婚約破棄、承知いたしました。では、王家との契約も終了させていただきます
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王宮の大広間には、祝宴に集まった貴族たちの華やかな笑い声が響いていた。
磨き上げられた大理石の床には、巨大なシャンデリアの光が幾重にも反射している。楽団の奏でる優雅な旋律に合わせ、着飾った紳士淑女が談笑し、王国の未来を祝うように杯を掲げていた。
その中心に立つ王太子アレクシス・ヴァレンティアは、傍らに寄り添う一人の令嬢へ穏やかな笑みを向けていた。
リリアーヌ・ベルローズ。
柔らかな栗色の髪と、誰に対しても物怖じしない明るい性格で知られる伯爵令嬢だ。彼女は王太子の言葉に楽しげに笑い、周囲の貴族たちにも自然な笑顔を振りまいている。
その光景を少し離れた場所から眺めていたエレノア・アシュフォードは、手にしたグラスを静かにテーブルへ戻した。
今日の祝宴が始まってから、アレクシスは一度も彼女のもとへ来ていない。
以前なら、どれほど多忙であっても、彼は必ず最初にエレノアへ声をかけていた。王太子としての公務が終わったあと、二人で翌月の財政報告を確認することもあったし、外交使節を迎える前には、相手国の事情について意見を求められることもあった。
それが、ここ数か月で少しずつ変わっていた。
エレノアは、その理由を知らないわけではなかった。アレクシスがリリアーヌと親しくなったことも、彼が彼女との時間を何より楽しみにしていることも、すでに王宮では周知の事実となっている。
それでもエレノアは、今日という日が来るとは思っていなかった。
少なくとも、何の前触れもなく、大勢の貴族が見守る祝宴の席で告げられるとは考えていなかった。
「エレノア・アシュフォード嬢」
不意に名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
アレクシスがこちらへ歩いてくる。その表情には迷いがあったが、決意が揺らいでいるようには見えなかった。リリアーヌも彼の後ろに続いている。
周囲の会話が少しずつ途切れ、二人の様子をうかがう視線が集まり始めた。
「少し、話がある」
「承知いたしました」
エレノアは背筋を伸ばした。
アレクシスは一度だけ息を整え、それから周囲にも聞こえる声で告げた。
「本日をもって、君との婚約を解消したい」
広間から音が消えた。
楽団の演奏だけが、場違いなほど明るく響いている。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
エレノアの声は、普段と変わらなかった。その落ち着きが意外だったのか、アレクシスはわずかに眉を動かした。
「君がこれまで王家のために尽くしてくれたことは、十分に理解している。財政の立て直しも、交易路の整備も、君の働きがなければ成し遂げられなかっただろう。そのことには感謝している」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「だが、これからの王家には、別の形の協力関係が必要だと考えている。君は優秀だ。しかし、王太子妃となる者に求められる役割は、政務の実務だけではない。貴族たちとの関係を築き、王家と人々の距離を縮めることも重要になる」
そこでアレクシスは、後ろに立つリリアーヌへ視線を向けた。
「私は、リリアーヌを生涯の伴侶として迎えたい」
リリアーヌは少し困ったように微笑んだ。けれど、その瞳には隠しきれない期待が浮かんでいる。
エレノアは二人を見つめた。
怒りがないわけではなかった。
十年間、王家のために働いてきた。幼い頃から家庭教師に学び、王太子妃として必要な教養だけでなく、財務や法務、外交文書の読み方まで身につけた。婚約者としての役割を果たすために、遊びたい盛りの時間を削ってきたこともある。
それでも、アレクシスが自分の働きを認めていることは分かっていた。彼は決して、エレノアを無能だと思っているわけではない。むしろ、彼女の能力を高く評価しているからこそ、いつまでも頼りきりになることを恐れているのだろう。
王位を継ぐ者として、自分自身の判断で国を動かしたい。その気持ちは理解できた。
だが、そのために婚約を解消し、これまで築いてきた協力関係まで変える必要があるのか。
彼は、その先に何が待っているのかを考えたのだろうか。
「……承知いたしました」
エレノアは静かに頭を下げた。
アレクシスが目を見開く。
「それだけ、なのか?」
「婚約は、お互いの意思によって結ばれるものです。殿下が解消を望まれるのであれば、私が無理にお引き止めする理由はございません」
「いや、私は……」
「これまでのことについて、感謝しております。殿下が国の未来を考え、ご自身の判断をなされたのであれば、その決断を尊重いたします」
エレノアは顔を上げ、王太子をまっすぐに見た。
「ただし、婚約の解消に伴い、王家とアシュフォード公爵家との共同事業については、契約に従って必要な手続きを進めさせていただきます」
アレクシスの表情から、わずかに戸惑いが消えた。
「共同事業?」
「はい。婚姻を前提として締結された協力契約です。契約条項に従い、保証条件と資金提供の範囲について再審査をお願いすることになります」
「それは……」
「詳細は財務卿を通じて、正式な文書でお知らせいたします」
エレノアはそれ以上説明せず、再び礼を取った。そして、返事を待つことなく、その場を離れた。
広間の人々は道を空けたが、誰一人として声をかけようとはしなかった。
アレクシスは去っていく彼女の背中を見つめながら、困惑したように眉を寄せていた。
彼が想像していたのは、涙を浮かべて理由を問いただすエレノアの姿だったのかもしれない。あるいは、婚約者としての立場を失うことを恐れ、もう一度考え直してほしいと頼む姿だったのか。
少なくとも、彼女があれほどあっさりと受け入れるとは思っていなかった。
「殿下」
リリアーヌがそっと声をかける。
「大丈夫でしょうか。エレノア様、怒っていらっしゃるのでは……」
「いや。彼女は合理的な人間だ。感情だけで判断することはない」
アレクシスはそう答えた。
「それに、これまでの仕事はきちんと引き継がれる。契約の話も、財務卿に確認させれば問題ないだろう」
彼はそう考えることにした。
この時点では、それが間違いだったとは思っていなかった。
◇◇◇
翌朝、王宮の財務局に一通の文書が届いた。
差出人は、アシュフォード公爵家の名代として共同事業を担当してきたエレノア・アシュフォード。文書には、婚約解消に伴う共同事業契約の再審査申請と、引き継ぎに関する手続きが記されていた。
財務卿マルセル・グレイヴは、書類を机に置いて眼鏡を押し上げた。
「……ついに来たか」
彼は驚いてはいなかった。婚約破棄の噂は、すでに王宮中へ広まっていた。エレノアが正式な手続きを進めることも予想していた。
問題は、その内容である。
「再審査とはいっても、共同事業そのものを停止するわけではないのだろう?」
向かいに座る法務官が、契約書の写しを開いた。
「契約上、直ちに全事業が停止するわけではありません。ただし、公爵家による信用保証と追加資金の提供については、婚姻を前提とした長期協力関係の変更に伴い、条件を見直すことができます」
「保証の範囲は?」
「既存の債務については、契約に定められた条件が適用されます。すでに成立している取引がすべて無効になるわけではありません。しかし、今後の追加融資や、期限の延長を含む新たな合意については、改めて双方の承認が必要です」
マルセルは唸った。
王家と公爵家の共同事業は、十年前の財政危機を乗り越えるために始まったものだ。王家が土地や行政上の権限を提供し、公爵家が資金と商会との信用保証を提供する。その協力によって交易路を整備し、地方から王都への物資輸送を安定させてきた。
エレノアはその実務を一手に引き受けていた。
だが、契約書も帳簿も残っている。長年の取引先も、すでに王家と直接契約を結んでいる。彼女が去ったからといって、すべてが止まるわけではない。
「後任を置けば済む話ではないのか?」
「制度上は可能です。ただ、引き継ぎには時間が必要でしょう」
「ならば、引き継ぎを徹底させればよい。王太子殿下も、これからは財政の実務を王家自身で掌握したいとお考えだ。むしろ、よい機会なのかもしれん」
マルセルはそう結論づけた。
彼自身、エレノアの能力を高く評価していた。しかし、優秀な人材が一人いなくなった程度で組織が機能しなくなるのなら、それは制度として未完成なのではないか。そう考える気持ちもあった。
その判断は、半分だけ正しかった。
確かに、制度は必要だった。特定の人間に依存しすぎない体制を整えることも、王家の将来にとって重要な課題である。
だが、制度が存在することと、その制度を適切に運用できることは別だった。
マルセルは、その違いをまだ十分に理解していなかった。
◇◇◇
エレノアは、王宮を離れる前に最後の引き継ぎを行った。
執務室には、十年間にわたって蓄積された帳簿や契約書、各地の報告書が整然と並んでいる。壁際の棚には、穀物の収穫量を記した台帳、輸送路の整備計画、商会ごとの取引履歴が収められていた。
彼女はそれらを一冊ずつ確認し、後任となる財務官に説明していった。
「こちらは北部三領の穀物備蓄に関する記録です。数字だけで判断しないでください。北部では、収穫量が同じでも輸送に使える日数が年によって異なります」
「輸送に使える日数、ですか?」
「はい。春先の雪解けが遅れれば街道の一部が使えなくなります。秋の雨が多ければ、収穫が十分でも輸送が遅れます。帳簿上の在庫が多いことと、必要な時期に物資を届けられることは同じではありません」
若い財務官は、説明を書き留めながら頷いた。
「こちらは商会ごとの支払い条件です。契約書に記載された期限のほかに、過去の取引実績に基づいて調整しているものがあります。条件を変更する場合は、必ず先方と協議してください」
「契約書どおりに処理するだけでは、いけないのですか?」
「契約書どおりに処理することは大切です。ただ、契約書に書かれた条件だけで、すべての取引が成り立っているわけではありません」
エレノアは別の帳簿を開いた。
「たとえば、王家への納入が数日遅れた場合、契約上は違約金が発生する商会でも、事前に事情を説明すれば納期を調整してくれることがあります。反対に、王家が支払いを遅らせた場合、相手によっては一日の遅延も認めないでしょう。相手の事情を理解し、こちらが守るべき約束を守っているからこそ、交渉の余地が生まれるのです」
財務官は真剣な表情で耳を傾けていた。
エレノアは、必要な情報を隠すつもりはなかった。自分がいなくなった後も、事業が可能な限り円滑に続いてほしいと思っていたからだ。
ただし、彼女が十年間かけて築いた関係を、数日の説明ですべて引き継げるとは考えていなかった。
「以上が、私の担当していた業務です。記録の閲覧については、財務局の規定に従ってください。不明点があれば、正式な文書で照会していただければ、契約上の範囲で回答いたします」
財務官は、少し不安そうな顔をした。
「エレノア様は、もう王宮へいらっしゃらないのですか?」
「必要な引き継ぎは完了しましたから」
「ですが、殿下も財務卿も、しばらくはエレノア様に助言をいただきたいと考えているはずです」
「助言が必要であれば、正式に依頼していただければよいのです」
彼女は穏やかに答えた。
「私が婚約者だった頃と同じように、いつでも呼び出してよいというわけにはいきません。今後は、公爵家と王家の契約に従って対応することになります」
財務官は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
エレノアは最後に書類の束を確認し、署名欄に自分の名を記した。これで、彼女が負うべき責任は一区切りついた。
王宮を去る日、彼女は執務室を振り返らなかった。
十年間、ここで働いてきた。苦労もあったが、やりがいもあった。王国の仕組みが少しずつ整い、地方の人々が以前より安定して暮らせるようになったことを、彼女は誇りに思っている。
だからこそ、最後まで必要な仕事を済ませた。
それ以上のことを求める理由は、もうなかった。
◇◇◇
エレノアが王都を離れてから、最初の一か月は何事もなく過ぎた。
王宮では、新しい体制が順調に動き始めていた。
王太子アレクシスは、財務局から提出される報告書を自ら確認し、重要な政策の決定に関わるようになった。これまではエレノアが事前に整理した選択肢の中から判断することが多かったが、今は原資料を読み、自分で方針を決める機会が増えている。
そのことに、彼は充実感を覚えていた。
「殿下、北部の収穫予測が届いております」
財務卿マルセルが書類を差し出した。
「今年は平年並みか。備蓄計画に変更は必要ないな」
「現時点では、そのように考えております」
「ならば、予定どおり進めてくれ。輸送費の見直しについては、先日の会議で決めた案を採用する」
「承知いたしました」
マルセルが退室すると、アレクシスは満足げに書類を閉じた。
これまで自分が十分に関われなかった財務の仕事を、一つずつ把握できるようになっている。多少の時間はかかるだろうが、いずれ王家自身で安定した体制を整えられるはずだった。
リリアーヌも、王宮での生活に慣れ始めていた。
彼女は貴族たちの集まりに顔を出し、王太子の代理として慈善事業の視察に赴き、地方から訪れる貴族夫人たちと親交を深めていた。エレノアが苦手としていた華やかな社交の場でも、彼女は自然に人々の輪へ溶け込んでいく。
「リリアーヌのおかげで、貴族たちとの関係も以前より円滑になった」
ある夜、アレクシスはそう語った。
「エレノアは確かに優秀だったが、彼女が担当していた仕事をすべて一人に任せる必要はない。役割を分け、それぞれが得意なことを担当する。そうすれば、もっとよい体制を作れるはずだ」
「殿下のお考えは正しいと思いますわ」
リリアーヌは微笑んだ。
「誰か一人に頼りきりになるのは、よいことではありませんもの」
アレクシスは頷いた。
彼女の言葉は、彼が自分の決断を正しいと信じるための後押しになった。
もちろん、二人とも王国のためになることを望んでいた。アレクシスは王太子として責任を果たしたいと考え、リリアーヌは彼を支えたいと思っていた。
ただ、二人には見えていないものがあった。
エレノアが担っていたのは、帳簿を作り、会議で説明し、書類を処理する仕事だけではない。
彼女は、報告書に記された数字の背後にある事情を把握していた。どの商会がどの程度の遅延なら受け入れられるのか、どの地方で輸送路が使えなくなる可能性があるのか、どの契約を先に調整すれば別の取引へ影響が及ばないのか。
それらは、決まった手順だけでは処理できない。そして、問題が表面化した時には、すでに複数の事柄が絡み合っていることも多かった。
その最初の兆候が現れたのは、王都に秋の気配が近づき始めた頃だった。
◇◇◇
「北部からの輸送が、予定より遅れております」
財務局の会議室で、担当官が報告した。
マルセルは資料を確認した。
「輸送量そのものに問題はないのだろう?」
「はい。収穫量は平年並みです。ただ、先月の長雨によって一部の街道がぬかるみ、荷車の通行に時間がかかっているようです」
「では、別の街道を使わせればよい」
「それが、代替路を使う場合、輸送費が予定より二割ほど増加する見込みです」
「二割だと?」
マルセルは眉をひそめた。
「契約上、輸送費の変更には事前の協議が必要だったはずだ。なぜ、今になって報告が来る?」
担当官が差し出した書類には、確かに通知の記録が残っていた。ただし、それは輸送経路の変更に関する問い合わせとして分類され、費用の再調整を求める申請とは別の扱いになっていた。
「書類の分類を間違えたのか」
「そのようです。担当者は、契約書に記された基本経路が使えなくなった場合の規定に従い、代替路の利用を認める旨を回答しております。しかし、費用の変更については、別途協議する必要があると考え、回答を保留していました」
「ならば、今から協議すればよい」
「はい。ただ、先方はすでに代替路を利用して輸送を始めております。追加費用の負担について合意できなければ、今後の輸送量を減らす可能性があるとのことです」
マルセルは深く息を吐いた。
契約の条文だけを見れば、担当者の処理は間違っていない。費用の変更について合意が成立していない以上、先方の要求をそのまま認めるわけにはいかなかった。
しかし、輸送を止められるのも困る。
「先方と交渉する。王家としては、契約の範囲内で対応するつもりだと伝えてくれ」
「承知いたしました」
担当官は会議室を出ていった。
マルセルは書類を見つめたまま、しばらく考え込んでいた。
エレノアなら、どう処理しただろうか。
そんな考えが頭をよぎったが、彼はすぐに打ち消した。いつまでも彼女に頼るわけにはいかない。自分たちで判断し、問題を解決することこそ、今回の体制変更の目的だった。
その数日後、王都の市場では穀物の価格が上がり始めた。
まだ深刻な値上がりではない。商人たちは輸送費の増加を理由に、卸売価格を少しずつ引き上げていた。
王宮では、備蓄を一部放出する案が検討された。
「価格が上がり始めた段階で対応すべきです。早めに供給を増やせば、市場の不安も抑えられます」
担当官が提案した。
別の官僚は反対した。
「しかし、今後の輸送状況は不透明です。ここで備蓄を大量に放出すれば、冬に向けて余裕がなくなる可能性があります」
「では、放出を見送るのですか。価格がさらに上がれば、民衆の不満が高まります」
意見はまとまらなかった。
アレクシスは報告を受け、最終的に限定的な備蓄放出を命じた。市場への影響を抑えつつ、冬の備蓄も確保できると判断したのである。
その判断自体は、決して無謀なものではなかった。
だが、北部の輸送遅延と、別の地方で発生していた収穫後の保管問題は、まだ十分に把握されていなかった。
それぞれの報告書は財務局に届いていた。しかし、担当部署が異なり、問題の重要度も別々に評価されていたため、王太子のもとへ一つの状況としてまとめられていなかったのだ。
エレノアがいた頃なら、彼女は複数の報告を照らし合わせ、早い段階で対策を講じていただろう。
しかし、今の体制では、その役割を担う者がいなかった。
◇◇◇
秋が深まるにつれ、問題は少しずつ大きくなった。
北部の輸送遅延は解消されず、代替路を利用する費用も増え続けた。さらに、別の地方では収穫後の雨によって穀物の一部が傷み、当初の予測ほど市場に出せないことが判明した。
王都の市場価格は、備蓄の放出によって一時的に落ち着いたものの、再び上昇し始めていた。
財務局は追加の備蓄放出を提案したが、今度は冬季の供給不足が懸念された。
「北部からの輸送を増やすことはできないのか」
アレクシスが尋ねた。
「可能ではあります。ただし、追加費用について商会との合意が必要です」
「王家はこれまで、彼らと取引を続けてきた。多少の調整には応じるはずだ」
「その点について交渉しましたが、先方は契約に記載された条件の範囲でしか対応できないと回答しております」
「これまで、そこまで融通が利かなかったことはないだろう」
「……はい」
財務卿は言葉を濁した。
実際、これまでの取引では、契約に記載された期限や数量を厳密に適用せず、状況に応じて調整することが珍しくなかった。
だが、それは王家に特別な権利があったからではない。商会側が、王家との長期的な取引を維持する利益を認め、一定の範囲で譲歩していたからだ。
エレノアはその関係を理解し、王家が譲歩を求めるときには、相手にも利益が残る条件を提示していた。
今の王宮には、そこまで判断できる者がいなかった。
「契約書を確認したのか?」
「はい。先方の回答は、契約条項に反するものではありません」
アレクシスは黙り込んだ。
契約がある以上、王家はそれを守らなければならない。それは当然のことだった。しかし、契約を守っているだけでは、これまでと同じ協力関係を維持できない場合がある。
その事実が、彼には理解しがたかった。
「公爵家の保証についてはどうなっている」
「先日、正式な通知が届きました。共同事業契約の再審査に伴い、今後の追加資金提供と保証条件について、見直しを求めるとのことです」
「再審査は、まだ終わっていないのだろう?」
「はい。ただ、契約に定められた手続きですので、王家側も協議に応じる必要があります」
「これまでどおりの保証を継続してもらえばよい。公爵家も、王国の財政が不安定になることを望んではいないはずだ」
マルセルは慎重に言葉を選んだ。
「公爵家も、王国の安定を望んでいるでしょう。しかし、保証を継続するには、双方の合意が必要です。こちらの希望だけで決めることはできません」
アレクシスは苛立ちを隠せなかった。
婚約を解消したのは、王家が自らの力で国を動かせる体制を整えるためだった。公爵家との協力関係を終わらせるつもりはなかったし、エレノアの仕事を否定したわけでもない。
それなのに、彼女が去った途端、これまで問題なく進んでいたはずの取引が次々と難しくなっている。
「……エレノアは、何をしていたのだ」
思わず漏れた言葉に、マルセルは顔を上げた。
「殿下。エレノア様は、これまでの取引について、必要な記録をすべて引き継いでおります」
「記録は見た。だが、なぜ同じように進められない?」
マルセルはすぐには答えられなかった。
帳簿も契約書も、必要な資料は残っている。エレノアが意図的に情報を隠した形跡もない。
問題は、彼らが受け取った資料を読んでも、そこに記された情報をどう判断すればよいのか分からないことだった。
「……記録だけでは、分からないことがあるのかもしれません」
マルセルは、ようやくそう答えた。
アレクシスは眉をひそめた。
「それでは、引き継ぎの意味がないではないか」
「おっしゃるとおりです。しかし、これまでの取引には、契約書に記載された条件だけでは説明できない調整が数多くあったようです」
「それを、なぜ今まで報告しなかった?」
「私も、すべてを把握できていたわけではありません。エレノア様が実務を担当されていたため、細かな交渉の多くは、彼女の判断に委ねられておりました」
アレクシスは言葉を失った。
彼はエレノアの仕事を評価していた。だが、彼女が担当していた業務のすべてを理解していたわけではなかった。
そして、自分が理解していないものを、彼女がいなくても同じように続けられると考えていた。
そのことに、ようやく気づき始めていた。
◇◇◇
数日後、アレクシスはエレノアが残した帳簿を、自分の目で確認することにした。
財務局から運ばれてきた書類は、机の上に山のように積まれていた。彼は一冊ずつページをめくり、商会ごとの取引条件や、過去の支払い記録を確認していった。
最初は、特別なことなど何もないように思えた。
契約の締結日、納入数量、支払期限、保証の範囲。どれも必要な情報が整然と記されている。
だが、読み進めるうちに、いくつもの注記が目につくようになった。
ある商会の帳簿には、支払いを三日延長した記録がある。その理由は、先方が別の地方で洪水被害を受け、一時的に資金繰りが悪化していたためだった。
別の商会には、納入数量を一割増やす代わりに、翌月の輸送費を一部減額する取り決めが記されている。
また別の記録では、王家が期限どおりに支払えなかった際、エレノアが自ら先方へ説明に赴き、分割払いの合意を取り付けていた。
それらの判断は、いずれも契約書の範囲内で行われている。彼女が勝手に王家の財産を使ったわけでも、特別な権限を乱用したわけでもない。
ただ、相手の事情を理解し、双方にとって受け入れられる条件を探していたのだ。
アレクシスは、ある記録の手前で手を止めた。
そこには、北部の商会から届いた過去の報告書が添付されていた。数年前の長雨によって輸送が遅れた際、エレノアは代替路の利用を認めるだけでなく、輸送費の増加分を別の取引で調整するよう提案していた。
その結果、王家は必要な穀物を確保でき、商会も大きな損失を出さずに済んでいた。
今回の問題と、よく似ていた。
だが、今の財務局は、同じ商会との交渉で行き詰まっている。契約の内容は変わっていない。取引先も同じだ。
違うのは、交渉にあたっている人間と、相手との関係だけだった。
「……そういうことか」
アレクシスは、ゆっくりと椅子に背を預けた。
エレノアは、書類を処理していただけではなかった。
彼女は、王家がどこまで譲歩できるのかを把握し、相手が何を必要としているのかを理解し、そのうえで長期的な利益を損なわない条件を選んでいた。
彼女がいなくなったことで失われたのは、知識そのものではない。
知識を使い、判断を下し、相手から信頼を得るまでの積み重ねだった。
アレクシスは、これまでの自分の発言を思い返した。
制度は残る。帳簿も契約書もある。後任を置けばよい。
どれも、間違いではなかった。
だが、それだけでは足りなかったのだ。
彼はエレノアを無能だと思ったことはない。彼女の仕事に感謝していたし、その能力を認めてもいた。
それでも、彼女が築いたものを、彼女がいなくなっても同じように利用できると考えていた。
彼女がどれほどの時間をかけて信用を築き、どれほど細かな判断を積み重ねてきたのか。それを理解する前に、彼女の役割を終わらせてしまった。
アレクシスは、机の上に広がる帳簿を見つめた。
今からでも、彼女に助力を求めることはできるだろうか。
そう考えた瞬間、彼は自分の考えの身勝手さに気づいた。
彼女はもう、王太子の婚約者ではない。王家のために働くことを、当然の義務として求められる立場でもない。
婚約を解消すると決めたのは、自分だった。
それなのに、困ったから戻ってきてほしいと頼むことが、どれほど都合のよい話なのか。
アレクシスは初めて、そのことを正面から考えなければならなかった。
◇◇◇
エレノアは、王都から馬車で二日ほど離れた地方都市、リーヴェルに滞在していた。
この街は、複数の街道が交わる交易の拠点である。王都ほど華やかではないが、周辺の農村や鉱山から物資が集まり、各地の商人が行き交っている。
彼女は以前から、この街を拠点とした新しい交易事業を構想していた。
王家との共同事業を担当していた頃には、時間を取ることができなかった計画だ。各地の商人が収穫や輸送の情報を共有し、必要に応じて物資を融通し合える仕組みを整えようとしていた。
王家のような大きな組織がなくても、地域同士が協力できれば、災害や輸送の遅延による損失を減らせるはずだった。
その日、エレノアは商会の代表者たちと会議を行っていた。
「北部の街道が使えなくなった場合、こちらの街道を利用することはできます。ただし、輸送量には限りがあります」
地図を広げた商人が説明した。
「では、平常時から一定量の物資をこちらへ回しておきましょう。緊急時に一度に移すより、負担が少なくなります」
エレノアが提案すると、商人たちは地図を見ながら意見を交わした。
王宮にいた頃と同じように、彼女は情報を整理し、条件を比較し、各人が受け入れられる案を探していく。
しかし、今は違う。
誰かの婚約者としてではなく、自分自身の判断と責任で事業を進めている。
会議が終わる頃、商会の代表者が一通の封書を差し出した。
「アシュフォード公爵家から、こちらへ届けるよう頼まれていたものです」
エレノアは封書を受け取り、差出人を確認した。
王宮からだった。
中には、王太子アレクシスの署名が入った正式な依頼書が収められていた。
内容は、共同事業の再審査に関する助言を求めるものだった。報酬、期間、情報の取り扱い、責任範囲についても、明確に記されている。
以前のように、いつでも王宮へ来てほしいという曖昧な要求ではない。
エレノアは依頼書を最後まで読み、静かに机へ置いた。
王太子が、ようやく契約の意味を理解し始めたのだろう。
それでも、彼女が王宮へ戻る理由にはならなかった。
彼女は依頼を受けるかどうかを、公爵家の担当者と協議することにした。条件が妥当であれば、助言を行うことに異存はない。王国の人々が困窮することを望んでいるわけではないからだ。
ただし、かつてのように、王家の都合ですべてを引き受けるつもりはなかった。
◇◇◇
それから数か月後、王家とアシュフォード公爵家の共同事業契約は、条件を見直したうえで再締結された。
公爵家による保証は一定の範囲に限定され、追加資金の提供には個別の審査が必要となった。王家は自らの責任で財政と交易の実務を担い、商会との関係を一から築き直すことになった。
その過程は容易ではなかった。
輸送費の増加や支払い条件の見直しによって、王家の負担は一時的に増えた。財務局では業務の分担が見直され、契約管理と現場の情報収集を連携させるための新しい部署が設けられた。
アレクシスは、王太子としてその責任を負った。
彼は公の場で、これまでの財務管理に問題があったことを認め、制度の改善を進めると発表した。エレノアがいなくなったから失敗したのだと弁明することも、彼女に責任を押しつけることもしなかった。
自分の判断が、十分な準備を伴っていなかった。その事実を認めることが、再出発の第一歩だった。
リリアーヌもまた、王宮での役割を改めて考えるようになった。
彼女は社交の場で人々を楽しませることが得意だったが、王妃に求められるのは、それだけではない。国政の判断には、華やかな場では見えない責任が伴う。
アレクシスとの関係が今後どうなるかは、まだ分からなかった。
少なくとも、彼女がエレノアの代わりになればすべてが解決するという考えは、二人とも捨てざるを得なかった。
一方、エレノアはリーヴェルで新しい事業を進めていた。
地方の商人たちは、当初こそ彼女の提案に慎重だったが、情報を共有することで輸送の遅延や在庫不足に早く対応できることが分かると、少しずつ協力するようになった。
エレノアは、すべての判断を自分一人で下すのではなく、各地の担当者が必要な情報を持ち寄り、互いに確認できる仕組みを整えていった。
かつて王宮で築いてきた経験は、今も役に立っている。
だが、もう彼女がすべてを背負う必要はなかった。
ある夕暮れ、エレノアは窓辺に立ち、街道を行き交う荷馬車を眺めていた。
机の上には、王宮から届いた新たな依頼書が置かれている。
今回は、前回の助言に対する正式な報酬の支払い通知と、次回の契約更新に関する書類だった。条件は明確で、責任範囲も限定されている。
彼女は内容を確認し、必要な箇所に署名した。
それから、窓の外へ視線を戻した。
十年前、王家と公爵家の共同事業が始まった頃、彼女はまだ幼かった。王太子の婚約者として国を支えることが、自分に与えられた役割だと信じていた。
アレクシスを愛していたことも、そのために努力してきたことも、嘘ではない。
けれど、彼との婚約が終わったからといって、自分の価値まで失われるわけではなかった。
彼女には、自分の意思で選べる未来がある。
そのことを、今は確かに理解していた。
エレノアは机の上の書類を封筒へ収め、翌日の会議に備えて新しい資料を開いた。
明日もまた、判断しなければならないことがある。
その一つひとつを、自分の責任で選んでいけばよい。
王太子の婚約者ではなく、アシュフォード公爵家の娘というだけでもなく、一人の実務家として。
エレノアは静かにペンを取り、次の計画を書き始めた。




