第2章 赤い女王の心臓
雪の音が、少しだけ変わった。
乾いた粉雪が頬に触れるたび、アリスの耳の奥で小さく弾ける。
まるで何かが近づいている――そんな気配。
アーチ門をくぐると、風が止み、空気の色が変わった。
赤い、ほんのり温かい光が漂っている。
雪の世界とは違う、どこか柔らかくて、胸の内側をそっと押すような光。
「……あたたかい?」
アリスがそうつぶやいた時、
道の先に、大きな影が揺れた。
赤いドレス。
光を吸い込むような深い赤。
その裾がゆらりと揺れ、アリスの方へ向けてゆっくりと歩いてくる。
影はやがて形になり、ひとりの女性になった。
赤い女王――ハートの女王だった。
「まあ、ずいぶんと遅かったわね、アリス。」
声は優しいのに、背筋がざわっとする。
どこかで聞いたような響き。
でも、今どきの夜道では聞かない種類の声だ。
“母親に叱られる直前の声”とでも言えばいいのだろうか。
アリスは思わず胸に手を当てた。
心臓が、こつんと小さな音を立てる。
「……遅い?」
「そうよ。ウサギのくせに、どうしてそんなにのろのろしているの?」
女王の目がアリスの耳に向く。
ぴんと立った白い耳は、雪を少しだけ弾きながら震えていた。
アリスは一歩、後ずさった。
急かさないで。
そんな声が胸の奥で生まれた。
「ほら、やっぱり急がなきゃ」
またあの声がした。心臓が喋っているような声。
女王は静かに近づき、アリスのあごにそっと指を添えた。
爪は赤。
その赤が、ドレスの赤と繋がっていくように見えた。
「大人になりなさい、アリス」
その言葉に、胸の奥がキュッと締まった。
まるで見えない糸が心臓をひっぱっているようだった。
「大人……?」
「そうよ。体は変わろうとしているのに、あなたはまだ子どものまま。いつまでも逃げていてはだめよ」
アリスはわけもわからず、首を振った。
「いや……」
「どうして?」
女王はさらに一歩、近づいた。
赤い香りがする――甘く、濃く、どこか鉄の匂いも混じるような。
アリスはその匂いに、ふと胸がざわついた。
思い出しそうな記憶。
触れてはいけない記憶。
温かい腕。
抱きしめられた感触。
そして――痛みと悲鳴。
(思い出したくない……!)
アリスは両手で耳を押さえた。
ウサギの耳は柔らかく、指の間でくにゃりと曲がる。
女王はため息をついた。
「アリス。あなたはいずれ“こちら側”に来るのよ。逃げても、逃げても。」
(逃げたくない――そんなことない。でも、追いかけられるのは……いやだ)
心の奥で、ウサギの声がささやいた。
「走って。早く!」
アリスの体は条件反射のように跳ねた。
女王の指が空を切り、アリスは赤い空間の中を駆け出した。
足元がふわふわと温かい。
雪の冷たさはもうない。
代わりに、心臓の音が耳の奥に響いている。
ドクン。
ドクン。
それは、女王に近づくほど大きくなるような音だった。
「待ちなさい!」
女王の声が響く。
遠くで、鏡の奥から猫のような笑い声がきこえた気がした。
ドクン、ドクン。
アリスは走る。
けれど、赤い世界はどこまでも続いていた。
走っても、走っても、出口は見えない。
「いや……いやだ……!」
アリスの目に涙がたまり、世界がにじむ。
そのとき。
ふっと、風の向きが変わった。
赤い空気がわずかに揺らぎ、薄い裂け目が見えた。
その隙間から、冷たい雪の匂いが流れ込んだ。
「……ここ、から……出たい……!」
アリスはその裂け目に向けて腕を伸ばし、指先を差し込んだ。
指先が冷たさに触れた瞬間、赤い空間がぱちんとはじけた。
視界が白に包まれ、アリスは雪の道に倒れ込んだ。
息が白くほどけ、胸の奥の声はようやく沈黙した。
赤い光は少しずつ遠ざかる。
けれど、女王の声はまだ耳の奥に残っていた。
――大人になりなさい。
アリスは首を横に振った。
雪が髪に落ち、ウサギ耳の先端に冷たい滴が光る。
どこかで、チェシャ猫の笑い声がしたような気がした。
《第2章 完》




