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あの火、風上から点いてます ~勇者様のヤラセ配信を、一番死にたくない僕が撃ち抜くまで~

作者: 月神世一
掲載日:2026/09/04

あの火、風上から点いてます

~勇者様のヤラセ配信を、一番死にたくない僕が撃ち抜くまで~

 火の匂いで目が覚めた。

 最初に思ったのは、逃げなきゃ、だった。

 次に思ったのは、どっちに、だった。

 風向きを確かめようとして、指を舐めて立てた。左の指先が冷える。風は東から西。火は西で燃えている。つまり僕がいるのは風上で、当面は死なない。

 そこまで確認して、ようやく僕は上体を起こした。

 知らない空だった。

 星が多すぎる。月が二つある。

 自分の手を見た。若い。爪が綺麗だ。二十年こき使った僕の手は、こんな形をしていなかった。

 最後の記憶は、たしか、廊下の床の冷たさだった。

 誰かの名前を呼んだ気がする。

 誰の名前だったかは、思い出したくなかった。

「……ああ」

 僕は自分の膝を叩いて、立ち上がった。

 考えるのは後でいい。今わかっていることだけ数える。

 一、僕は生きている。

 二、ここは僕の知っている場所ではない。

 三、四百メートル先で村が燃えている。

 四、僕は丸腰だ。

 四番目が一番まずい。

 僕は、たぶん、世界で一番死にたくない人間だ。

 昔からそうだった。他の子が滑り台を逆から登っているとき、僕はその滑り台の角度と、落ちたときに頭が当たる場所を見ていた。臆病だと言われた。実際そうだ。僕は今でも、飛行機に乗る前に非常口までの座席数を数える。

 でも臆病というのは、要するに、死にたくないということだ。

 死にたくないから、死なない方法を全部覚えた。

 それが僕の、たった一つの取り柄だった。

 風上に立って、僕は村を見た。

 逃げるのが正しい。合理的だ。知らない土地、知らない火事、知らない人間。首を突っ込む理由が一つもない。

 僕はため息をついて、火の方へ歩き出した。

 理屈は、いつも間に合わない。

 村は死にかけていた。

 木造の家屋が並んでいる。屋根は藁だ。乾いた季節に、藁葺きで、家と家の間隔が二メートルもない。

 防火帯がない。消火設備が見当たらない。井戸は二つ確認できたが、どちらも風下だ。

 この村は、燃えるように作られている。

 誰も悪くない。ただ、誰も、燃えることを考えていなかっただけだ。

 悲鳴が聞こえた。

 右手の家。梁が落ちて、入り口が塞がっている。

 炎の色は橙。まだ温度は低い。三分は保つ。二分半で見ろ。

 僕は駆け寄って、隙間から中を覗いた。

 老人が一人、腰を抜かして座り込んでいた。

「おじいさん、立てますか」

「あ、あんた……」

「立てないですね。わかりました」

 梁を掴んだ。熱い。持ち上がらない。当たり前だ。僕には筋力がない。前世でも、今世でも。

 僕は僕の身体能力を正確に把握している。この梁は動かない。

 なら、道具が要る。

 何もない。

 ポケットには何も入っていない。腰にも何もない。僕は文字通り、手ぶらでここに立っている。

「……何か」

 僕は空に向かって手を伸ばした。

 自分でも馬鹿げていると思う。でも、こういうときに何かが起きないなら、僕は今から人が焼け死ぬのを見ることになる。

「何か、出てくれ」

 何も出なかった。

 当たり前だ。

 僕は歯を食いしばって、もう一度梁に手をかけた。皮膚が焼ける音がした。

 その瞬間、老人と目が合った。

 濁った目だった。もう諦めている目だ。

 僕はその目を、知っている。

 前世で、一度だけ見た。

「――守ります」

 声に出したつもりはなかった。

 空気が、開いた。

 僕の右手の先、何もなかった場所に、亀裂のようなものが走った。そこから滑り出てきたのは、黒い、平べったい板だった。

 持ち手がある。重い。ケブラー製の折りたたみ盾。要人の全身を一瞬で覆うための、あの盾だ。

 僕は考えるより先に展開させ、梁と自分の間に差し込んだ。

 てこの原理。支点は瓦礫。力点は僕の全体重。

 梁が、三センチだけ浮いた。

 三センチあれば人間は通る。

「頭を低くして、腕を前に。這ってください。今です」

 老人が這い出てきた。

 僕は盾を捨てて――捨てた瞬間、盾は空気に溶けるように消えた――老人の襟を掴んで、風上へ引きずった。

 三十メートル走ったところで、背後の家が落ちた。

 僕は膝をついて、しばらく息をしていた。

 手のひらが焼けている。痛い。痛いのは、嫌いだ。

「……あんた、何者だ」

 老人が、僕を見上げていた。

 僕は考えて、一番正しい答えを言った。

「ただの、警備員です」

 地面が揺れた。

 村の中央、広場だったらしい場所に、それはいた。

 大きい。四メートルはある。体表が硬質で、光を鈍く跳ね返している。前脚が鎌のような形をしていた。

 昆虫のようで、昆虫ではない。

 村人が二十人ほど、腰を抜かして固まっている。

 僕は素早く数えた。

 距離、六十メートル。障害物、四つ。逃走経路、南に一本。ただしそこは火が回っている。

 まずい。

 完全にまずい。

 あれが動き出したら、二十人のうち何人が生きて帰るか、僕には計算ができる。

 したくない計算だった。

「――ご安心ください、みなさん!」

 声が、降ってきた。

 光った。文字通り光った。

 金色の何かが空から落ちてきて、地面に着地し、そのまま前へ滑り出た。

 人だった。

 背が高い。金髪。鎧は白と金で、装飾が過剰だ。肩当てに宝石が埋まっている。実戦装備としては最悪だが、写真映えはするだろう。

 その男の周りを、拳大の球体が三つ、ふわふわと飛んでいた。

 球体の一面が黒い。レンズだ。

 ……カメラか。

「魔獣ごときに怯える必要はありません! なぜなら、僕がいるからだ!」

 男が剣を抜いた。

 刀身が青く光った。

 村人が、呆然としたまま、それを見上げている。

 男は魔獣に向かって走り、跳び、一閃した。

 終わった。

 本当に、一回で終わった。

 魔獣の頭部が斜めに落ちて、巨体が崩れた。

 静寂。

 それから、歓声が起きた。

「勇者様だ!」

「ゼロス様! ゼロス・ディバイン様だ!」

 男は――ゼロスは、剣を鞘に納めて、カメラに向かって笑った。

 完璧な笑顔だった。

 歯が白い。角度が計算されている。

「みなさん、間に合ってよかった。もう大丈夫です。僕がいる限り、誰も死なせない」

 村人が泣きながら手を叩いていた。

 僕は、手を叩かなかった。

 そこに立って、燃えている村を見ていた。

 職業病、というものがある。

 僕は二十年以上、事故と事件の後始末をしてきた。人が死んだ場所に立って、なぜそこで死んだのかを再構成する仕事を、数え切れないほどやった。

 だから僕の目は、勝手に動く。

 喜んでいる人を見ずに、燃えている家の並びを見る。

 僕は歩いた。

 一軒目。北の端の家。焼け方が根元から来ている。外壁の下部が最も炭化している。

 二軒目。西へ二十メートル。同じ。

 三軒目、四軒目。

 全部、外側から燃えている。

 僕は立ち止まって、指を舐めて立てた。

 風は東から西。

 最初に燃えたのは、北の端。つまり――

 僕は、燃え方の順番と、風の向きを、頭の中でもう一度並べ直した。

 二回並べ直して、結果は同じだった。

 僕は、自分がこれから言うことの面倒くささを、正確に理解していた。

 言わずに立ち去ることもできる。

 誰も僕を知らない。僕はここの人間ですらない。黙って風上へ歩けば、僕は今日、誰にも嫌われずに済む。

 ……前世でも、僕は何度もそう考えた。

 そして一度だけ、黙った。

 その一度が、僕の人生を終わらせた。

「あの」

 僕は声を出した。

 歓声の中で、それは小さすぎた。

 もう一度、少し大きく。

「あの、すみません」

 何人かが振り返った。

 ゼロスも振り返った。

「はい? どうしました、そこの方」

 優しい声だった。カメラが回っている前で出す声だ。

 僕は自分の指がわずかに震えているのを感じた。

 怖い。単純に、怖い。

 でも僕の口は、勝手に動いた。

「……あの火、風上から点いてます」

 空気が、止まった。

「魔獣は、火を点けません」

 沈黙は、三秒ほど続いた。

 それから、笑い声が起きた。

「何を言ってるんだ、こいつ」

「見ない顔だな」

「頭でも打ったのか」

 僕は頭を下げた。

「すみません。でも、四箇所です。北の端、西二十メートル、その南、それから水車小屋。全部、外壁の下から燃えてます。風上から順番に。魔獣は口から火を吐きませんし、吐いたとしても、風上から順に四箇所を点けて回る理由がありません」

「……ふうん」

 ゼロスが、笑顔のまま近づいてきた。

 カメラも、ついてきた。

「面白い推理だ。それで?」

「それだけです。僕は、そう見えたと言っただけで」

「証拠は?」

 僕は黙った。

「証拠は、ありますか」

 ゼロスの声は、あくまで優しかった。

「……ありません」

「ですよね」

 彼は僕の肩に手を置いた。カメラの前で。

 仕草だけ見れば、優しく諭している構図だった。

「わかりますよ。怖かったですよね。混乱してるんです。人は、理解できないことが起きると、誰かのせいにしたくなる」

 村人が頷いた。

「そうだ、勇者様が助けてくれたんだぞ」

「恩を仇で返すのか」

 ゼロスは僕の肩を、ぽん、ぽん、と叩いた。

 二回目のとき、指が食い込んだ。

 僕にしか分からない強さで。

 彼は僕の耳元に口を寄せて、カメラに拾われない声で言った。

「――証拠、ないんでしょう?」

 僕は動かなかった。

「あなた、正しいのに、負けるんですね」

 彼は身体を離して、また笑顔になった。

 完璧な笑顔だった。

 僕は、二十年で、この顔を何度も見た。

 自分が絶対に捕まらないと知っている人間の顔だ。

 僕は、正直、そこで帰るつもりだった。

 言うべきことは言った。信じるかどうかは相手の問題だ。僕は無力で、証拠もなく、味方もいない。

 合理的な判断は、撤退。

 でも僕が背を向けたとき、ゼロスがこう言った。

「ああ、それと。今の映像、そのまま流しますね」

 僕は足を止めた。

「今、二百万人くらい見てます。うちの視聴者は熱心なので、あなたの顔、明日には各国に出回りますよ」

 村人がざわめいた。

「英雄を貶めた男として。……いや、僕は気にしてませんよ? ただ、事実を配信するだけです」

 彼は肩をすくめた。

「あなたはこれから、どの村に行っても、その顔で歩くことになる」

 僕は振り返った。

 彼はまだ笑っていた。

 僕は、自分の中の何かが、静かに切り替わるのを感じた。

 これは、脅迫だ。

 そして脅迫というのは、相手が僕を「処理すべき問題」として認識したという意味だ。

 つまり僕は、もう当事者になっている。

 ……面倒だな。

 僕は小さく息を吐いて、両手を上げた。

「ひ、ひいいっ」

 情けない声が出た。

 半分は演技で、半分は本物だ。

「や、やめてください、そういうの……お、怒らせるつもりはなかったんです、僕、ほんと、通りすがりで……」

 僕はおどおどと後ずさった。

 二歩。

 右足を少しだけ外へ。

 もう一歩。

 ゼロスが笑いながら距離を詰めてくる。カメラも寄ってくる。村人が僕を囲むように動く。

 いい。

 みんな、動いてくれている。

 あと二歩。

「勘弁してくださいよぉ、僕、争いごとが本当に苦手で……」

 もう一歩、下がる。

 背中に空気が抜ける感触。ここで石垣が切れる。

 いま、ゼロスと僕の間に、遮蔽物がなくなった。

 彼の後ろ、三十歩の位置に、村人の誰もいない空白ができた。

 ――完了。

「……あの、ゼロスさん」

 僕は、まだ情けない顔のまま言った。

「やめておいた方がいいですよ」

 これが、一度目の警告だ。

「は?」

「僕、争いごとが苦手なので。……本当に、やめておいた方がいいです」

「何を言って――」

「あなたの後ろ、三十歩の位置に、金属の缶が二つ転がっています」

 ゼロスの笑顔が、初めて、わずかにずれた。

「二つとも空です。蓋が開いたままで、口の周りに黒い染みがある。油を入れる缶ですね。あれが、なぜ、村の外れの、火の点いた場所の風上に、二つも転がっているんですか」

 村人の一人が、そちらを見た。

「それから、火が点いたのは四箇所。全部、風上から順に。時間差はおおよそ二分ずつ。人間が歩いて回った速度です」

 僕は頭を下げた。

「これが、二度目です。すみません、僕、警告は三回までって決めてるので」

「……何を言ってるんだ、お前は」

 ゼロスの声から、優しさが抜けた。

 剣が抜かれた。

 青い光が、彼の顔を下から照らした。

「調子に乗るなよ、田舎者が。僕は神に選ばれた勇者だ。お前みたいなモブが、僕に何ができる?」

 村人が下がった。

 カメラが三つとも、僕の顔に寄った。

 僕は、その青い刃を見た。

 怖い。

 本当に怖い。

 手が震えている。膝も少し笑っている。僕はいつだって、こういうときに勇敢になれたことがない。

 でも、僕の声だけは、勝手に、変わる。

「――止めましょう?」

 空気の温度が、下がった気がした。

 僕は情けない顔のまま、まっすぐ彼を見ていた。

「三度目です」

「……あ?」

「僕が引き金を引く方が、あなたがその剣を振り下ろすより、コンマ四秒速いです。あなたは踏み込みが大きい。膝が沈んでから刃が届くまで、〇・八秒かかる。僕は〇・四秒あれば足ります」

「何を、」

「撃てば、当たります」

 僕は言った。

「当たれば、死にます。僕は外さないので」

 ゼロスの目が、初めて、僕を人間として見た。

「……だから、止めましょう? 痛いのは、嫌でしょう?」

 三秒。

 彼は、笑った。

 嘲るように。カメラの前で、そうする以外になかったのだろう。

「――死ね、モブが」

 剣が振り下ろされた。

 音は、二回鳴った。

 村人には、それが何の音か分からなかったと思う。

 乾いた、短い音だ。

 一回目で、ゼロスの剣が、根元から砕けた。

 青い光が消えて、破片が地面に散った。

 二回目で、彼の胸当ての留め具が弾け飛んだ。

 金と白の鎧が、片側だけ、ずるりと落ちた。

 ゼロスは、振り下ろした姿勢のまま、止まっていた。

 自分の手の中にあったものが、無くなっていることを、理解できていない顔だった。

 僕の右手には、もう何もなかった。

 出して、撃って、仕舞った。

 誰も見ていない。

 僕はぺこりと頭を下げた。

「すみません。手が滑りました」

 沈黙。

 誰も何も言わなかった。

 二百万人が見ているという配信の、その真ん中で。

「……あ、」

 ゼロスの喉から、掠れた音が出た。

「今の、なんだ。今の、なんだ?」

「手が滑ったんです」

「ふざけるな! お前、何をした!」

「何もしてません」

 僕は、彼の目を見た。

「本当に何かしていたら、あなたは今、立っていません」

 彼の顔から、血の気が引いた。

 僕は一歩、前に出た。

 ゼロスが、一歩下がった。

 英雄が、モブから、一歩下がった。

 カメラは、それを全部撮っていた。

「……最初に言いましたよね。やめておいた方がいいですよ、って」

 僕は、また頭を下げた。

「二度目に、油の缶の話をしました。三度目に、止めましょうって言いました」

 僕は、震えている自分の手を、後ろに隠した。

「僕、警告は三回までって決めてるんです。四回目はないんです。……面倒でしょう? お互い」

 ゼロスは、何も言わなかった。

 言えなかったのだと思う。

 彼は、落ちた鎧を拾おうとして、やめた。

 拾う姿を撮られる方が、まずいと判断したのだろう。

 そういうところは、優秀な人だ。

 彼は僕を睨んで、それから、笑おうとして、失敗した。

 そして、光になって、飛び去った。

 カメラ三つも、慌てて追いかけていった。

 誰も、拍手をしなかった。

 村人たちは、僕を遠巻きに見ていた。

 英雄が逃げた。それはわかる。

 でも目の前にいるのは、金髪でも、光っているわけでもない、みすぼらしい男だ。

 喜べるわけがない。

 僕は気にしなかった。

 僕には、やることがあった。

「そこの方、腕を見せてください」

「え、」

「火傷ですね。二度です。冷やします」

 僕は空間から救急箱を引き出して、その場に膝をついた。

 水を出して流し、清潔な布で覆う。

 次の人。足を挫いている。添え木。

 次の人。煙を吸っている。横向きに寝かせる。

 次の人。出血。止血帯を巻く。締める位置を伝える。時間を伝える。

 五人目を処置しているとき、村人の一人が、震える声で言った。

「あんた……その、さっき言ってたの……本当なのか」

「わかりません」

 僕は手を止めずに答えた。

「僕が見たものを言っただけです。証拠はありません」

「じゃあ、なんで」

「言わないと、次があるからです」

 僕は顔を上げた。

「あの人は、村を焼いて、駆けつけて、助けて、それを配信していた。もしそうなら、あの人にとって、村が焼けるのは、必要な工程です」

 誰も何も言わなかった。

「必要な工程は、繰り返されます」

 僕は、また手を動かし始めた。

「だから、言いました。それだけです」

 夜が更けてから、僕は鍋を出した。

 スープだ。温かい。塩気が少し強め。極限状態の人間は、味が濃い方が飲める。

 パンも出した。焼きたてでなくていい。噛める硬さがいい。

「毒は入っていません」

 僕は言った。

「絶対に、入っていません。それだけは保証します」

 最初に手を出したのは、子供だった。

 子供が飲んで、死ななかったのを見て、大人が飲み始めた。

 当然だと思う。僕だって同じことをする。

 僕は、他人の作ったものが食べられない子供だった。

 だから料理を覚えた。生き延びるためだ。

 三十年かけて、僕はやっと、人の出したものを食べられるようになった。

 あの努力が、こんな形で役に立つとは思わなかった。

 スープを配り終えたころには、東の空が薄くなっていた。

 僕は焼け跡の縁に座って、自分の手を見ていた。

 左の手のひらが、赤黒く腫れている。

 自分の火傷には、何も出ない。

 僕のこの力は、僕のためには一度も働かない。

 ……よくできた仕組みだと思う。

 僕みたいな人間には、ちょうどいい。

「あんた」

 声がした。

 最初に助けた老人だった。

「名前は」

「……神谷シンです」

「カミタニ、シン」

 老人はゆっくり繰り返して、それから頷いた。

「シン。あんた、行くあてはあるのか」

 僕は考えた。

 ない。

 何もない。前世で持っていたものは全部置いてきた。持ってきたのは、死なないための知識と、火傷した手と、人に嫌われる癖だけだ。

「ないです」

「なら、ポポロって村がある」

 老人は、南を指した。

「三日、歩けば着く。貧乏な村だ。何にもない。三つの国のどこにも属してねえ、変な村だ」

「……なぜ、どこにも属していないんですか」

「さあな。誰も知らねえ」

 老人は笑った。

「けど、あそこの連中は、腹が減ってる奴に飯を食わせる。あんたには、ちょうどいい」

 僕は頭を下げた。

 鍋の中に残ったスープを見て、少し考えて、鍋ごと老人に渡した。

「使ってください。……あと、これは余計なことなんですが」

 僕は懐から、焼け残った板切れを出した。

 炭で、線が引いてある。

 村の地図だ。

 風の向きと、家の並びと、井戸の位置と、逃げるべき方向が書いてある。

「建て直すときは、家の間を四メートル空けてください。それから、北側に水を溜める場所を。……大袈裟だと思われるでしょうけど」

 老人は板切れを受け取って、しばらく見つめていた。

「あんた、変な奴だな」

「はい。よく言われます」

 僕は立ち上がった。

 空は、まだ煙っていた。

 歩き出しながら、僕は考えた。

 いつか、店を持ちたいと思っている。

 小さくていい。カウンターが六席あればいい。金を払ってくれる客に、僕の作った飯を食わせて、その人が今日一日死ななかったことを確認して、また明日、と言って帰す。

 そういう店を、いつか。

 ……そのためには、まず、生きていないといけない。

 僕は、たぶん、世界で一番死にたくない人間だ。

 だから、たぶん、誰にも死んでほしくない。

 順番はいつも、そっちだ。

 あの男とは、たぶん、もう一度会う。

 二百万人が僕の顔を見た。あの男は、必要な工程を繰り返す。繰り返す限り、僕はまた、あの男の前に立つ。

 そのときも、僕は、頭を下げるところから始めるだろう。

 情けない顔で、震えながら、こう言うのだ。

 ――止めましょう?

 僕、撃ったら、外さないので。

<完>

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