第1章 白いウサギの声がする
雪がひとひら、アリスのまつげに落ちた。
それだけで、胸の奥にひゅっと冷たい風が吹き抜けるような気がした。
「……ここ、どこ?」
口にした声は、思っていたよりも幼く響いた。
アリスは自分の息が白くほどけるのを見て、ようやく“冬の夜”であることに気づいた。
それなのに、どうして自分はコートも手袋も持たずに、この雪の道に立っているのだろう。
雪の積もった地面には、ウサギの足跡がひとつだけ伸びている。
小さくて、細くて、今にも消えそうな白い道しるべ。
アリスは一歩、足を進めかけた。
そのときだった。
胸の奥で、ふっと声がした。
「急がなきゃ」
聞き覚えのない声だった。
でも、不思議と懐かしい気もした。
理由は分からない。ただ、胸の奥がざわつき、足が勝手に前へ行こうとする。
「わたし……どこへ?」
答えはどこからも返らない。
ただ、雪の降る音だけが静かに世界を満たしていた。
気づけばアリスは、両手で自分の頭に触れていた。
そこに、ふわふわと柔らかなものがある。
耳だ。
白いウサギの耳が、まるで元から付いているかのように、ぴんと立っている。
触れた指先に、その温かさが確かに伝わってきた。
「なんで……?」
胸がぎゅっと縮む。
思い出したいような、思い出したくないような、そんな痛みが胸の奥をかすめる。
「急いで、急いで。遅れちゃうよ」
また胸の奥で声がする。
まるで、自分の心臓が言葉に変わっているかのようだった。
アリスは思わず走り出した。
雪が舞い上がり、視界が白く弾ける。
なぜ走るのか、どこへ向かうのか、自分でも分からない。
ただ、走らなければいけない気がした。
それでも、足の裏は少しずつ痛くなり、息はすぐに乱れた。
「苦しい……止まりたい……」
けれど胸の奥の声は止めてくれない。
「ダメ、止まったら追いつかれる。早く、早く」
追いつかれる?
何に?
答えはない。
ただ、雪の中に足を取られながら、アリスはフラフラと走り続ける。
やがて、白いアーチのような門が見えてきた。
雪で縁どられた古い木の門。
まるで世界の入口のように見えた。
アリスはその前で立ち止まり、肩で大きく息をした。
胸の奥の声も、ようやく静まる。
門の隣には、大きな鏡が立てかけられていた。
どうしてこんな場所に鏡があるのか分からない。
でも、アリスはその前に引き寄せられるように近づいた。
鏡の中のアリスは、ゆっくりと瞬きをした。
その瞬間、アリスは凍りついた。
鏡の中に映った自分が……
“自分ではない誰か”のように見えたからだ。
髪の色が、少し違う。
目の色も、いつもより深い。
そしてなにより――
鏡のアリスは、少しだけ笑っていた。
アリスは笑っていないのに。
背筋に寒気が走る。
鏡の中の自分が、自分とは別の人生を歩んでいるような気がした。
「どうして……?」
そのときだった。
鏡の奥から、ふわりと光が揺れた。
雪の夜に似合わない、紫がかった不思議な光。
そして、その光の中から声がした。
「遅刻だよ、アリス」
低くて、笑っているのにどこか寂しい声。
その声は、鏡の表面を波紋のように震わせながら、アリスの耳へと届いた。
アリスは思わず後ずさり、雪に尻もちをついた。
冷たさに驚きながら見上げた鏡には、もう声の主の姿はなかった。
ただ、鏡の表面がゆっくりと元の静けさを取り戻していくだけだった。
「……誰?」
アリスは胸に手を当てる。
心臓が、コトン、と懐中時計のような音を立てた。
「遅刻……って、どこへ?」
雪は静かに降り続ける。
答えを知っているのは、鏡の奥と、アリスの胸の中だけ――。
《第1章 完》




