそれは、なんとなく作られているというよりは作っているような感じが俺の目にさらに狂気に色濃く写される。少女は笑う。
「ふふふ、なんで見ているの?ふふふ」
少女の狂気の真意はわからない。だからこその狂気というものだ。
「ジュンくんが私を見てる、ふふふ」
「やめろ、アキ。俺は何もしていない」
少女の快悦を帯びた目が一転、醜い虫でも見るような目に変わった。俺は威圧され、一歩下がる。急に後ろに下がったからだ、そう思うと同時に俺は床に尻餅をつき、彼女を見上げる状況に置き換わった。今の一言で問題があったことはわからないが、彼女の気に障るフレーズであったことはわかった。
「ジュンくん?これ、なぁに?」
前句はいつもの口調で、後句は2トーンくらい引き下げたような口調で。少女はスカートも気にせずに俺との間合いを瞬時に詰め、ズボンの後ろのポケットにある小さな布をもぎとった。桜の花びらがプリントされた白が基調のハンカチ。彼女はそれを左の指と指で汚い物をもつかのようにつまみ上げ、再び俺と間合いをとる。彼女の右手には未だに俺の痛みの原因を鈍く光らし握っている。いつでも俺の左手は彼女のそれで同じ凄惨を味わうことが出来る。そんな絶妙な間合いで俺を見下ろす。
「これ、なぁに、って言ってるの」
アキは左指で摘んだハンカチを振る。
「俺のじゃない」
「誰の?」
「…」
「ねぇ、誰の?」
段々アキの声のトーンが上がってくる。もともとの口調よりも高い口調で、楽しそうな声で、歌うようなリズムで。
「誰のでもいいんだけどね」
金切り声なくらい高まった口調でアキは言葉を吐いた。
「だって、もう、これの持ち主は」
そこで区切ると同時にアキの唇が声を発した振動で大きく一回揺れる。
とても艶かしかった。
とても美しかった。
とても、とても。
アキの唇はもう緩んでいない、プラスチックのオブジェのように無機質だ。
先のセリフを聞くのが怖い。冷や汗が体に浸透していく。
「殺してきたから…」
浸透した汗が凍りついた。凍りついた水滴は俺の神経を痛いくらいに逆撫でする。神経は麻痺しているとも過敏になっているとも言えた。
彼女の口から人が死んだと伝えられた。
偽りだとしても、彼女の口上では人が死んでいる。
死者は、何も語らない。
「ッ…!」
死んだのは俺もアキもよく知っている人物だ。神経を逆撫でするのをやめた体は俺に嗚咽をもたらす。声にならない叫び声を俺の体は荒げ続ける。
「だから、正直に言えばどうでもよかったの」
アキは俺の嗚咽には気にも留めない様子で続ける。どうでも、よかった?理解に時間がかかる。鬱陶しい。理解できない内容にも気付けない。
「ジュンくんは優しすぎるの、だから罰」
アキは右手の包丁で俺の右腕を示す。
「罰…?」
「ジュンくんの優しさは罪なんだよ?」
「罪…」
やまびこのように俺は繰り返すことだけしかできない。それが俺の優しさで、罪で、罰の原因なのかもしれない。
「でも、すこしやりすぎちゃったかなぁ」
いつもの調子に似たような感じでくすっと笑い、床に両手を突いている俺の眼前に寄る。
俺は目を逸らす。自分の右腕が目に入った。しなびた赤い風船のように張りのない右腕。噴き出す血の勢いはどこへやら、今では俺の体の邪魔な部位となっている。
邪魔だ。この右腕のせいでアキを傷つけた。この右腕のせいで俺が傷ついた。あの子も傷ついた。忌々しい。鬱陶しい。腹立たしい。憎たらしい。
俺の視線に気付いたのか、アキも俺の右腕を見る。
「これが憎い?」
「…」
声にせず頷く。声はもう出せると思う。でも、声を出すべき問いではない感じがなんとなくした。
「そっか、気付いてくれたんだ」
声の調子はもういつものそれだ。
いつもの、アキだ。
「ごめんね、私もやりすぎちゃった」
アキが謝る。アキと視線が合う。アキは微笑み俺にキスをする。
複雑な気分だった。嵐が津波をもたらし水ごと引き上げていったような。
しかし結果は残っている。嵐で受けた傷が痛み出す。
「くっ…、うぁっ…」
キスをしている最中に呻き声を上げるのは甚だ紳士ではないかと思うが、我慢ならない声が潜在的に働いた。
「ジュンくん?痛む?」
そう言いながら彼女は俺の右腕に舌を伸ばした。温かい感触が伝わる。
アキは興奮しているようだ。
「んッ、ジュンくん、ごめんね、んはぁ、んっ」
必死でアキは俺の右腕を舐める。舌なのか血なのか唇なのか目視では判別できない。でも感覚ははっきりとわかった。アキの舌が動脈を撫で、唇が肌を覆い、歯の冷たさが気持ちよく感じた。
「ど、どうかな?」
アキはいつの間にか正座して俺を見上げていた。目には潤んだ瞳がころころ細かく振動している。愛らしかった。
「んっ、はぁっ、…ちゅ、」
俺の返事も待たずにアキは舐める作業に戻る。痛みなどもうない。自分がつけた傷を自分が舐めている。この状況にすこし体が上気しつつあった。なんとなく恥かしい。
「ちゅっ、くちゅ、れろ、ん、くはぁっ」
自分の呼吸も忘れ俺の右腕を舐めることに集中している。親犬が傷ついた子犬を舐める如きその光景は俺の目に、耳に、頭に、焼きついた。
一生忘れない、この経験は。
そのくらいにアキも真面目だった。
一通り舐め終わり、俺の右腕は15cmほどの裂け目を残すほかはいつもの右腕に戻った。
アキの口元も微かに赤みが残る以外は普通だ。
立ち上がろうとしたところで電気が走ったように気付く。ハンカチをくれたあの子は?
「…アキ」
「どうしたの?ジュンくん」
「あの子は?」
「死んじゃった」
アキは続ける。
「ううん、殺したの。邪魔だから。ジュンくんの優しさは私だけのもの。他の人にはもったいない、わからないやつは殺す」
「…」
「ねぇ、ジュンくん、生きてる人ってなにすると思う?」
考えたこともない質問だ。考える気にもならない。
「私はね、生きてる人って何も意味がないと思うの。誰かを傷つけ、傷つけられ、邪魔し、邪魔され。裏切り、」
アキは再び言葉を区切り、俺の目の前で呟く。
「裏切られ。」
体が熱い。燃えるようだ。燃えているのかもしれない。否、燃やされているのかもしれない。誰に?そうか、裏切ったのか。俺が。みんなを。燃えている。体が。体が俺を裏切る。俺は体を裏切ったのか。燃える。アキの目が。裏切りに燃える。燃えている体はアキを裏切るのだろうか。そして裏切られるのだろうか。結果は、裏切られている。
「ジュンくん、一緒に」
アキは自分の手を真っ赤に染めながら手を振りかぶり、アキ自身の体に勢い良く突き刺した。アキの体は、アキに裏切られた。同時に裏切ったように、俺たちのまわりには俺の血と、アキの血。
血と血は裏切ることなく溶け合い、二人の周りを聖域と化すように広がり続ける。
生者こそ、なにも語らない。死を経験しない生者は語る知識がない。死者はその経験から様々なことを語る。死者のが生者より語る。死者は裏切らない。
アキが続きを囁く。
「生きよう…?」
俺たちはもう裏切らない。