第3話〖月の光と蠢く影〗
「もぉ〜ゴメンなさいね! アタシったら気が急いちゃって」
華やかな客室で、謝罪とともに目の前の相手は眉尻を下げ、口元に上品に手を添える。
胸下まで伸びた長い髪に、女性のような柔和な口調。しかしその声は低くやや掠れており、白い首に喉仏が浮き出ているのが分かった。
先ほど僕を拐った__もとい、カナリアの言っていたこの屋敷まで運んできてくれたのは鳥ではなく、竜の姿をした彼だったのだ。
ちなみにあの場に置き去りだったはずの靴も、新品のように綺麗な状態で返ってきた。
「あの子が急に婚約者を連れてくるなんて言うものだから、いてもたってもいられなくてね。お迎えに上がっちゃったわぁ♡」
「は、はぁ……確かに驚きはしましたが、でもお陰で緊張も解けました。温かく迎えてくださって、ありがとうございます」
「まぁ〜いいのよお礼なんて。さて、すっかり紹介が遅れちゃったけど……改めまして、アタシはラファルト。カナリアの父よ」
よろしくね、と自分より一回り大きな手を差し出される。ぱっと花が咲くような、明るく愛嬌溢れる笑顔はカナリアとそっくりだ。そっと彼の手を取ると、そのままもう離さないと言わんばかりの勢いで抱き寄せられた。
そこへタイミング良く、いや悪かったかもしれない、扉を叩く音が鳴り響く。
「……あっ、お取り込み中? 失礼しましたぁ……」
「ちょっ、待ってカナリア! 誤解、誤解だから!!」
わずかに開いた隙間からカナリアが顔を覗かせた後、何かいけないものでも見たかのように、再び静かに閉まった扉に向かって僕は叫んだ。
結婚以前の問題が発生してしまった気がする。
「あら。カナリアったら、遠慮しなくてもいいのに……アタシがアナタを独り占めしちゃって拗ねてるのかしらね。まだまだ子供なんだから。うふふ♪」
カナリアの表情にはもっと別の疑念が浮かんでいた気がするが、それでもさすが親と言うべきか、彼の呼びかけひとつでカナリアはティーカップを乗せたトレーを手に、改めて僕達の前に姿を見せた。
そして彼女の隣にもう一人、女性が立っていることに気付く。
「ああ、そうそう。彼女が妻のオリヴァよ。初対面の人とお話するのはどうしても緊張しちゃうみたいなんだけど……カナリアからアナタの話を聞いた時はそりゃもう、アタシよりも喜んでね。今も二人で張り切ってお茶を淹れてくれてたところなのよ〜」
ラファルトさんに小声で囁かれた後、カナリア達の方に視線を戻す。けれど紹介を受けたオリヴァさんと目が合った瞬間、彼女はカナリアの後ろに隠れてしまった。
「…………それ以上余計なこと言ったら白髪引き抜くぞ、ラファルト」
「イヤだっ、白髪って抜くとさらに増えるって言うじゃない!?」
「あ、おとーさんそれ迷信らしいよ〜。ほらほら、冷めちゃう前に皆でこれ」
人数分の紅茶が行き渡り、僕は一家とともにソファーに腰を下ろした。
「家族全員がこうして集まるのもいつぶりかしら。ホントに……アナタが引き寄せてくれた縁なのかもしれないわ。ありがとう、律くん」
「い、いえ! 僕の方こそ、本当に……お会いできて良かったです」
座ったまま背筋を伸ばして、深くお辞儀をする。顔を上げると、ラファルトさんが穏やかな糸目をさらに細めて言った。
「この通り、アナタのことは皆もう大歓迎だから! アタシ達夫婦のことも、形だけじゃなくて……本当の親のように接してくれると嬉しいわ。魔界については戸惑うことも多いでしょうけど、何でも遠慮なく聞いてちょうだい。カナリアを、娘をよろしく頼むわね」
僕には実の両親がいない。僕が物心つく以前に事故で亡くなったそうで、その後は叔母が引き取って育ててくれた。もちろん叔母にはとても感謝しているが、顔も知らない家族の姿を子供心に浮かべては、寂しさを拭い切れずにいた。
そんな自分に、種族の壁を超えて寄り添ってくれたことがとても嬉しくて、また不意に泣いてしまいそうになった。
ラファルトさんに続き、オリヴァさんも、彼とは対照的な固い表情でぎこちなく口を開いた。
「……夫に全てを代弁させてしまうのは忍びない。私からも、歓迎の意を伝えよう。これを機に、私のことは是非、その……お、『お義母さん』……と……」
褐色の頬が真っ赤に染まるのを隠すように、オリヴァさんは次第に俯き、何か言いたげに口をもごつかせるも、それ以上は聞き取れなくなってしまった。「おかーさん、頑張れ〜」と、僕の隣でカナリアが小さくエールを送る。
それでもなお、オリヴァさんの眉間の皺は深くなるばかりで、僕達は自然と顔を見合わせて笑みをこぼした。
┄┄┄┄
家族団欒のひとときを過ごした後、僕はカナリアと共にあの塔の頂上に来ていた。
魔族とは本来、竜や獣などの姿であるらしい。この一家に仕える使用人も例外ではなく、彼らのお陰で塔までの険しい山道は回避できたが__しかし、その先は自分の足で延々と続く螺旋階段を登らなければならず、齢十九の体力を以てしても、乗り切るには相当な覚悟が必要だった。
「着いたー! 着いたよ、り……って、りっくん大丈夫!? 顔真っ青だよ!」
既に何度か走馬灯のような景色が見え、寿命が確実に縮んだであろう激しい負荷でその場に倒れた僕の元に、息切れひとつしていないカナリアが駆け寄ってきてくれた。
人間の身体で、この世界に適応するのはどうやら至難の業らしい。よくある異世界転生のようにはいかないな。
「月が、近く見える。それに青い。湖が浮かんでるみたいだ」
深呼吸をし、仰向けに眺める月はとても鮮明で、幻想的な青い光を纏っていた。カナリアも横で寝転がり、僕と同じ目線で月を見る。
澄んだ夜空の下で、静かに時が流れていくのを感じているうちに、疲れも癒えてきた。
「あの月はね、魔界と外の世界を繋ぐ『結界』なんだって。結界は他にもあって……ここと同じようにそれぞれ、別の世界に繋がってるっておとーさんから聞いたことあるんだ」
「トビラ……」
「うん。結界の向こうに行くには、結界を開くための『鍵』が必要だって。でもそれが何なのか、正確な条件は分かってないんだって。結界によって条件も違うとか」
ここに来る時、カナリアは月に手鏡をかざしていた。けれど実の所、結界が開けるのは手鏡によるものか、彼女の魔力によるものか定かではない。
ただひとつ、結界を開く方法として、自身が知っているのはそれだけだと話してくれた。
「でも本当、綺麗……他の月も世界のことも、わたしはなんにも分からないけど、今見てるこの月が、人間界が一番好き」
だって、大好きなりっくんに出逢えたから。
月の光が差し込んだその瞳に吸い寄せられるように、僕もまっすぐ彼女を見つめる。
「カナリア__」
けれど、その先の声は、伝えたい想いは、届かなかった。
次の瞬間、瞼の裏に焼き付くほどの強い閃光が視界を覆い、大きな爆発音が心臓の奥深くまで響いた。
「……ぐっ……か、なり……あ、」
なにが、起こった? 耳鳴りが止まず、次第に目の前が暗くなっていく。
カナリアも共に、巻き込まれた。助けなければ。遠のく意識に抗うように彼女の名前を呼び、一心に手を伸ばす。しかし、そこに人の気配は感じられない。
身体が熱い。火の粉が降り注いでいる。そして、僕は赤く燃え上がり、歪に崩れ落ちていく光の欠片を見た。
月が割れ、散っていく。その光景を最後に、意識は途切れた__。