第3章 電脳サンタの静寂
雪は、さっきよりも静かになっていた。
風もやんで、音という音がほとんど消えている。
アリスが息をするたびに、白い吐息だけが、かすかな音を立ててほどけた。
「……寒い」
思わずつぶやくと、胸の奥で、何かが小さく震えた。
さっきまで暴れていた心臓の音は、ずいぶん大人しくなっている。
ウサギの声も、今は黙っていた。
どれくらい雪の中に座り込んでいたのか分からない。
ただ、手足の先がじんじんして、「もう立ち上がれないかもしれない」と思った、そのとき。
――チリ、チリ。
遠くで、小さな鈴の音がした。
クリスマスの夜、どこかの店先から聞こえてくるような、やさしい音。
アリスが顔を上げると、雪の向こうに、赤いものが立っていた。
それは、ゆっくりと近づいてくる。
雪の中を歩いているのに、足跡がつかない。
赤い装甲。
白いひげ。
手には細い杖と、小さなランタン。
「……サンタクロース?」
アリスがつぶやくと、その人影は足を止めた。
ランタンの灯りがふわりと揺れ、アリスのウサギ耳をやさしく照らす。
「そう呼ばれることも、あるね」
落ち着いた声だったが機械だった。
男とも女ともつかない、不思議な声。
どこかロボットのようにも聞こえるのに、温度があった。
「君が、アリスかい?」
アリスは、思わずうなずいた。
「……アリスです。たぶん」
赤い機械は、ふっと目を細めた。
その瞳の奥に、細い光の線が走ったように見えた。
まるで、アリスの全身を一瞬でスキャンされたみたいで、少しだけ背筋が伸びる。
「たぶんでいいさ。名前なんて、あとから決めてもかまわない」
そう言って、彼はアリスの前にしゃがみこんだ。
雪に膝をついても、背負った荷物は濡れない。
「寒かったね」
その言葉に、アリスの喉がつまった。
「寒い」と誰かに言ってもらうのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「……はい」
赤い機械は、鉄でできた片手をゆっくりと差し出した。
大きな手。
黒い手袋をしているはずなのに、その向こう側から、青白い線のようなものが、かすかに見えた気がした。
「プレゼントを、受け取るかい?」
アリスは瞬きをした。
「プレゼント……?」
「そう。ここまで来た子には、ひとつだけ渡すことになっている。」
彼は空中から何かを掴むような仕草をすると、その手の中に、小さな箱が現れた。
真四角の、白い箱。赤いリボンが付いていた。
シンプルだが、どこか“完成された形”をしている。
アリスはおそるおそる受け取った。
指先に伝わる感触は、なぜか現実よりも現実らしかった。
「開けても、いいですか」
「もちろん」
アリスはするりと赤いリボンを外し、ゆっくりと蓋を開けた。
中には――何も入っていなかった。
からっぽ。
底の白さだけが、静かに光っている。
「……なにも、ない。」
拍子抜けしてそう言うと、
赤い機械は、くすりと笑った。
「中身はね、君が決めるものなんだ」
「わたしが……?」
「そう。ここはそういう場所だから」
アリスは箱の中をのぞき込んだ。
何度見ても、空っぽだ。
でも、目を凝らしていると、
なにか、まだ言葉にならないものが、
ふわふわと箱の底で揺れているような気もしてくる。
胸の奥で、心臓がまた小さく音を立てた。
「いらないって、言ったほうが楽だよ」
そんな声が、一瞬だけかすめる。
ウサギか、別の誰かか、分からない。
「……もし、受け取らなかったら?」
アリスは箱から目を離さずに聞いた。
赤い機械は、少しだけ首をかしげる。
「それでもいい。プレゼントを要らないと言える子も、立派な子どもだからね」
「子ども……?」
「そう。ここでは、子どもか大人かを決めるのは、耳でも、背の高さでも、年齢でもない」
彼の視線が、アリスのウサギ耳に向かった。
ランタンの灯りが耳の先端に反射して、小さな光の輪が生まれる。
「君の選びかただけだよ」
アリスは、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……わたし、ちゃんと、選べるでしょうか」
それは、自分で聞いておきながら、子どもの泣き言みたいな言葉だった。
赤い機械は、すぐには答えなかった。
代わりに、アリスの胸のあたりに、そっと視線を落とした。
「心臓は、もう知っているみたいだけどね」
ドクン、と一拍。
胸の奥が、箱の底と同じように、静かに揺れる。
「ひとつだけ、教えてあげようか」
赤い機械は杖の先で、そっとアリスの足元を指した。
雪の上には、ウサギの足跡。
そして、アリス自身の足跡が、重なって続いている。
「耳を外せば、向こうへ帰れる。何もかも忘れて、最初からやり直せる」
アリスは思わず、両手でウサギ耳を押さえた。
「……外したら、戻れるんですか?」
「たぶんね」
「“たぶん”?」
「世界というのは、だいたい“たぶん”でできているから」
赤い機械は、少しだけいたずらっぽく笑った。
その笑い方は、どこかチェシャ猫にも似ていた。
「でも、耳を付けたまま歩き続けることもできる。その場合、君はずっと“アリス”でいるかもしれない。あるいは、別の誰かになるかもしれない」
アリスは、膝の上に箱を置いた。
白い空っぽの箱。
指先で、ふちをなぞる。
耳を外す。
耳を付けたままでいる。
どちらが正しいのか、分からない。
「……どっちが、いいんでしょう?」
赤い機械は、即答しなかった。
代わりに、アリスの肩に手を置いた。
その手は、冷たくも熱くもない、不思議な温度だった。
「わたしは、どちらかを勧めるためにここにいるわけじゃない。ただ――」
彼は言葉を選ぶように、少しだけ息を吸った。
「どちらかを選ばないまま、立ち尽くしている時間は、たぶん、君を一番傷つける」
アリスは、はっとして息を呑んだ。
「だから、君が決めなさい。耳も、箱も。ここで立ち止まるのか、それとも歩くのか」
雪が、ひとひら、またアリスのまつげに落ちた。
ふるりと震え、溶けて消える。
胸の奥で、ウサギの足音のような鼓動が、
ゆっくりと速度を変え始めていた。
《第3章 完》




