第15話 『黒獣再来』
どこだどこにいる。暗く月光しか明かりのない夜の森を僕は縫うように駆けた。
こんな霊気の使い方はしたことなかったけど、そんなことは言っていられない。僕は辺りの霊気を探り異常がないか探りながら、必死に走る。
「いた!」
空気や木々に宿る霊気はたかが知れている。だがその一角だけ明らかに霊気の量が多かった。喩えるなら空間が霊気の重さで歪んでいる感じだ。
僕は空気中の霊気を無理やり掌握し、手のひらに集中させる。どんどん反応が近づいてくる。もう魔獣は目の前だ。僕は迷わず木々の間から飛び出した。
視界が開けた。僕の目にダントンへ凶悪な爪を振り下ろす黒獣の姿が映る。やはり首輪をしている。僕は躊躇せずに腕を目の前に突き出した。
「フレイ!」
詠唱と同時に手から十個の火球が円形に並んで出現する。間髪入れずに全弾黒獣へ放った。火球は赤い炎の軌跡を描きながら、真っ直ぐに魔獣に着弾する。
「ギュオオオオオオオ!」
魔獣は業火に包まれてのたうち回った。真っ赤の炎中で黒い魔獣のシルエットが浮かび上がる。
「小僧!」
「ダントン、罠を準備しました。そこまで逃げますよ!」
「できねえ」
「どうしてッ」
ダントンが巨大な剣を担ぎながらこちらに走り寄る。筋肉隆々の肩からドバドバと血を流しているが、無事だ。五体満足で彼は生きている。
「そんな怪我で―」
「ギュオオオオオオオ!」
身体中を燃やしながら、火炎の中からそいつが姿を見せた。
異様に曲がりくねった漆黒の剛毛、長い尾。浮きだしたあばら骨、六本の湾曲した細長い爪、蛸の様に八つに別れた口、無数の歯に、おびただしい数の目。
闘技場で立ちはだかった冒涜的な獣が、再び僕の前にその姿を現した。
「お前はここで倒す」
「よせッ、そいつは普通の魔獣じゃねえ」
把握できる限界まで周囲の霊気を掌握する。来い、もっと来い。手の中に小さな灯火が輝いた。その火にさらに追加で霊気を無理やり流し込む、火はどんどん輝きを増していき白熱しだす。
駄目だ、時間がかかりすぎる。もう放つか? 駄目だ。せめてフレイヤが打てるまで霊気を集めないと。
その一瞬の躊躇を魔獣は見逃さなかった。顔面の口がガバッと勢いよく開き、鋭い舌が飛び出す。その鋭い切先が僕の胸を貫く寸前、身を捩って躱した。
生憎だが、その攻撃は一回見た事ある。この距離はまだ魔獣の腕の間合いに入っていない。ならあいつの攻撃手段は遠距離攻撃。そして奴の持つ遠距離攻撃は舌を触手の様に使った刺突。
「今度は確実に殺す」
僕が魔獣を睨み受けると、奴は舌での攻撃は通用しないと悟ったのか身を低くし態勢を下げた。直接、噛み殺す気だ。
僕は全神経を手の中に集中させる。白熱する火は一気に膨張し、人一人丸吞みに出来そうな火球となった。ほぼ同時に魔獣もその剛脚で大きく飛び跳ねる。今だ!
「フレイヤッ」
迫りくる咢が僕の首を引きちぎる寸前、豪火球が火を噴いた。目の前で大きく爆発。一瞬で視界が閃光に失われ何も見えなくなる。遅れて爆風が僕の身体を枯れ葉の様に吹き飛ばした。
やがて視界が戻ると、僕はダントンの腕の中にいる事に気づいた。彼が受け止めてくれたのか。ぼやけけた視界で、どうなった確認する。
爆発地点は大きく抉れ、放射状に大地が黒く消し炭になっていた。魔獣の姿は跡形も無く、火球は奥の木々まで達したのか焼け焦げている。
「大したもんだぜ小僧。お前本当に強えよ」
「やったのか、やったんだ」
とうとう黒獣を、あの魔獣を倒したんだ。ギル爺を殺したあの魔獣を……
胸の奥から込み上げてくる感傷に放心していると、ダントンが厳しい声で呻くように呟いた。
「だがここからが気張りどころだな。畜生が」
「え?」
メラメラと火の着いた森の奥から、ぬらりと黒獣が再び姿を現した。一頭ではない。前後左右、計八匹もの黒獣が蛸の様な口を開閉しながらこちらを取り囲んだ。
あの黒獣が八匹? 馬鹿げてる。もうここら辺の霊気はほとんど残ってないのに。絶望が僕の心を侵食する。
「これは死んだかもな。坊主、俺を囮にして行け」
ダントンが覚悟を決めた表情で、大剣を構えた。考えろ、もう誰も死なせないと決めた。今ここで戦っても二人とも死ぬ。そもそも僕の子供の身体だ。霊気なしでは足手まといでしかない。
もう周囲に霊気の残っていないここでは戦えない。でも、周囲を魔獣に囲まれているから逃げられない。どうする、どうする、どうする。
「おい坊主、お前はこのことをヒューイに伝えてくれ。振り向かずに走り出せ」
「何勝手に諦めてるんですか! 生きる事を諦めるな!」
最初の一頭がやられて警戒していた魔獣がゆっくりと近づきだした。もう間もなく僕らはこいつらに喰い殺される。逃げられない、戦うしかない。
この数を殺るにはフレイでも、フレイヤでも足りない。僕が向こうの世界で学んだ最高火力の呪術を放つしかない。
でも霊気がない。周囲の霊気はさっきのフレイヤで使い切ってしまった。
「……すまねえ坊主、俺も最後まで戦いきって足掻いてやる。まだ団長に花を渡せてねえしな」
団長? そうだ。シュナさんが呪術を使うときは僕と違って霊気の方から集まっていた。そしてこの現象は僕がダントンの寮部屋で呪術の練習をした時にも起きた。
あの時確かヒューイは霊気を一点に集めすぎたと言っていたな。そしてシュナさんは霊気とは水の流れの様に上から下へと流れるとも言っていた。
そうか分かったぞ。恐らく霊気を一点に極度に集中させすぎると空間が歪み谷の様にひずむんだ。そしてその穴に向かって霊気が流れ込んでいく。
でも空間を歪ませるほどの霊気なんてどこにも……やはり使うしかない。自分の霊気を。だが自分の霊気は使うのは禁忌。
そんなこと言ってる場合か。もうどうなってもいい。自分の霊気をありったけ火の呪術に変換する!
「ダントン! 十秒時間を稼いでください」
「任せろ」
僕は霊気を手の平へと一気に集める。ただひたすらに一点へと集中させる。
来た!
森の奥から霊気が集まりだした。周囲一帯から霊気が僕の手のひらに流れ込みだす。均等に満遍なく霊気が存在している状態から、ただ一点のみへと沈み込み歪んで行く。
「ギュオオオオオオオ!」
魔獣が動いた。大地を抉り二頭の魔獣が飛び掛かった。瞬き一つの間に一頭が肉薄する。顔面の口を全開にし、二人を呑みこまんと突進してくる。
「オラアアアッ!」
魔獣の牙が二人を切り裂く寸前、ダントンが大剣を全力で振り上げた。犬族の剛腕で振り上げられた大剣は、寸分違わず魔獣の下顎を打ち抜く。魔獣は汚い唾液を撒き散らしながら全身ごと大剣に弾き飛ばされた。
遅れて最初の魔獣を囮にした魔獣が右側から接近。潜り込む様にかがんだ態勢からダントンの上半身を持っていこうと、一気に牙を突き上げた。
「もうイッチョォォ!」
彼は振り上げた大剣の遠心力を利用して全身で飛び上がる。男は間一髪で魔獣の攻撃を空中でかわし、自分の真下を通過する魔獣に狙いを定めた。
強靭な筋肉が空中でしなり、大剣を眼下から迫りくる魔獣に振り下ろす。確かな手ごたえ。激しい衝撃と共に、魔獣から血飛沫が噴き出す。
「よっしゃあああ」
そうダントンが叫んだのも束の間、彼の視界に牙を剥き出しにした魔獣が映りこんだ。前後左右、四方からの突貫。
先ほど二頭の攻撃をしのいだばかりだと言うのに、今度は同時に四頭。
「チッ」
即座に彼は大剣を振り回して対応することを判断した。直後、彼の頭上の月明りが遮られた。真下に黒い影が出来る。ハッと頭上を向くと、もう真上に魔獣の口があった。
「しまっ―」
ダントンが死を覚悟した刹那、少年の霊気が臨界に達した。
「フレイム!!」
真夜中の森で、巨大な火炎旋風が巻き起こった。爆炎はさながら昼の太陽の様に刹那の間、森を照らす。灼熱は周囲の魔獣を骨も残さず消し飛ばし、やがて森に静寂が訪れた。
「……俺は生きてるのか?」
「ええ。どうやらそうみたいですよ」
僕はもはや立っていられず、地面に大の字で倒れていた。胸にはダントンの重い腕が乗っかっていて息苦しい。彼も僕と同じく地面に仰向けに倒れている。
上半身だけ起こして、周囲を見渡すと最後に見た景色と全く違ったそれが広がっていた。
木がない。黒く炭化した地面が円形に広がり、そこだけ森をがっつりと抉り取っている様な光景だった。
あたりを霊気で探る。
「俺もうお前の事、小僧って呼ぶの止めるわ」
「いいですよ、小僧で。それより残念なお知らせが。魔獣がもう六匹迫ってきています」
「……勘弁してくれ」
「追いつかれて逃げられなくなる前に、今すぐ僕を担いで罠まで逃げて下さい」
僕はそう言って、ばたりと脱力した。




