あの火、風上から点いてます ~勇者様のヤラセ配信を、一番死にたくない僕が撃ち抜くまで~
あの火、風上から点いてます
~勇者様のヤラセ配信を、一番死にたくない僕が撃ち抜くまで~
火の匂いで目が覚めた。
最初に思ったのは、逃げなきゃ、だった。
次に思ったのは、どっちに、だった。
風向きを確かめようとして、指を舐めて立てた。左の指先が冷える。風は東から西。火は西で燃えている。つまり僕がいるのは風上で、当面は死なない。
そこまで確認して、ようやく僕は上体を起こした。
知らない空だった。
星が多すぎる。月が二つある。
自分の手を見た。若い。爪が綺麗だ。二十年こき使った僕の手は、こんな形をしていなかった。
最後の記憶は、たしか、廊下の床の冷たさだった。
誰かの名前を呼んだ気がする。
誰の名前だったかは、思い出したくなかった。
「……ああ」
僕は自分の膝を叩いて、立ち上がった。
考えるのは後でいい。今わかっていることだけ数える。
一、僕は生きている。
二、ここは僕の知っている場所ではない。
三、四百メートル先で村が燃えている。
四、僕は丸腰だ。
四番目が一番まずい。
僕は、たぶん、世界で一番死にたくない人間だ。
昔からそうだった。他の子が滑り台を逆から登っているとき、僕はその滑り台の角度と、落ちたときに頭が当たる場所を見ていた。臆病だと言われた。実際そうだ。僕は今でも、飛行機に乗る前に非常口までの座席数を数える。
でも臆病というのは、要するに、死にたくないということだ。
死にたくないから、死なない方法を全部覚えた。
それが僕の、たった一つの取り柄だった。
風上に立って、僕は村を見た。
逃げるのが正しい。合理的だ。知らない土地、知らない火事、知らない人間。首を突っ込む理由が一つもない。
僕はため息をついて、火の方へ歩き出した。
理屈は、いつも間に合わない。
村は死にかけていた。
木造の家屋が並んでいる。屋根は藁だ。乾いた季節に、藁葺きで、家と家の間隔が二メートルもない。
防火帯がない。消火設備が見当たらない。井戸は二つ確認できたが、どちらも風下だ。
この村は、燃えるように作られている。
誰も悪くない。ただ、誰も、燃えることを考えていなかっただけだ。
悲鳴が聞こえた。
右手の家。梁が落ちて、入り口が塞がっている。
炎の色は橙。まだ温度は低い。三分は保つ。二分半で見ろ。
僕は駆け寄って、隙間から中を覗いた。
老人が一人、腰を抜かして座り込んでいた。
「おじいさん、立てますか」
「あ、あんた……」
「立てないですね。わかりました」
梁を掴んだ。熱い。持ち上がらない。当たり前だ。僕には筋力がない。前世でも、今世でも。
僕は僕の身体能力を正確に把握している。この梁は動かない。
なら、道具が要る。
何もない。
ポケットには何も入っていない。腰にも何もない。僕は文字通り、手ぶらでここに立っている。
「……何か」
僕は空に向かって手を伸ばした。
自分でも馬鹿げていると思う。でも、こういうときに何かが起きないなら、僕は今から人が焼け死ぬのを見ることになる。
「何か、出てくれ」
何も出なかった。
当たり前だ。
僕は歯を食いしばって、もう一度梁に手をかけた。皮膚が焼ける音がした。
その瞬間、老人と目が合った。
濁った目だった。もう諦めている目だ。
僕はその目を、知っている。
前世で、一度だけ見た。
「――守ります」
声に出したつもりはなかった。
空気が、開いた。
僕の右手の先、何もなかった場所に、亀裂のようなものが走った。そこから滑り出てきたのは、黒い、平べったい板だった。
持ち手がある。重い。ケブラー製の折りたたみ盾。要人の全身を一瞬で覆うための、あの盾だ。
僕は考えるより先に展開させ、梁と自分の間に差し込んだ。
てこの原理。支点は瓦礫。力点は僕の全体重。
梁が、三センチだけ浮いた。
三センチあれば人間は通る。
「頭を低くして、腕を前に。這ってください。今です」
老人が這い出てきた。
僕は盾を捨てて――捨てた瞬間、盾は空気に溶けるように消えた――老人の襟を掴んで、風上へ引きずった。
三十メートル走ったところで、背後の家が落ちた。
僕は膝をついて、しばらく息をしていた。
手のひらが焼けている。痛い。痛いのは、嫌いだ。
「……あんた、何者だ」
老人が、僕を見上げていた。
僕は考えて、一番正しい答えを言った。
「ただの、警備員です」
地面が揺れた。
村の中央、広場だったらしい場所に、それはいた。
大きい。四メートルはある。体表が硬質で、光を鈍く跳ね返している。前脚が鎌のような形をしていた。
昆虫のようで、昆虫ではない。
村人が二十人ほど、腰を抜かして固まっている。
僕は素早く数えた。
距離、六十メートル。障害物、四つ。逃走経路、南に一本。ただしそこは火が回っている。
まずい。
完全にまずい。
あれが動き出したら、二十人のうち何人が生きて帰るか、僕には計算ができる。
したくない計算だった。
「――ご安心ください、みなさん!」
声が、降ってきた。
光った。文字通り光った。
金色の何かが空から落ちてきて、地面に着地し、そのまま前へ滑り出た。
人だった。
背が高い。金髪。鎧は白と金で、装飾が過剰だ。肩当てに宝石が埋まっている。実戦装備としては最悪だが、写真映えはするだろう。
その男の周りを、拳大の球体が三つ、ふわふわと飛んでいた。
球体の一面が黒い。レンズだ。
……カメラか。
「魔獣ごときに怯える必要はありません! なぜなら、僕がいるからだ!」
男が剣を抜いた。
刀身が青く光った。
村人が、呆然としたまま、それを見上げている。
男は魔獣に向かって走り、跳び、一閃した。
終わった。
本当に、一回で終わった。
魔獣の頭部が斜めに落ちて、巨体が崩れた。
静寂。
それから、歓声が起きた。
「勇者様だ!」
「ゼロス様! ゼロス・ディバイン様だ!」
男は――ゼロスは、剣を鞘に納めて、カメラに向かって笑った。
完璧な笑顔だった。
歯が白い。角度が計算されている。
「みなさん、間に合ってよかった。もう大丈夫です。僕がいる限り、誰も死なせない」
村人が泣きながら手を叩いていた。
僕は、手を叩かなかった。
そこに立って、燃えている村を見ていた。
職業病、というものがある。
僕は二十年以上、事故と事件の後始末をしてきた。人が死んだ場所に立って、なぜそこで死んだのかを再構成する仕事を、数え切れないほどやった。
だから僕の目は、勝手に動く。
喜んでいる人を見ずに、燃えている家の並びを見る。
僕は歩いた。
一軒目。北の端の家。焼け方が根元から来ている。外壁の下部が最も炭化している。
二軒目。西へ二十メートル。同じ。
三軒目、四軒目。
全部、外側から燃えている。
僕は立ち止まって、指を舐めて立てた。
風は東から西。
最初に燃えたのは、北の端。つまり――
僕は、燃え方の順番と、風の向きを、頭の中でもう一度並べ直した。
二回並べ直して、結果は同じだった。
僕は、自分がこれから言うことの面倒くささを、正確に理解していた。
言わずに立ち去ることもできる。
誰も僕を知らない。僕はここの人間ですらない。黙って風上へ歩けば、僕は今日、誰にも嫌われずに済む。
……前世でも、僕は何度もそう考えた。
そして一度だけ、黙った。
その一度が、僕の人生を終わらせた。
「あの」
僕は声を出した。
歓声の中で、それは小さすぎた。
もう一度、少し大きく。
「あの、すみません」
何人かが振り返った。
ゼロスも振り返った。
「はい? どうしました、そこの方」
優しい声だった。カメラが回っている前で出す声だ。
僕は自分の指がわずかに震えているのを感じた。
怖い。単純に、怖い。
でも僕の口は、勝手に動いた。
「……あの火、風上から点いてます」
空気が、止まった。
「魔獣は、火を点けません」
沈黙は、三秒ほど続いた。
それから、笑い声が起きた。
「何を言ってるんだ、こいつ」
「見ない顔だな」
「頭でも打ったのか」
僕は頭を下げた。
「すみません。でも、四箇所です。北の端、西二十メートル、その南、それから水車小屋。全部、外壁の下から燃えてます。風上から順番に。魔獣は口から火を吐きませんし、吐いたとしても、風上から順に四箇所を点けて回る理由がありません」
「……ふうん」
ゼロスが、笑顔のまま近づいてきた。
カメラも、ついてきた。
「面白い推理だ。それで?」
「それだけです。僕は、そう見えたと言っただけで」
「証拠は?」
僕は黙った。
「証拠は、ありますか」
ゼロスの声は、あくまで優しかった。
「……ありません」
「ですよね」
彼は僕の肩に手を置いた。カメラの前で。
仕草だけ見れば、優しく諭している構図だった。
「わかりますよ。怖かったですよね。混乱してるんです。人は、理解できないことが起きると、誰かのせいにしたくなる」
村人が頷いた。
「そうだ、勇者様が助けてくれたんだぞ」
「恩を仇で返すのか」
ゼロスは僕の肩を、ぽん、ぽん、と叩いた。
二回目のとき、指が食い込んだ。
僕にしか分からない強さで。
彼は僕の耳元に口を寄せて、カメラに拾われない声で言った。
「――証拠、ないんでしょう?」
僕は動かなかった。
「あなた、正しいのに、負けるんですね」
彼は身体を離して、また笑顔になった。
完璧な笑顔だった。
僕は、二十年で、この顔を何度も見た。
自分が絶対に捕まらないと知っている人間の顔だ。
僕は、正直、そこで帰るつもりだった。
言うべきことは言った。信じるかどうかは相手の問題だ。僕は無力で、証拠もなく、味方もいない。
合理的な判断は、撤退。
でも僕が背を向けたとき、ゼロスがこう言った。
「ああ、それと。今の映像、そのまま流しますね」
僕は足を止めた。
「今、二百万人くらい見てます。うちの視聴者は熱心なので、あなたの顔、明日には各国に出回りますよ」
村人がざわめいた。
「英雄を貶めた男として。……いや、僕は気にしてませんよ? ただ、事実を配信するだけです」
彼は肩をすくめた。
「あなたはこれから、どの村に行っても、その顔で歩くことになる」
僕は振り返った。
彼はまだ笑っていた。
僕は、自分の中の何かが、静かに切り替わるのを感じた。
これは、脅迫だ。
そして脅迫というのは、相手が僕を「処理すべき問題」として認識したという意味だ。
つまり僕は、もう当事者になっている。
……面倒だな。
僕は小さく息を吐いて、両手を上げた。
「ひ、ひいいっ」
情けない声が出た。
半分は演技で、半分は本物だ。
「や、やめてください、そういうの……お、怒らせるつもりはなかったんです、僕、ほんと、通りすがりで……」
僕はおどおどと後ずさった。
二歩。
右足を少しだけ外へ。
もう一歩。
ゼロスが笑いながら距離を詰めてくる。カメラも寄ってくる。村人が僕を囲むように動く。
いい。
みんな、動いてくれている。
あと二歩。
「勘弁してくださいよぉ、僕、争いごとが本当に苦手で……」
もう一歩、下がる。
背中に空気が抜ける感触。ここで石垣が切れる。
いま、ゼロスと僕の間に、遮蔽物がなくなった。
彼の後ろ、三十歩の位置に、村人の誰もいない空白ができた。
――完了。
「……あの、ゼロスさん」
僕は、まだ情けない顔のまま言った。
「やめておいた方がいいですよ」
これが、一度目の警告だ。
「は?」
「僕、争いごとが苦手なので。……本当に、やめておいた方がいいです」
「何を言って――」
「あなたの後ろ、三十歩の位置に、金属の缶が二つ転がっています」
ゼロスの笑顔が、初めて、わずかにずれた。
「二つとも空です。蓋が開いたままで、口の周りに黒い染みがある。油を入れる缶ですね。あれが、なぜ、村の外れの、火の点いた場所の風上に、二つも転がっているんですか」
村人の一人が、そちらを見た。
「それから、火が点いたのは四箇所。全部、風上から順に。時間差はおおよそ二分ずつ。人間が歩いて回った速度です」
僕は頭を下げた。
「これが、二度目です。すみません、僕、警告は三回までって決めてるので」
「……何を言ってるんだ、お前は」
ゼロスの声から、優しさが抜けた。
剣が抜かれた。
青い光が、彼の顔を下から照らした。
「調子に乗るなよ、田舎者が。僕は神に選ばれた勇者だ。お前みたいなモブが、僕に何ができる?」
村人が下がった。
カメラが三つとも、僕の顔に寄った。
僕は、その青い刃を見た。
怖い。
本当に怖い。
手が震えている。膝も少し笑っている。僕はいつだって、こういうときに勇敢になれたことがない。
でも、僕の声だけは、勝手に、変わる。
「――止めましょう?」
空気の温度が、下がった気がした。
僕は情けない顔のまま、まっすぐ彼を見ていた。
「三度目です」
「……あ?」
「僕が引き金を引く方が、あなたがその剣を振り下ろすより、コンマ四秒速いです。あなたは踏み込みが大きい。膝が沈んでから刃が届くまで、〇・八秒かかる。僕は〇・四秒あれば足ります」
「何を、」
「撃てば、当たります」
僕は言った。
「当たれば、死にます。僕は外さないので」
ゼロスの目が、初めて、僕を人間として見た。
「……だから、止めましょう? 痛いのは、嫌でしょう?」
三秒。
彼は、笑った。
嘲るように。カメラの前で、そうする以外になかったのだろう。
「――死ね、モブが」
剣が振り下ろされた。
音は、二回鳴った。
村人には、それが何の音か分からなかったと思う。
乾いた、短い音だ。
一回目で、ゼロスの剣が、根元から砕けた。
青い光が消えて、破片が地面に散った。
二回目で、彼の胸当ての留め具が弾け飛んだ。
金と白の鎧が、片側だけ、ずるりと落ちた。
ゼロスは、振り下ろした姿勢のまま、止まっていた。
自分の手の中にあったものが、無くなっていることを、理解できていない顔だった。
僕の右手には、もう何もなかった。
出して、撃って、仕舞った。
誰も見ていない。
僕はぺこりと頭を下げた。
「すみません。手が滑りました」
沈黙。
誰も何も言わなかった。
二百万人が見ているという配信の、その真ん中で。
「……あ、」
ゼロスの喉から、掠れた音が出た。
「今の、なんだ。今の、なんだ?」
「手が滑ったんです」
「ふざけるな! お前、何をした!」
「何もしてません」
僕は、彼の目を見た。
「本当に何かしていたら、あなたは今、立っていません」
彼の顔から、血の気が引いた。
僕は一歩、前に出た。
ゼロスが、一歩下がった。
英雄が、モブから、一歩下がった。
カメラは、それを全部撮っていた。
「……最初に言いましたよね。やめておいた方がいいですよ、って」
僕は、また頭を下げた。
「二度目に、油の缶の話をしました。三度目に、止めましょうって言いました」
僕は、震えている自分の手を、後ろに隠した。
「僕、警告は三回までって決めてるんです。四回目はないんです。……面倒でしょう? お互い」
ゼロスは、何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
彼は、落ちた鎧を拾おうとして、やめた。
拾う姿を撮られる方が、まずいと判断したのだろう。
そういうところは、優秀な人だ。
彼は僕を睨んで、それから、笑おうとして、失敗した。
そして、光になって、飛び去った。
カメラ三つも、慌てて追いかけていった。
誰も、拍手をしなかった。
村人たちは、僕を遠巻きに見ていた。
英雄が逃げた。それはわかる。
でも目の前にいるのは、金髪でも、光っているわけでもない、みすぼらしい男だ。
喜べるわけがない。
僕は気にしなかった。
僕には、やることがあった。
「そこの方、腕を見せてください」
「え、」
「火傷ですね。二度です。冷やします」
僕は空間から救急箱を引き出して、その場に膝をついた。
水を出して流し、清潔な布で覆う。
次の人。足を挫いている。添え木。
次の人。煙を吸っている。横向きに寝かせる。
次の人。出血。止血帯を巻く。締める位置を伝える。時間を伝える。
五人目を処置しているとき、村人の一人が、震える声で言った。
「あんた……その、さっき言ってたの……本当なのか」
「わかりません」
僕は手を止めずに答えた。
「僕が見たものを言っただけです。証拠はありません」
「じゃあ、なんで」
「言わないと、次があるからです」
僕は顔を上げた。
「あの人は、村を焼いて、駆けつけて、助けて、それを配信していた。もしそうなら、あの人にとって、村が焼けるのは、必要な工程です」
誰も何も言わなかった。
「必要な工程は、繰り返されます」
僕は、また手を動かし始めた。
「だから、言いました。それだけです」
夜が更けてから、僕は鍋を出した。
スープだ。温かい。塩気が少し強め。極限状態の人間は、味が濃い方が飲める。
パンも出した。焼きたてでなくていい。噛める硬さがいい。
「毒は入っていません」
僕は言った。
「絶対に、入っていません。それだけは保証します」
最初に手を出したのは、子供だった。
子供が飲んで、死ななかったのを見て、大人が飲み始めた。
当然だと思う。僕だって同じことをする。
僕は、他人の作ったものが食べられない子供だった。
だから料理を覚えた。生き延びるためだ。
三十年かけて、僕はやっと、人の出したものを食べられるようになった。
あの努力が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
スープを配り終えたころには、東の空が薄くなっていた。
僕は焼け跡の縁に座って、自分の手を見ていた。
左の手のひらが、赤黒く腫れている。
自分の火傷には、何も出ない。
僕のこの力は、僕のためには一度も働かない。
……よくできた仕組みだと思う。
僕みたいな人間には、ちょうどいい。
「あんた」
声がした。
最初に助けた老人だった。
「名前は」
「……神谷シンです」
「カミタニ、シン」
老人はゆっくり繰り返して、それから頷いた。
「シン。あんた、行くあてはあるのか」
僕は考えた。
ない。
何もない。前世で持っていたものは全部置いてきた。持ってきたのは、死なないための知識と、火傷した手と、人に嫌われる癖だけだ。
「ないです」
「なら、ポポロって村がある」
老人は、南を指した。
「三日、歩けば着く。貧乏な村だ。何にもない。三つの国のどこにも属してねえ、変な村だ」
「……なぜ、どこにも属していないんですか」
「さあな。誰も知らねえ」
老人は笑った。
「けど、あそこの連中は、腹が減ってる奴に飯を食わせる。あんたには、ちょうどいい」
僕は頭を下げた。
鍋の中に残ったスープを見て、少し考えて、鍋ごと老人に渡した。
「使ってください。……あと、これは余計なことなんですが」
僕は懐から、焼け残った板切れを出した。
炭で、線が引いてある。
村の地図だ。
風の向きと、家の並びと、井戸の位置と、逃げるべき方向が書いてある。
「建て直すときは、家の間を四メートル空けてください。それから、北側に水を溜める場所を。……大袈裟だと思われるでしょうけど」
老人は板切れを受け取って、しばらく見つめていた。
「あんた、変な奴だな」
「はい。よく言われます」
僕は立ち上がった。
空は、まだ煙っていた。
歩き出しながら、僕は考えた。
いつか、店を持ちたいと思っている。
小さくていい。カウンターが六席あればいい。金を払ってくれる客に、僕の作った飯を食わせて、その人が今日一日死ななかったことを確認して、また明日、と言って帰す。
そういう店を、いつか。
……そのためには、まず、生きていないといけない。
僕は、たぶん、世界で一番死にたくない人間だ。
だから、たぶん、誰にも死んでほしくない。
順番はいつも、そっちだ。
あの男とは、たぶん、もう一度会う。
二百万人が僕の顔を見た。あの男は、必要な工程を繰り返す。繰り返す限り、僕はまた、あの男の前に立つ。
そのときも、僕は、頭を下げるところから始めるだろう。
情けない顔で、震えながら、こう言うのだ。
――止めましょう?
僕、撃ったら、外さないので。
<完>




