第5章 わたしはアリス
雪は、もう泣き顔を隠してくれるくらいに、やさしく降っていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
アリスはただ、耳を抱えたまま、雪の上にうずくまっていた。
胸の奥で、心臓が静かに打っている。
さっきまで「走れ」と叫んでいたウサギの声は、もう聞こえない。
代わりに聞こえるのは、自分の息と、雪の降る音だけ。
ふと、足元の雪が、かすかに光った。
チリ、チリ。
あの鈴の音が、もう一度した。
「……君は、よく泣くね」
顔を上げると、すぐそばに赤い外套が立っていた。
電脳サンタクロース――セントニコラウスが、ランタンを掲げている。
アリスは慌てて涙を拭いた。
握りしめていた“空っぽの箱”も、少し濡れている。
「泣いて、ごめんなさい」
謝ると、赤い機械は首を横に振った。
「謝ることじゃないよ。泣くのは、止まっている証拠だから」
アリスは、その言葉が少し不思議だと思った。
「止まっている……?」
「走っているときは、泣く暇もないからね」
たしかにそうだ、とアリスは思う。
女王から逃げていたとき、泣くこともできなかった。
「ねえ」
アリスは、胸の奥に残っていた問いを口にした。
「この箱……やっぱり、受け取らなきゃいけないんでしょうか」
白い箱を見下ろす。
中身のからっぽな、あの箱。
赤い機械は少しだけ目を細めた。
「“いけない”なんて、誰が決めた?」
「だって……プレゼントを受け取るのが、子どもで。受け取らないのは、悪い子な気がして」
「そういうふうに教わってきたんだね」
彼は、ランタンの灯りを箱の上にかざした。
箱の内側が、雪の反射でほのかに光る。
「本当はね。いらないと言える子のほうが、ずっと難しい選びかたをしていることもあるんだよ」
アリスは、箱のふちを指先でなぞった。
冷たくて、すべすべしている。
胸の奥で、心臓がひとつ、鼓動を打つ。
「いらないって言おうよ」
今度の声は、前よりも静かだった。
焦らせるのではなく、寄り添うような響き。
(……ウサギ? それとも、わたし?)
もう、区別がつかない。
でも、どちらでもいい気がした。
アリスは、そっと箱の蓋を閉じた。
“パタン”という音が、やけに大きく響く。
「ごめんなさい」
アリスは、箱を両手で抱え直しながら言った。
「わたし、このプレゼント……いりません」
赤い機械は、驚かなかった。
むしろ、どこかほっとしたように微笑んだ。
「いい返事だ」
「……怒らないんですか」
「怒る理由がどこにある?」
電脳サンタは片手を差し出した。
アリスは、その手のひらに箱を戻した。
箱は、サンタの手に触れた途端、ゆっくりと光の粒になってほどけ、雪の中へ溶けていった。
なにも残らない。
「選んだのは君だ。それなら、それがいちばんいい」
ランタンの灯りが、アリスの顔をやわらかく照らす。
「耳は――どうする?」
その問いに、アリスは無意識に両手を頭へやった。
ウサギ耳は、泣きすぎて少しだけしんなりしていた。
「外せば、戻れる。忘れられる。最初からやり直せる」
電脳サンタ=セントニコラウスは、そう言った。
女王は、「大人になりなさい」と叫んだ。
ふたりの赤い声が、胸の奥で反響する。
アリスは目を閉じた。
心臓の音が聞こえる。
走りたがる自分。
止まりたがる自分。
泣きたがる自分。
笑いたがる自分。
全部、ここにいる。
(どれも、なくしたくない)
ゆっくりと目を開ける。
アリスは、両手で自分の耳を包み込み――一度だけ、そっと外した。
重たいものを外したような、でも、急に寒くなったような、変な感覚。
掌の中には、白いウサギの耳。
雪の灯りを受けて、かすかに光っている。
アリスは、それをじっと見つめた。
(この耳は、わたしを急かして、わたしを守って、わたしをここまで連れてきた……)
捨ててしまうこともできる。
雪の上に置けば、すぐに埋もれて見えなくなるだろう。
でも――。
アリスは、小さく首を振った。
「……やっぱり、付けていたいです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
もう一度、耳を自分の頭に戻す。
今度は“誰かに付けられた”のではなく、自分で選んで付けなおした。
ぴん、と耳が立つ。
雪を弾き、夜の空気を受け止める。
胸の奥で、心臓が答えるように脈打った。
電脳サンタは、その様子を見て、静かにうなずいた。
「そうか」
彼は、それ以上なにも言わなかった。
ただ、ランタンの灯りが少しだけ強くなり、アリスの影と耳を、長く雪の上に伸ばした。
遠くで、女王の声がした気がした。
――大人になりなさい。
その声は、もうアリスを追いかけてこなかった。
ただ、遠い昔の雷のように、小さく響いては消えていった。
かわりに、どこからともなく猫の笑い声が聞こえた。
「よかったじゃないか、アリス」
チェシャ猫の声だ。
姿は見えないのに、楽しそうな声だけが響く。
「間違いじゃないよ」
アリスは、雪が晴れた青空を見上げた。
白い粒が、耳に触れては弾かれていく。
「……はい」
小さく答える。
電脳サンタは、ランタンをひと振りした。
灯りがふっと揺れたかと思うと、
赤い外套も、杖も、鈴の音も、少しずつ雪の中にほどけていく。
最後に残った光が、アリスの方角を照らした。
その先には、まっすぐな雪の道が続いている。
どこへつながっているのかは分からない。
でも、さっきまでのような“追い立てられる道”ではなかった。
アリスは、胸に手を当てた。
心臓が、静かに、でも確かに打っている。
ゆっくりと一歩、前へ足を出した。
懐中時計の代わりに、心臓の鼓動が、足音を刻んでいく。
雪がきゅっ、と鳴る。
もう一歩。
もう一歩。
耳が揺れ、息が白くほどける。
アリスは歩きながら、小さくつぶやいた。
「わたしはウサギで、アリスで、黒川有栖で、雫で、シゼット・クロワ。そして――わたしはアリス」
その言葉が、白い息になって空へ溶けていく。
雪の道と青空は、まだ続いている。
どこまでも、どこへでも。
アリスは、ウサギ耳を揺らしながら、その中を歩いていった。
《第5章 完》




