夢の中の男 :約3500文字 :夢
おれはやった。ついにやったのだ……!
「あっ、あん、あっ……」
金も女も食い物も、思うがままだ。望めば何だって手に入る。気に入らない奴は指先一つで消せるし、どんなに残虐な殺し方をしたって誰にも咎められやしない。止められない。止めようがない。おれは支配者なのだ!
「あっ、あん、ああ!」
……まあ、夢の中の話だがな。
そう。長年の修練の末、おれはついに夢を自在に操れるようになったのだ。いわゆる明晰夢というやつだ。眠りについた瞬間から、世界はおれの手の中にある。
「むふっ」
夢だと侮るなかれ。女も食い物も、頭に思い浮かべるだけで、ぽんと目の前に現れる。豪勢なステーキ、山盛りの刺身、それから女。まさに食べ放題だ。匂いも味も忠実に再現され、現実とほとんど変わらない。もっとも、それは脳が錯覚しているだけなのかもしれないが、体験として同じならそれで十分だ。現実だって空虚なもんだろう?
それだけじゃない。空だって飛べる。おれが飛ぶと決めれば重力も理屈も関係ないのだ。まさに超常的!
まあ、さすがに食べたことのない味までは完璧には再現できないがな。
「あん、ああっ……」
ここは高級ホテルの一室。だが、わざわざ現実で何十万も払って泊まる必要なんてない。ネットで見た写真を思い出せば、いくらでも再現できる。人間の脳というのはなかなかに優秀で、壁の質感やベッドの柔らかさなど、実際に触れたことがなくても、記憶の断片を寄せ集めて、それっぽく作り上げてくれるのだ。
女だってよりどりみどりだ。どうせ中身なんて大して変わらない。女の性格なんてみんな似たり寄ったりだろう。おれに従順で、甘い声を出していればそれでいい。
「ほほう」
SNSで見かけた一般人、街ですれ違った通行人、テレビやネットで見たタレント――そういう連中を何人も侍らせて、こうして毎晩のように楽しんでいる。美女ばかりで、現実ならおれなんて見向きもされないだろう。だが、ここでは違う。ありのままのおれを愛し、奉仕してくれるのだ。
ああ、最高だ。そろそろ、イ、イ……。
「むふふ」
……いや、なんだこの男は。
おれは女の尻を突き飛ばし、ベッド脇へと向き直った。さっきからそこに立って、ニタニタと薄ら笑いを浮かべて、ずっとこちらを見ていたのだ。
みすぼらしい布切れのような服を一枚まとった初老の男。頬はこけ、髪はぼさぼさに乱れ、目だけがやけにぎらついている。
最初はウェイターが突っ立っているのかと思ったが違った。そもそもこの世界にそんなものは必要ない。
ま、いくら夢をコントロールできるとはいえ、たまにこういう小さなエラーは起きるものだ。大方、現実で視界の端にでも入ったのだろう。駅前を歩いていたときに見かけたホームレスといったところか。その残滓が滲み出てきたのだ。
問題はない。念じるだけで煙も出さずに消せるのだから。そーら、消えちまえ。
「むふっ」
さあ、消えろ。
「むふふっ」
……おかしいな。
「おい、お前。とっとと消えろ」
おれは男にそう命じた。
確実に、はっきりと声に出した。だが、男は一向に消える気配もなく、相変わらず黙ったまま薄気味悪い笑みを浮かべ続けている。
どうもしつこい野郎だ。ここまで残るということは、現実で何かしら関係のある人間なのかもしれない。昔の友人か、教師か、親戚……ダメだ。思い出せない。
夢の中では、現実の記憶は靄がかかったみたいに曖昧になるのだ。無理に思い出そうとすると、意識が浮かび上がって目が覚めてしまう。そもそもクソッたれな現実を忘れるために身につけた技なのだから、それも仕方がないのだが。
消えるように何度も念じたが、男はそよ風ほどにも意に介さず、その場でニタニタと笑い続けた。
……まあいい。こっちが場所を変えればいいだけだ。どうせ今回だけのノイズだろう。
そう思い直し、おれは女たちを連れて部屋を移った。男がついて来ようとしたので、肩を突いて外へ追い出し、ドアを閉めた。
「あは、ふふふっ……」
おれは再び女を抱き始めた……が、どうにも集中できない。
ドアの向こうから、粘つくような視線が絡みついてくる気がするのだ。
「……あっ!」
「むふふっ」
顔を上げ、ドアのほうを向こうとしたそのときだった。ベッドの脇にあの男が立っていた。
おれは内心で舌打ちした。
なんてしつこい奴だ。どうやら場所そのものが問題らしい。
だからおれは場所を変えることにした。人けのないビーチ。学生時代に住んでいたアパートの一室。初めて行ったこぢんまりとしたラブホテルの部屋――しかし、どこへ移動しても男は必ず現れた。
砂浜の波打ち際に立ち、アパートの押し入れからひょっこりと顔を突き出し、ラブホテルのベッドの下からぬらりと這い出てきた。
そして、まるでケースの中の虫を観察する子供のように、おれをじっと見つめ続けた。
「この!」
堪忍袋の緒が切れ、おれは男の顔面を思い切り殴りつけた。骨に当たる硬い感触が確かに伝わった。
だが男はほんの一瞬だけ「ほう」とでも言いたげに眉をわずかに動かしただけで、何か言うわけでもなく、すぐにまたあのニタニタとした笑みに戻った。
確かな手応えはあった。しかし、何度殴ろうが蹴ろうが首を絞めようが、男はてんで動じず、血を流すことはおろか、痣の一つすら浮かばない。
ならばと、おれは炎を呼び出して全身を焼き尽くしてやった。立ったまま皮膚が炭のようにひび割れ、ぼろぼろと崩れ落ちていく――だが、それでもあの胸糞悪い笑みだけは消えず、次の瞬間には何事もなかったかのように元通りの姿で立っていた。
結局、音を上げたのはおれのほうだった。床にどさりと座り込み、荒い息を吐きながら男を見上げた。
ニタニタニタニタ。胸糞悪い顔だ。一度見たら忘れないだろう。だが、やはり見覚えがない。となると、実在の人物ではないのか。もしかすると、こいつはおれの良心が人の形を取ったものなのではないか。夢の中とはいえ、好き放題やっているおれを咎めに来た、とか。
だが、いくら考えても答えは出ない。夢の中では思考がどこか鈍る。現実に戻れば、思い出せるかもしれない。
そう考え、おれは今夜は目を覚ますことに決めた。
「むふっ、むふふ」
「クソ野郎が……今夜はあきらめるが、もう二度と出てくるなよな」
吐き捨てるように言い、おれは目を閉じた。意識を上へ上へと、現実へ引き上げる――。
「むふっ、目を覚ますつもりかい?」
「えっ」
おれは思わず目を開けた。
「無駄だよ」
「……は? 無駄だと?」
「ここは私の夢の中だからね」
「はあ?」
「むふふっ」
初めて喋り出したと思ったら、何を言っているんだこいつは……。頭がいかれているらしい。……いや、それはおれか? こいつはおれの狂った一部分が具現化したものなのか?
しかし、ずいぶんと趣味の悪いことを言い出したものだ。まさか、おれ自身がこいつに作られた存在だとでも?
なかなかゾクッとさせてくれるじゃないか。だが、それはない。ありえない。おれには現実の記憶がちゃんとある。部屋の間取りも、通勤電車の息苦しさも、冷蔵庫で腐った野菜の匂いも全部覚えている。
「君が私の夢の中でずいぶん調子に乗っているようだからね。ちょっと様子を見に来たのさ。むふふ」
男がにたりと笑い、その瞬間、背筋にぞわりとした寒気が走った。
……もし、本当だとしたら? ありえないが、もしそうだとしたら、この意識も、現実の記憶も、全部作り物だというのか。おれは――。
「むふ、むふふ、むふふふ」
――えっ。
気づけば、おれは真っ白な空間に立っていた。ホテルの部屋も、ベッドも、女も食い物もない。床も天井も境界もない、ただ真っ白な虚無が広がっていた。
男の笑い声だけがどこからともなく響き、反響し、重なり、おれを取り囲むように木霊する。
「やめろ!」
おれは叫んだ。だがその声は男の笑い声にあっけなく飲み込まれた。
おれは耳を塞ぎ、きつく目を閉じた。そして――。
目を覚ました。
おれは……目を覚ました。ああ、覚ましたぞ……。
「はは……ははは……」
乾いた笑いが漏れた。雨染みの浮いた天井、端のフックが外れたカーテン。見慣れた、自分の部屋だ。
ああ、馬鹿馬鹿しい。まさか、おれが夢に怯えるなんてな。
「むふっ」
「……えっ、あ、あ、あ」
おれは反射的に飛び退いた。
ベッドの脇に、あの男がいたのだ。胡坐をかいたまま宙に浮き、こちらを見下ろしている。顔にあのニタニタとした笑みを貼り付けて。
「あ、あ、な、なんで……」
おれが震える声で呟くと、男はゆっくりと口を開いた。
「私は神なのだ」
神――。
それは……この世界そのものが男の夢だという意味なのか。それとも、本当に世界の創造主そのものなのか。あるいは神ではあるが、この現実はこいつが見ている夢なのか。
おれにはもうわからない。
「ずいぶん調子に乗ってるみたいじゃないか」
男はそう言った。
ニタニタと笑いながら。まるでケースの中の虫を眺める子供のように。遊び半分で脚をもぎ取り、蜘蛛の巣に放り込み、踏み潰す――そんな子供のような目で、おれを見下ろして……。




