第18話 『フル・フレイム』
月光以外一切の光のない闇の世界。森は静謐に静まり返り、メルン川の水の音が微かに聞こえるのみ。土をならしただけの一本道は一匹の魔獣に遮られていた。
銀色の骸と成り果てた魔獣。頭部から漏れ出る青白い霊気は見る者を死へと誘う亡霊のようであった。
逃げ場のない圧迫感がじりじりと僕の呼吸を苦しくする。足は竦み、全身が強張った。
どうする。僕は目を瞑り周囲の霊気を探る……駄目か。厳しい現実に唇を噛む。
度重なる霊気の行使、特に切り札のフレイムを放ってしまったことが大きかった。周囲どころか、ここら一帯に霊気が一切感じられない。使い果たしたのだ。
「やるしかないか」
自分の手のひらを見つめる。もう残っている霊気は自分の中にしかない。それも大分少なくなってきているのを感じた。以前ヒューイは言った。呪術を行使すれば霊気が歪む。霊気が歪めば体と心が歪んでいき、やがて正気を失うと。
「大丈夫だ。何度か自分の霊気を使ったけど平気だったじゃないか。きっと今回も大丈夫だ。それより問題は……」
僕は眼前の魔獣を睨みつけた。二足で不気味に直立し、ぶらりと垂れ下がった腕。巨大な凶爪は鋼すら容易に断つだろう。こいつにはフレイムが通用しない。あいつは直撃したはずのそれを雷で掻き消した。
つまり奴を屠るにはそれ以上の霊気で以て消し去るしかない。果たして自分の中にそれ程の霊気があるのか。そしてそれを集めるまで魔獣の攻撃を防ぎ続けられるか。
「小僧、ヒューイを連れて逃げろ」
ちらりとヒューイとダントンを見る。どちらも満身創痍だ。どちらも歩くとすらできそうにない。僕がやるしかない。
小さく息を吐く。僕は彼の前に歩み出た。そのままゆっくりと魔獣へと近づく。すると奴は死にかけのダントンではなく、僕に注意を向けたように見えた。
魔獣が霊気に反応するのはどうやら本当の様だ。硬く拳を握る。そこに向けて僕は霊気をゆっくり流し込み始めた。
魔獣がこっちを見た。頭部はないけど、確実にこっちを向いている。奴が身じろぎするたびに、コキ、パキパキと骨の軋む音がする。来るなら来い。
「おい、馬鹿なことはやめろ! 死にてえのかッ」
「……死にたくない。だからやるんだ!」
全身全霊で霊気を一極集中。今まで通り自分の霊気を変換しようとした刹那、どうしようもない激痛が僕を襲った。血管の一本一本が痺れる様に痛い
「グ、ガッ……グアアアァ」
「おいどうした大丈夫か!?」
思わず立っていられず蹲った。頭がガンガン痛み、意識が朦朧とする。ちらりと視界の隅に銀色の光が映った。咄嗟に後ろに飛び退きながら上体を反る。直後、額に何かが掠った。
熱い。そう錯覚するような鋭い痛みの後、何かが僕の頭から噴き出した。鮮血。切り裂かれた。躱しきれなかったか。
「大丈夫かッ」
「だいじょうぶ。掠り傷でッ―!?」
空気が霊気で歪んだ。本能のままに地面を転がる。次の瞬間、青白い閃光が目を焼いた。それとほぼ同時に轟音と衝撃。成すすべなく体が吹き飛んだ。飛び散った石礫が僕の体を切り裂いていく。
背中を丸めて懸命に頭を庇いながら受け身を取る。耳鳴りが酷い、光で目が潰された。もう五感には頼れない。
クソッ、霊気が思う通りに圧縮できない。もうフレイムを放つだけなら十分な量の霊気が溜まっているが、これじゃあ全然足りない。もっと、もっと一点に!
「リオン!」
ダントンの叫び声にハッとする。僕は魔獣の動きを霊気だけで探る。あいつは今どこに―
目の前!?
直観的に魔獣は爪を叩き付けてくると思った。護身用の剣を引き抜き、素早く逆手に持ち替え真上にかざす。間髪入れずに剣に霊気を流し込んだ。剣の周囲に呪術の風が巻き起こる。
そこまでできたのが奇跡だった。魔獣の一撃が剣とぶつかる。信じられない衝撃が腕の関節から肩にかけて走った。僕は風の勢いを利用して何とかそれを逸らそうとする。
「グッ」
駄目だ、押し切られる。即座に判断し腕の関節を曲げ衝撃を逃がす。さらに膝を折って全身を捩じって一撃を受け流した。
たかが人間。しかも非力だと思われた子供に攻撃を弾かれ魔獣が大きく体勢を崩す。そしてその隙を僕は見逃さなかった。
重い衝撃を受け流した反発力を利用して一気に魔獣の懐に飛び込む。
「ここだッ!」
僕は全力の呪術を放たんと右手を突き出した。持てる霊気を全て火属性へと変換して―
あっ……
何か生命にとって致命的な異常が体の中で起きたのを感じた。自分を構成する要素が組み替えられていく。目から何か暖かい液体がこぼれていくのを感じる。
「カハッ」
口か血が噴き出る。血だまりの上に僕は膝から崩れ落ちた。ビシャッと血が跳ねる音だけが静かに響いた。
霊気が歪むとはこういうことか。自分の身体に取り返しのつかない異変が起きたのを感じる。
……ここで死ぬのか。嫌だ。死にたくない。まだ死にたくない。僕には幸せにしたい人がいる。守りたい人がいる。託してくれた人がいる。
両手に力を籠める。両膝で身体を支え、右手を上へ伸ばす。薄れる視界の中で引き返せと叫ぶ本能を無視して霊気を変換しようとした時、僕の目に帯電する魔獣の姿が映った。
消される。回避も防御も不能。間に合わな―
銀獣が自身を中心に雷撃を解き放った。招来する稲妻は夜の雲を突き抜け、轟音と閃光は見た者を確実に殺すものだった。ドス黒い黒煙が先ほどまで少年がいた位置から立ち昇った。
「ごめん、待った?」
確実に死んだと思ったのに生きていた。誰かに抱えられているみたいだ。ごめんという言葉とは裏腹に、全く罪悪感の無い少女の声。この声は!
一陣の風が吹き抜け、黒煙が切り払われた。
現れたのは黒髪でとんがり耳の少女だった。褐色の肌にエルフの民族衣装、手に握っているのは暴風を纏った槍。安心感と頼もしさが込み上げてくる。
「さすがに遅いですよ、シュナさん」
「間に合ったんだからいいじゃない。それじゃ片づけるわよリオン」
獲物が増えた喜びに魔獣が吠えた。全身から青白い稲妻を迸らせる。周囲の霊気の力場が歪んだ。来る。
攻撃を察知するために全神経を集中。天空から大地まで垂直に魔獣の霊気が走った。稲妻を落とす気だ。射線上にいるのは僕じゃない、シュナだ。警告の為に声を張り上げる。
「シュナッ」
だがその必要はなかったようだ。彼女が豹の様に身をかがめたかと思うと、次の瞬間には風を置き去りにして消えていた。
落雷が落ちるもすでに彼女はそこにいない。槍と一体となった彼女は疾風迅雷の軌跡を描き、魔獣目掛けて突貫。
真っ赤な火花と共にキィンと甲高い音が響く。シュナの神速の突きが魔獣のあばらを打ち砕いたのだ。
だが霊気の亡霊と成り果てた魔獣には、痛覚というものは存在しない。一切の動揺を見せず、放電。圧倒的熱量の雷撃は周囲の全てを消し炭にするだろう。
しかしそれを察知できないシュナではなかった。
霊気の動きから敵の行動をいち早く察知した彼女は、槍の切先から暴風を解き放つ。
大旋風が放電する魔獣を森へと吹き飛ばし、木々が無残にへし折れてゆく。周囲を巻き込んだ魔獣の雷は、虚しく大地と木々を焼き焦がす。
「すごい。これなら」
「いや無理ね。ここら辺に霊気がもう残ってない。アタシが蓄えていた霊気もデロスにいた銀獣と今の攻防に使い切った。あいつを殺るには自分自身の霊気を使うしかないわね」
厳しい表情でシュナが言った。そうだ。もう周囲の霊気は使い切ってしまった。彼女の言葉通り自分の霊気を使う以外道はない。そう思った時、地面に倒れ伏していたヒューイが掠れるような声で叫んだ。
「駄目だッ。そんなことしたら霊気が歪む」
「ヒューイ。リオンの霊気はとっくに歪んでるわ」
「え?」
どういう意味だ? 霊気が歪むと正気を失ったり、異形の姿に変貌したりしてしまうらしいけど今のところ激痛以外の異変は感じない。疑問に思ってシュナの方を見ると、彼女は悲し気な眼差しで僕を見つめていた。
「あんた気づいていないの?」
「気づくって、何を」
「自分の手を見てみなさいよ」
手? 言われるままに右手を眺めてみる。大丈夫だ。ちゃんと白い人間の肌だし、指も五本ついてる。
「左手よ」
「左?」
何だ、これ? 青い液体が手にべっとりついてる。なんだ? 魔獣の体液か。いや違う。魔獣の血は赤色だ。じゃあこれは……まさか。
「チビッ子の血よ。それ」
「!?」
慌てて何もついてない右手で自分の口元を拭う。手のひらに付いた血の色は青だった。こんな、馬鹿な。嘘だ。
「まっ歪んじゃったのならしょうがない。というわけで、止めはあんたに任せたわ。でもね正気だけは手放しちゃだめよ」
「は?」
「別にあんただけにはやらせないわよ。しょうがないからアタシも自分の霊気使って援護するわ」
あっけらかんとした彼女の態度に言葉を失う。なんでシュナのノリがこんなに軽いんだ? 動揺してる僕がおかしいのか?
「言っとくけどアタシの方があんたの百倍は驚いてるからね……血が青くなるくらい霊気が歪んだら普通は廃人よ。だけど何故かあんたはその歪みを許容できてる。つまり人間やめてるのよ。ならもう少しくらい無理しても平気でしょ」
……なるほど。僕は自分の青い血を黙って見つめた。まだ頭も全身の神経も痛むし、吐き気も止まらない。
上等だ。この程度の代償で力が手に入るなら安いものだ。僕は自分の中の霊気を探った。違う。さっきまでの自分と明らかに流れている霊気が変わっていた。
「行ける。これならあいつを消せる」
「……頼んでおいてアレだけど、あまりその力は使いすぎない方がいいのは確かよ。これ以上霊気が歪んでいけば取り返しのつかないことになりかねない」
そうかもしれない。でももう誰にも死んでほしくない。僕は森の中から出てきた魔獣を静かに見つめながら呟いた。
「覚悟はあります」
「ギュオオオオオオオオオ!!」
魔獣の頭部から青白い霊気が激しく噴き出した。帯電する稲妻は凄まじい音を響かせて、周囲の木々を燃やしていく。
四肢を地面にめり込ませて固定し、頭部を大きく突き出した。不気味な放電音が激しくなるにつれて、魔獣の前方に青白い粒子が集まりだす。
尋常ではない霊気の密度にヒューイが絶望的な声で呻いた。
「ここまでか」
「下がっててください」
僕は静かに右手を前方に突き出した。全身を流れる霊気を一点に集中。やがて小さな灯火が手のひらに煌めいたかと思うと、次々に霊気の粒子が集まりだした。
白銀色の霊気がオレンジ色の粒子へと変換され、吸い込まれるように灯火をどんどん大きくしていく。ヒューイが叫んだ。
「なんだッ!? 体が引っ張られる」
実際には彼の身体は引っ張られてなどいなかった。しかし彼は明確に自身の中身が何かに引きずり込まれるような感覚を覚えていた。
「あの灯火の霊気密度が高すぎるのね。霊気の力場が歪みすぎて、周囲の霊気と同じようにアタシ達の中の霊気まで引っ張られてるのよ」
限界量を超えた灯火は高熱を帯びてはち切れんばかりに膨れ上がった。あまりの輝きに周囲はもはや目を開けることすらできない。
凄まじい熱量に空気がリオンの周りから逃げ出してゆく。そしてそれが臨界に達した時、魔獣が雷を解き放った。青い轟雷が迫りくる。
「フル・フレイム」
極大の火球が放たれた。衝撃と爆風が全てを薙ぎ払い、空気も大地も抉る取る。小さな太陽は一条の稲妻と刹那の間ぶつかり合い、それを呑み込んだ。もはや魔獣はそれを眺める事しかできなかった。
灼熱色に世界が照らされた後、森が消し飛んだ。業火が広大な範囲の森林を燃やし尽くし、次に衝撃波がさらに広大な範囲の木々を天高く吹き飛ばしたのだ。
凄まじい爆発音はヘルプストに住む全ての人々の耳に届き、彼らの目を覚まさせた。そして彼らは遠くに立ち昇る炎と天高く吹き荒れる黒煙を目の当たりにした。




