第41話 『エンキ』
「リオン!」
シェリルは地面に叩きつけられたリオンの姿に思わず声を挙げた。何とか援護しないと。そう彼女が魔法を放とうとしたその時、視界の隅に何かが飛んできているのが映った。
咄嗟に地面から高水圧の水柱を放ち飛来物を打ち上げる。これはグルドンの大槌だ。
「またさっきみたいに邪魔されたらかなわねえ。お嬢には悪いが死んでくれ」
突然立っている地面が盛り上がった。高速で隆起する足場にシェリルは思わず立っていられなくなり、地面に手を突いたまま上へと連れて行かれる。
だが上ではすでに大槌をキャッチしたグルドンが待ち構えていた。男が身動きの取れないシェリルを隆起した足場ごと叩き潰す。
だが砕け散る足場と共に飛び散ったのは、彼女の血肉ではなく水飛沫だった。
「初手の水柱に隠れた際に、分身体と入れ替わったか」
グルドンは崩れた岩場に着地し、隠れたシェリルを探す。断面の厚い槌だと水相手には打撃の威力が拡散するな。斧に持ち替えるか。
戦闘でだいぶ瓦礫が散らばっているとはいえ、ここは谷。身を隠せる場所など限られている。そう思った時、どこからともなく無数のシャボン玉がグルドンに接近してきた。
本能的にそれを回避すると、泡沫が先ほどまで自分が立っていた足場に命中した。鼻を突く刺激臭と、じゅうじゅうと岩の溶ける音。なるほどな。だが触れなきゃいい話だ。
こちらを執拗に追尾するシャボンの群れを自前の身体能力で回避しながら、岩陰を一つ一つ捜索する。
後方ではエンキとリオンが戦っているのだろう。轟音と爆風が戦いの凄まじさを伝えてくる。奴らから発せられる滅茶苦茶な霊気のせいで、お嬢の場所を霊気で感知するのは不可能に近い。
「見つけたぜ」
岩陰で五本の指を合わせ、目を閉じている。攻撃を仕掛ける前に立ち止まり、観察する。今度は本物の様だな。確実に殺す。
見つかったことにはシェリルも気づいていた。だが彼女の方も覚悟を決めていた。ダントン……お前は今ここで、確実に殺す。
突如として無数の泡がグルドンの周りで渦を巻き、半球状に取り囲んだ。シャボンの渦が一気に引き絞られグルドンを呑み込む。何かが溶け爛れる音が辺りに響き渡った。
「すまないグルドン。私がちゃんと―」
シェリルがか細い声で嗚咽したその時、泡の包囲を突き破って何かが現れた。ハッと顔を上げた彼女の視界に映ったものは、岩の鎧を纏い突撃してくるグルドン。
だが鎧は見るも無残に溶け落ち、皮膚まで溶けていた。顔に至っては左半分の肉は剥がれ落ち骨が見えている。
だが残った右眼はただ純粋に真っ直ぐこちらを見ていた。大上段に振り下ろされる大斧。躱せないっ。シェリルが思わず目をつぶった瞬間、激しい火花が散った。
恐る恐る目を開けるとリオンが見えた。両手の爪でグルドンの斧を受け止めている。だが白いコートはすでにボロボロで、背中には無数の石礫が刺さり、青い液体が流れている。
「はぁはぁ。シェリル。怪我は、ない?」
「なんで私なんか守ろうとっ、魔獣は」
慌ててエンキの方を見ると、魔獣の前脚が両方とも溶断されていた。顔も何度もさっきの熱線を浴びたのだろう。右半分が焼け爛れている。
僕は彼の斧を受け止めながら、最後の言葉をかける。
「グルドンさん。僕はあなたと戦いたくなかった」
「止まれねえところまで来ちまったのさ」
振り下ろされる斧の力が強まった。でも大分弱っている。力の霊気を扱える今、押し負ける事はない。
僕は爪でグルドンの斧を破壊しようと、腕に力を籠めたその時、突然斧が尋常じゃなく重くなった。
「エンキ!」
魔獣が残った左目でグルドンの斧を見つめていた。エンキの膨大な霊気によって大斧が茶色く光り輝き、僕の爪が耐え切れず砕かれる。
そのまま僕を真っ二つにしようと、振り下ろされる斧を両手で掴み抑えた。止めきれず肩に食い込み飛び散る血飛沫。
魔獣がグルドンに協力しているだと!?
「シェリル! 奴の視界を遮るんだッ」
シェリルが口から霧を吹き僕らとエンキを遮る。前脚を失った奴は霧を飛び越えて、再びこちらに介入することはできまい。
一気に斧が軽くなった。クソッ。左肩を裂かれて力が入らない。右手だけで斧を掴み直し、力を籠める。
ビキビキと罅が入りだす斧。だがグルドンは構わずひたすら壊れかけのそれを振り下ろし続けた。
そして遂に大斧が砕け散った。
「フル・フレイム」
大きく息を吸い一瞬の躊躇もなく霊気を練り上げる。咄嗟にグルドンは大楯を生成するが、関係ない。
熱線が盾ごと男を吹き飛ばし、急造のそれでは防ぎきれるわけもなく、空中で爆発した。黒煙の後に残されたのは倒れ伏したグルドン。両腕を欠損し全身が焼け爛れ、虫の息であった。
思わず顔を覆って膝をつくシェリル。何も学べないまま父親を失い領主としての重責を負わされた彼女にとって、豪快な笑顔で周りを鼓舞するグルドンはどれほどの心の支えになっていたのだろうか。彼女の感じている苦しみは、僕には想像もつかなかった。
「シェリル。目を逸らしちゃいけない。僕達には彼の最後を見届ける義務がある」
だが僕にできる事は、そんな彼女の気持ちを踏みにじってこんな言葉をかける事だけだった。きっと今ここで彼から目を逸らしてしまえば、彼女は二度と立ち直れないままになってしまうのではと思えたのだ。
「……できない。むりだ」
項垂れたままか細い声で拒絶する彼女にかける言葉を見つけられずにいると、霧の向こうから子馬鹿にした表情の男が現れた。
「そう無理ですよ。筆頭執事どころか私兵の長にすら裏切られるような間抜けにはね。お嬢さん、あなた領主向いてないですよ」
「ペドルス。お前には今回の事件の首謀者として法廷に連れて行く」
今すぐこいつをぶち殺したい気持ちを抑え僕は静かにそう言う。だが奴はそれにも構わず、倒れ伏したグルドンの頭を踏みつけだした。
「だいたいこいつも無能すぎるでしょう。私の完璧なお膳立てを滅茶苦茶にしてくれて」
「いい加減にしろ」
「いい加減にするのはお前らだ! 魔獣お前も何をやっている! 早く来いッ」
ペドルスの腕輪から光の鎖が伸び、霧の向こうからエンキが顔を出した。顔の右半分は焼け爛れ、溶断された前脚はブクブクと腫れあがっている。後ろ脚だけで身体を押しながら移動してきたのか。
獣は相変わらずの無表情だ。だが残った左目は踏みつけにされているグルドンをジッと見ている。
「お嬢……俺の知っているあんたは……こんな程度で折れちまうやつだったか?」
「汚らわしい魔族が! 誰の許可を得て喋っているのです! 百歩譲って口にするのは私への謝罪でしょう!!」
「お嬢、最後に一つ教えといてやる。何があっても最後まで諦めるな。俺はそうさせてもらうぜ」
グルドンの瞳に力が戻った。馬鹿な彼の両手はもう無いんだぞ。ここから何を―
そう思った刹那、漢の身体が浮き上がった。驚く間もなく、グルドンの頭突きがペドルスの顔面を打ち付けた。
「ゴフッ。ボォエェ」
これはエンキの能力。対象を地に堕とすだけでなく、浮かせることもできたのかッ。能力を隠していた。まさか脚を切断された後、自分の身体を浮かせず這って移動したのも演技なのか!?
無表情だったエンキがニタリと笑みを浮かべた。突然身体が再び重くなる。クソッ。動けない。
ペドルスが血を噴きだしながら、倒れ伏した。漢は両足でペドルスを押さえつける。
「う、うぅぁ」
「お前を縛る奴は押さえておく。霊気が足りねえだろう。俺ごと喰っちまいな」
不敵に嗤うグルドンとエンキ。突然聞こえた恐ろしい一言に、ペドルスは恐怖に身を捩ってジタバタと藻掻いた。
「ま、まてまてま、ボォエ」
「後は託したぜ。お前が滅ぼせ。エンキッ」
エンキが二人を呑み込んだ。飛び散るペドルスの四肢。魔獣の放つ霊気が急激に膨らんだ。
「バアアアアアアアアアア!!」
一頭の魔獣が谷底で吠える。その咆哮は大地を震わせ、聞く者の魂をも激震させた。




