父のこと。③
さて。
ごねながらも渋々、自ら名前を名乗った父は、無事病院へと運ばれました。
運ばれた先は、例のかかりつけ医の病院。
そこで三日ばかり、対症療法で様子見(多分)が行われ、結局どうにもならず大阪警察病院へ転院、ということに。
この辺のモヤモヤは第一回に書きましたから割愛します。
弟が付き添って警察病院へ転院した父は、そこで『敗血症性ショック』の状態だという診断が下ります。
(最近も、和歌山県知事が急に亡くなった原因が『敗血症性ショック』だと報じられていますよね)
その診断名を弟から聞き、『敗血症』という単語に、私はぎょっとしました。
私の学生時代の友人に、『敗血症』でお父さんを亡くした人がひとり、いるからです。
弟からの電話の後、『敗血症性ショック』をググり……高齢者の予後が悪く、生存率が低いことも知り、これはもうどうしようもないのでは、と、心の隅で思いました。
ただ弟の話では、父が多少は息苦しそうながら(元々肺炎でしたので)も意外と元気にしていて、普通に話も出来ている、と聞き、一縷の望みを持ってはいました。
元通り元気になれる可能性は低いものの、たとえば酸素ボンベを引っ張りながらならある程度自活できる可能性も、皆無ではないかな、と。
もちろん見舞いに行くつもりがありました。
その当時、息子の学校が昼までだったので、それを待って一緒に、父へ顔を見せに行ってもいいかもしれないとも。
でもそれよりも早く、弟からメールで『(父とのお別れは)今日明日明後日になる可能性が高い、と病院から知らせが来た』という連絡が届きました。
27日の朝でした。
弟からの知らせは、出勤している夫へもすぐメールしました。
夫は慌てて仕事の段取りをつけ、昼に帰宅。
昼食を済ませ、学校から戻った息子も一緒に三人で病院へ。
あらかじめ弟から聞いていた部屋番号などを頼りに、病室へ向かいます。
病棟のナースステーションに声をかけ、父の病室へ。
愕然としました。
弟から聞いていた話から、イメージ的に私は、もう少しは元気なのではと思っていたのですが。
様々な医療機器につながれ、鼻から酸素を送られている状態なのに父は、大きく口を開け、ひっきりなしに苦しそうに、息をしていました。
顔色は黄色っぽく、口呼吸をずっと続けているからでしょう、口の中が乾き切っているのが覗かなくてもわかるような状態でした。
うっすら目を開け、忙しない呼吸の合間に我々を認め、『おおう』というような声を何度か出してくれました。
「しんどそうやな」
「○○○(息子の名前)もじいちゃんに会いに来たで」
など、声をかけたのを覚えています。
あまり意味のないことしか言えませんでした。
つながれた機械のうち、血中酸素濃度の値を示す機器が断続的にピーピー警報音――血中酸素濃度が90を切ると鳴っているようでした――を発しているのが、変に印象に残っています。
しばらくして、帰宅。
そのまま、少なくとも弟が仕事にケリをつけ、こちらへ来るまで待っていた方が良かったと後から思いましたが。
何故か、帰宅しました。
正視に堪えない、という状況だったのだと、後になって思いました。




