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第4章 耳の秘密

雪の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。


アリスはサンタから渡された“空っぽの箱”を抱えたまま、しばらく動けずに座り込んでいた。


胸の奥で、あのウサギの声が、また小さく揺れ出す。

「走らなくちゃ……」


違う、とアリスは思った。けれど、思っただけでは声は止まらない。

「もっと早く、もっと遠く。止まったら、置いていかれるよ」


(置いていかれる……? 誰に? どこへ?)


自分でも分からない問いが、胸の奥に渦を巻く。


アリスはゆっくりと立ち上がった。


冷たい空気が肺に入ると、胸が少しだけ痛む。


耳の先が、雪の風を拾ってかすかに揺れた。


そのときだった。


――カリッ。

雪を踏む音。


アリスは反射的に顔を向ける。


白い木々の隙間から、黄色い瞳がのぞいていた。


チェシャ猫の笑い声が、空気を震わせる。


「やあ、アリス。あいかわらず耳が立派だね」

「……猫……ちゃん?」


猫は木からするりと降りて、アリスの目の前に座った。


尾をゆったりと揺らし、アリスの耳をじっと見つめる。


「その耳、気づいてる?」


アリスは思わず触れた。


雪で少し濡れて、柔らかく冷たい。


「気づいてるって……何を?」


猫は、口だけで笑った。

「ウサギがいなくてもね、耳があれば、ウサギなんだよ」


アリスは息を呑んだ。

「ちがう……! ウサギは、わたしとは――」


「別の人格だと思ってるの?」


猫は尻尾を揺らしながら、首をかしげる。


「アリス。あなたを急かした声も、あなたを慰めた声も、全部、あなた自身なのよ」


アリスは頭を振った。

「そんな……! だって、ウサギは走れって言って、わたしは立ち止まりたいのに……!」


「人間なんて、だいたいそういうものだよ」


猫は淡々とした声で続けた。


「走りたい自分と、休みたい自分。怖がる自分と、平気なふりをする自分。どれも同じひとつの心から生まれてる」


その言葉は、雪の冷たさよりも冷たく胸に刺さった。

(わたしが……追い立てていた? わたしが……苦しめていた? わたしを……?)


胸の奥がじわっと熱くなった。


ウサギ耳が、ぴんと立つ。


生き物のように震え、アリスの感情に応えている。


アリスは気づいてしまった。


(この耳……わたしの気持ちの形なんだ)


「そう。君の心は耳になったのさ」


猫はアリスの思考を読むように言った。


「心が、走れって言えば耳が立つし、休みたいって言えば垂れる。ただ、それだけ」


アリスはふらりと後ろへ下がった。


手に抱えた“箱”が軽く揺れる。

「じゃあ……女王の赤も……?」


猫は、赤い空気が残していった方向へ視線を向けた。

「身体が大人になれと言う声。変わろうとする力。成長にさからう痛み。全部、あの女王の赤につまってる」


アリスは唇を噛んだ。


女王の指があごを掴んだ“あの感触”が、まだ首筋に残っている気がした。


「サンタの赤は?」

アリスは震える声で続けた。


猫の瞳がふっと細くなる。

「社会が、大人として扱おうとする声。“決めなさい” “選びなさい”。あれは子どもから大人になるための通過儀礼」


――胸がつまった。


(どちらも……わたしの人生を奪おうとした……身体でも、頭でも。わたしのペースを、わたしのままでいられる時間を……)


アリスの目に涙がたまった。


「どちらも……選びたくない……!」


猫は、かすかに笑った。


「選ばなくていいよ」


アリスは顔を上げた。

「え……?」


「嫌なら、嫌でいい。だってこれは、君の心の国でしょ?」


アリスは息を吸った。

胸が、痛い。


けれど、少しだけ軽い。

その瞬間――ふっと風が吹いた。


雪が舞い上がり、アリスの耳と髪がはらりと揺れた。

涙の粒が頬から落ちて、雪の白に吸い込まれる。


アリスは、そのままうずくまり、両手で耳を包み込んだ。

「わたし……わたしが、わたしを苦しめたの……?」


猫は答えない。

ただ、静かにそこにいる。


「走らなきゃって、早く大人にならなきゃって……わたしだ……全部……!」

涙が、ぽろぽろと雪に落ちていく。


アリスは泣きながら言った。

「わたし……どちらも選びたくない……!もう、誰にも急かされたくない……!」


耳が強く震えた。

ウサギの声はもう聞こえない。


代わりに聞こえるのは、アリス自身の、震える息の音だけ。


その姿を見て、猫は小さく言った。

「それでいいんだよ。“成長しない”という選択も、立派な選択のひとつさ」


雪が静かに降り続ける。


アリスは耳を抱えたまま、泣きながら小さくうなずいた。


《第4章 完》

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