第1話 『魔法が使えない僕が覚悟を決めるまで』
メテルブルク辺境伯の城館、その一室でリオンは一人ため息を吐いた。
部屋にはあるのは文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽などの大量の書物。もちろん貴族の一員として僕はそれらを頭の中に叩き込んである。でも、今夢中になっているのはそれらではない。
「やっぱ駄目だな」
もう何度となく失敗を繰り返した作業。諦念の混じる視線を書物へ落とす。墨で綴られた文字はこの国の言葉ではない。
ふと窓を見ると外はもうすっかり夕方であった。
窓ガラスに映る自分が疲れたと訴えている。父譲りの白髪に、母譲りのさらさらとした髪質と灰色の瞳。
僕には魔法が使えない。このムーンドール帝国の貴族はみなそれが使える。メテルブルク家は代々、時空間魔法が使えたが、自分はからきしだった。
そんな僕が縋り付いたのが呪術だった。呪術とは敵国フェルゼーン王国の術で、自身の魔力ではなく、この世界に漂うとされる霊気に呼びかけ人外の術を操る術だ。そして僕が今さっき失敗したのが……
“フレイ”
呪術の基本である火花の術。指先に小さな火を灯すものだ。
でもそれすらも僕にはできなかった。疲れた目を瞼の上から撫でつけ、竹簡を丁寧にタンスへ仕舞い込む。
「う~ん。身体でも動かすか~」
辺境伯の家だけあって無駄に広大な庭園に出る。木剣の素振りを繰り返していると、背後から老齢の男が声をかけてきた。
「あいかわらず坊ちゃんの剣筋は綺麗ですね。教本みたいだ」
「それは褒めてるのギル爺?」
「いやいや、褒めてますよ」
今僕の前でぽつぽつと白髪の混じった頭を掻いているのはギルバートという男だ。
若いころは平民ながらも帝都の騎士団に入団したが、身分差や魔法が使えないという理由で立身出世を断念。
その後は傭兵団の長として帝国に名を馳せ、現在は老境に至り一線を退いている。
彼と出会ったのは本当に偶然で、僕が村に視察に行ったときにたまたま食堂で相席になったのがきっかけだ。
彼がなにやら小銭が足りず困っていた所を払ってやったらお礼にと剣術指南役になってくれた。
「では試合稽古を始めますか」
「お願いします」
お互いに木剣を構えた。お互いに水平に構え切っ先は下を向いている。剣先が少し下がっているのは人の急所の一つである脇下を突かせないためだ。
じりじりと縮まる距離。お互いにお互いの間合いを計る。
来る!
そこからは怒涛の剣戟が昼時まで続いた。流石に休憩ということでギル爺が剣を置く。
「まったく。老体に何たる仕打ちですか」
「爺こそ、あそこで狙いを変えるのは容赦がない」
僕の軽口にギル爺がやれやれと首を振った。
「なにを甘えたことをおっしゃる。敵に打たれる手は全て考慮し、最後には直観で生を掴み取る。その域へと至れないのならば、私の様に凡兵のまま一生を終えることになりましょう」
「爺の話は耳に痛いよ」
握った木刀に目を落とす。魔法が使えないなら、剣術も貴族の道楽に過ぎないのかもしれない。二つがあって初めてそれは力となる。
それが叶わないのならせめて僕に残された力、貴族という立場を存分に使って領民を守るしかない。
「近々、大規模な開拓を行おうと思う」
「ほう、それは素晴らしいことです。これで皆も飢えずに済む。しかしどこで開拓を?もうメテルブルクにはめぼしい土地はないはずですが」
「領外だ」
「駄目です。結界の外に出ることだけは断じてなりませぬ」
半ば反対されると思いながら言ったが、やっぱり返事は即答だった。
ここムーンドールは結界に守られた国だ。結界の外には恐ろしい魔獣がひしめていて外に出れば命はない。
“土地不足”
それが僕の考えるメテルブルク領の最大の問題だった。
現在、メテルブルクの農地は人口に対し飽和状態にある。
理由は単純だ。我らが祖国ムーンドールは結界に囲まれており、その外は魔獣がいるので開拓できないのだ。
「それでもやるしかない。これでも僕は領主の息子だから、自分の領の人口ぐらいは把握しているんだ。このまま行けば多くの子供たちが餓死する。開拓作業は数年かかる。今からやらねば間に合わない」
「失礼ながらリオン様は魔獣を見た事がありませぬ。えずくような腐敗臭、血がこびり付いた無数の牙、魚のように無感情な目、奴らに見つかれば次の瞬間には肉塊になる」
ふと以前見た光景がよみがえった。ずっと昔、辺境伯の中でも最も遠い地にある村に視察に行った時のことだ。
その村は結界の外縁と接していて結界の向こう側の景色が見えた。
薄暗く毒々しいくらい緑に塗りたくられた森が広がっていて、耳を済ませれば蛇のような掠れた息や獣の遠吠えが聞こえてくる気がした。
でも確かに自由の匂いがしたんだ。
魔獣の恐ろしさを僕は知らない。でも恐れてばかりいたら永遠に人は結界という牢獄の中で囚われたままだ。
綺麗ごとで世間知らずの甘い幻想かもしれないけど、いつか外の匂いを嗅いでみたい。結界ごしなんかじゃなくて本当の空を見上げてみたい。
「爺は結界の外の景色を見た事があるんでしょ?」
「……ええ」
「どんな色の空だった?」
「とても澄んだ青でした」
ギル爺が懐かし気な瞳で空を見上げた。だがそこに広がるのは結界でぼやけた空だけだ。
「僕は誰もが当たり前に空を見上げられる世の中をつくりたいんだ。飢えに苦しみ、魔獣を恐れ、下ばかり見ている世界じゃなくて。だから最初の一歩を踏み出す。その一歩を僕と一緒に歩んでくれないかな?」
「……まったく。とんだわがままなお坊ちゃんに目を付けられたものですな」
心地よい風とギル爺の笑い声だけが、メテルブルク邸の庭に響いていった。
*
あれから半年……メテルブルク邸の自室で朝から僕は開拓の準備を進めていた。予定だと今日中に開拓の志願者が到着することになっている。そして明日はいよいよ彼らを引きつれ開拓予定の村に向かう。
村の名前はドリス村だ。
「いよいよ大詰めだ」
そろそろ開拓志願者たちが到着する頃かな。そんなことを思っていたその時、ドアがノックされた。侍女がドアを開けると父の使用人が立っていた。こんな時に何の要件だ?
「ご当主様からのお呼び出しです。今すぐ帝都に来て下さるように願います」
「父上が……しかし今日が開拓の初日だということは分かっているはずだ。なぜ突然呼び出しが?」
「それについてはご当主様自らがお話になるとのことです」
慇懃無礼に頭を下げる使用人の前で僕は戸惑っていた。一体どういうことだ。予算も計画の詳細も全て紙面で提出し許可を頂いたはず。
どちらにせよ父の命令だ。いくしかない。開拓志願者の取り纏めはギル爺に託そう。爺にも計画の全てを共有してある。
「分かった」
僕は爺に事情を説明するための手紙を書き、そのまま着替えと最低限の支度を済ませ、転移の間に向かった。
辺境を治める大貴族の屋敷にはたいてい帝都との行き来の為に転移陣が置かれている。その上に立つと、一瞬で視界が切り替わった。帝都の別邸だ。慣れない匂いが鼻腔を通り、別邸に来たことを自覚させる。
無言で先を往く使用人の後に続き部屋を出た。真っ赤な絨毯が引かれた階段をのぼりながら、呼ばれた理由をあれこれと考えているうちに父上の書斎に辿り着いた。
「失礼いたします」
「……入れ」
華美に装飾された重い扉が開かれると、メテルブルク辺境伯の統治者である父が奥に座っていた。
呼び出しておいて僕に興味がないのかその視線はテーブルの上にうず高く積み上げられたムーンドール金貨に向けられていた。
「くるのが遅いぞ」
「申し訳ありません。開拓の引継ぎを行っておりました」
「そんな些事どうでもいいわ。明日、皇帝陛下の名のもとに決起式が執り行われる」
決起式? しかも明日だって!? そんな重要そうな催しなのに前日連絡……
「決起式と言いますと?」
「五年前に我が国が滅ぼした国は知っているな」
「フェルゼーン王国のことですね」
フェルゼーン……僕が今まさに研究をしている呪術の発祥の国だ。五百年以上前に建国されて以降、度々ムーンドール帝国と戦火を交えた王国。
「その野蛮で下等な国の残党が新たな国を建国したらしい。国の名はサンシオとかいうそうだ」
「あの国は五年前の戦に敗戦して以降、貴族勢力の離反もあって空中分解したはずですが」
「ああ。あの戦争以降、我が国へと寝返った者が次々に現れた。その筆頭こそ今中央ムーンドールで所領を貰ったデビウス男爵家だ」
聞いたことがある。敗戦したフェルゼーンは国王派と国教派、中立派に分裂し泥沼の内紛が起こり滅亡した。その滅亡を速めたのが中立貴族の裏切りだったらしい。
「どうやら件の新興国はフェルゼーンの国教である陽教の教徒どもが中心の国だそうだ。皇帝は帝国になおも盾突く狂人どもを滅ぼすべく決起式を行うこととした」
「それが明日という訳ですか」
「決起式では各貴族が皇帝へ忠誠の品として献上品を捧げる。わしとお前とお前の兄は当然出席だ。殿下の前に出ても恥ずかしくないよう服装もろもろ用意しろ。分かったらもういけ」
「かしこまりました」
当主の命令には逆らえないので、素直に一礼する。しかし僕の参加を当然と言うほど父上は僕を重要視していたか?
何か引っかかるものを感じながら部屋を辞した僕は決起式の準備をすることにした。昼過ぎごろになんとか準備を終えた僕は、再び転移陣に乗り辺境の本邸に帰還した。
「ふぅ、まったく予定外だった。急いで村に向かわないと」
今頃はもう開拓者志願者たちも村に到着して、ギル爺の伝手で集まってくれた傭兵団と明日以降の作業の段取りを話し合っているだろう。
馬車ではなく馬を駆けて向かったが、村が見えてくる頃には、もうすっかり日は落ちて空が完全に闇に染まっていた。
「ん? なんだ」
そろそろ村が見えてくるはずだが、向こうの空が赤い。嫌な予感が生まれ胸騒ぎが治まらない。吐き気を抑え急いで馬を走らせる。そしてついにドリス村に着いた。
だがそこにかつての光景は存在しなかった。
「なんだ、これは」
深夜の森をさらにドス黒く染め上げる黒煙と獄炎。結界の向こうの森は地獄の世界となっていた。パチパチと火花が飛び散り、木々はミシミシと焼き折れていく。苦し気に鳴く鳥たちが空に逃げるも煙に巻かれて墜ちていった。
「あなたっ、あなた!」
はっと声の方向を見ると、村の女が負傷した男に追いすがっていた。背中がひどく火傷している。急いで近くの井戸から水をくみ取り、患部にかける。
「そこの人! 誰か馬に乗れる人を呼んできてください。私の馬を使っていいので、すぐに街に行って医者と回復術師を呼んでください!」
周囲を見渡すと火傷をしているものも大勢いた。いったいなぜこんなことに。
「お~、リオンか。どうしてここに居るんだ?」
芝居がかった様子で近づいてきたのは兄のマルコムだった。今気づいたが、彼の後ろには馬鹿みたいに巨大な荷車があった。荷台には黒い布で覆われた何かが載っている。
「それはこちらのセリフです。なぜあなたがここにいるのですか。この有様はなんです」
「ああこれか? 冴えてるだろう。俺の作戦だ」
作戦? 何を言っているんだ。そう疑問に思った時、ニヤリと笑ったマルコムが一気にその布を外した。その瞬間、吐き気を催すような腐敗臭が辺りに満ち溢れる。
「まさか……」
「そう魔獣だ!」
漆黒の剛毛、異様に長い尾。一見狼のように見えるそれはしかしよく見ると非常に冒涜的な姿をしていた。
胸から浮き出たあばら骨、漆黒の皮からは真っ赤な肉が露出している。生きているはずなのに腐敗している。だが最も醜悪なのはその顔であった。
顔面の大部分が口になっており、三つに裂けている。口内から無数の牙を覗かせながら、無感情な魚の様な目でこちらをじっと見ていた。
「どうだ。素晴らしいだろう。これが我が領の決起式の献上品だ」
「馬鹿な。魔獣は人の手に余るぞ」
「馬鹿はお前だ。よくこいつの首元を見ろ」
これは首輪? 灰色の石でできた巨大な首輪が魔獣の首を絞めていた。普通の首輪じゃない。何か文字が彫られている。これは魔道具なのか?
「驚いたか? こいつはハレム魔導学院製だ」
まったく事態について行けない。ハレム? 魔獣? 意味が分からない。何の脈絡もない悪夢を見ている気分だ。気持ちが悪い。だがそんな状況下でも貴族の自分が冷静に事態を分析していた。
「どうして村を燃やした?」
「ああそれか。この者達が魔獣は火を恐れると言ったからな。森に火を付ければイキの良いのが飛び出してくると思ってな。村に火が燃え移ったのは必要経費というやつさ」
焼け落ちる森の熱で身体は肌が焼けるくらい熱いのに、体の震えが止まらなかった。必死に頭を回転させる。村は建て直せる。今一番大切なのは領民たちだ。村人と開拓者たちに、傭兵団の人達。ギル爺はどうなった。
「開拓志願者たちは?」
「魔獣を捕らえる餌に使った。お前が集めてくれた傭兵団もな。お前が人を集めといてくれたおかげで手間がかからなかったよ」
「どうして!? どうしてこんなことをしたッ。どうしてこんなことができる? 僕たちは領民たちを守るべきはずの存在だ。それなのにッ」
「お前は物の価値が分からん奴だな。この魔獣一頭だけで村の四つや五つ程度から得られる税収の何倍も価値がある」
は? 何言ってるんだ。村や志願者たちを犠牲にしたのか。いやこんな奴の相手をしている場合じゃない。今は怪我人の手当てをしないと。
「そこあなた手伝ってください。その井戸からもっと水を汲んで、火傷をしている人にかけて! 落ち着いたら水にぬらした布を当てて、冷やし続けてください」
「おい、まだ話の途中なんだが? 今日お前が帝都に呼び出されたのも俺が父上に頼んだんだよ。お前が村にいると邪魔そうだったからな。どうだ? 完璧な計画だろ?」
くそ。人手が足りない。
「おい無視してんじゃねえよ!」
マルコムが桶を蹴飛ばし水がこぼれた次の瞬間に、僕は剣の柄に手を触れていた。
同時に右足が踏み込まれ、間合いに入った刹那抜刀。もはや無意識に抜かれたそれが、持ち主の感情すら置き去りにして空を切る。剣閃は無機質に光り、マルコムの首に吸い込まれた。
冷たい刃が彼の肌に届く寸前、剣に理性が追い付いた。ピタリと剣が静止する。
しかし止めるのが僅かに遅かったようで、薄皮一枚だけ傷つけてしまったようだ。切り傷から血が微量だけ漏れている。
「ヒッ」
突然、自分の首筋に走った痛みにうろたえてマルコムが尻もちをついた。
しまった……家族とはいえ辺境伯の長男を傷つけることは重罪だ。この村を再建するためには資金がいる。ここで僕が反逆罪で処刑されれば、ドリス村の今後はどうなる。
「お、お前俺に剣を向けたな」
「……」
「処刑だ」
普通は情状酌量の余地があるはずだ。だが相手がこの兄相手では……父から見ても魔法が使えない僕を生かしておく価値はないだろう。
しかもさっきの兄の口ぶりから言って父もこの件は知っており了承済みだったということになる。
無念で僕は唇を噛み締めた。いくつもの案が浮かんでは消えていく。その様子を見て余裕を取り戻したのか、不敵にマルコムは不敵に笑った。
「ではリオン。お前が明日の決起式に出席するのなら水に流してやろう。俺は魔獣とともに転移陣で帰る。お前も早く帰れよ? 早くしなければ明日に間に合わないからな」
そう言い捨てマルコムは家臣に魔獣を乗せた四輪車を引かせ去っていった。
看病していた人は息絶えていた。痛みに呻く声とすすり泣く人の音のみが聞こえる。僕は地面に手をついて村人に頭を下げた。
「……申し訳ない。本当に申し訳ありませんでした」
誰も喋らなかった。
「必ず建て直します。必ず皆さんの生活を取り戻します」
「どうして、どうしてよ」
一人の女性の声がした。顔を挙げると顔を煤で真っ黒に汚し、意識のない子供を抱いている母親がいた。子供の瞳に生気はなかった。
「……あんたのせいよ」
なんて声をかければ良いのか分からない。
直後、頬が熱くなった。遅れてじんわりと痛みが広がる。
「あんた、自分が貴族様だからって、あたしたちのこと人間だと思ってないんでしょッ」
我が子を失った母親の絶叫がナイフのように僕の心に突き刺さる。もう頭も何もかも真っ白だ。覚束ない足で当てもなく歩いていると、一人の男が立っていた。三十くらいの男であった。
「あんたリオンか」
「……」
「俺は傭兵で昔ギルバートの旦那に世話になったもんだ。あの子はお前のせいじゃねえよ。運がなかったんだ」
「……」
再び歩き始める。理由はない。ただどうしようもなかった。だが、その男は僕の肩をなおも掴んだ。
「すまねえ。今のお前さんに言うべきことじゃなかったな。その、俺の用事は一つだ。遺言を伝えてくれと、頼まれているんだ」
「……誰からです」
「ギルバートの旦那だ」
「ギル爺は……ギルバートさんはどこです」
重苦しい沈黙だけがあった。男が静かに口を開く。
「……旦那は、炎に燃え盛る森の中一人で戦った。怪我した村人と開拓者を逃がすために、あの黒い魔獣に立ち向かった。魔獣の力を封じ込める首輪を片手にな。旦那がいなかったらみんな死んでた」
死んだのか。ギル爺も。
地面に崩れ落ちる。何の気力も湧かない。そもそも無理だったんだ。なんの力もない僕が何かをしようなんて。僕が巻き込んでしまった。生きてさえいれば幸せになれるはずだった人たちをッ。
苦しくて地面にうずくまっていると、男が喋り始めた。
「リオン殿。今回の事は私の意志で選択したものです。だからどうか思い悩まないで頂きたい。私はむしろリオン殿に感謝しております」
「かつて私は立身出世を夢見て帝都の騎士団に入りました。しかし周りは貴族ばかりで、碌に訓練もしないのに魔法があるだけで何をやっても負ける。露骨に見下してくる目。私には耐えられなかった」
「平民の私が魔法を使えないことより、貴族のあなたが使えない方がより周囲の眼差しは辛いものであったはずです。私は耐えられずに逃げたが、あなたは逃げなかった」
「人生上手くいかないことなんて腐るほどある。それでも折れないでください。私の分まで。諦めずに、覚悟を決めて道をお進みください。あなたにお仕えできて幸せでした」
乾いた地面に水滴が落ちた。それは直ぐに地面に吸い込まれて消えていく。だがその度に何滴も、水滴が零れ落ち地面を濡らした。涙が止まらない。
悔しいのか悲しいのか、なんにも分からない。何か言おうとしても、喉がつっかえる。舌が震えて喋れない。それでも、それでも。
「まだ死ねない。僕はまだ死ねない。まだ僕は何もやってない。このままじゃ死にきれない」
マルコムがなぜ僕に処刑ではなく、決起式の出席を命じたのかは分かっている。
あの魔獣のお披露目として僕を襲わせる気だろう。でも僕は絶対に死なない。必ず生き残って、成し遂げる。




