第四節 精神世界、奥地にて
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リリアーナのレイピアを奪った黒い手は、いまだ移動の勢いを緩めることなく逃走を続けている。
単なる走行では二度と追いつけない速さだが、この空間内では魔力を自在に扱えると分かったため、セツナはある手段に出た。
彼女は生前、体術重視の戦闘スタイルだったが、魔法を使う際には主に氷属性を用いていた。
これが功を奏し、彼女は自身の前方に氷の道を作り出した。両足にはスケート靴のような形状の膜を張り、踏み込みに勢いを乗せて疾走。
再びリリアーナは彼女の肩で担がれている状態である。
黒い手の動きを見て、セツナが述べる。
「もう一人のリリアーナ様を目指しているように見える。何故……」
そもそもこの空間に物質として現れた全ては、幻影として生まれた単なる仮の姿に過ぎない。
つまり、あの補助魔導具を手に入れたとしても、強さ自体は変わらないわけだ。
では魔女は、何故その剣を求めているのか……。
「もう一人の私もここから出たいと思ってるはず。そしてここに来るまでの入口になったのは二つのレイピアだった」
「つまり、出るためにも……」
「多分だけど、私の剣が必要になる……!」
「ならば逃すわけにはいかない……!!」
すると突如、床の表面が剥がれ落ち、マグマが噴き出した。
中を覗き込むと、その底にて、邪気を吸い取る人型が見えた。
髪を炎のように揺らしたフェリシィが浮かび上がってくる。
「なんで……! なんでみんなしてアタシたちのことを否定するの……! こうなったら……!」
幻影となって以降も、手持ちのスリングショットは健在のようだ。弾すら込めず、魔力だけで攻撃しようとしている。
しかしそこへ迫る、大柄な体格の瘴気。
「アンタの相手はァァ……!!」
更に声まで響き渡ると、明確な色彩をまとった。
巨大な金槌を横に振るう。
「アタイだああああ!!」
実の娘であろうと容赦はしない。母ジャスミンが、相手の全身側面を殴りつけた。
「ぐあああああああああああ!?」
フェリシィは干草のように転がりながら打ち飛ばされた。倒れきったタイミングで咳き込みながら顔を上げる。
誰に殴られたのかを把握し、今にも泣き出しそうな目で見つめた。
「ママァァ……!! ママまで邪魔するの……!?」
すると、死の直前で闇に堕ちたばかりのリリアーナが近くにいた影響でか。ジャスミンのそばには、バレンと思わしきシルエットを持つ怨念が這い寄ってくる。
彼女はそれを見るや否や、よりわなわなと震え始めた。
「こんなところでぇぇ……」
またしても頭部へためらわず殴打。
「なぁぁにやってんだ!!」
食らった彼は一瞬で粒子となって消失した。
彼女らしい、あまりにも潔い割り切りだ。
一方で、いくら複数の魂と同化していたとはいえ、フェリシィはまだ子供である。
母の行動を受け入れられず、怒鳴り散らす。
「ママこそ分かってよ!! 新しい世界でもママは死んじゃったのよ!? それをやり直そうっていうのに!!」
魔女の計画が上手くいけば、蘇られるかもしれない。
そんな聞き心地は良い言葉だが、ジャスミンは厳しい面持ちを変えずにいた。
しかし、持っていた武器を手放す。
金槌が粒子となって舞うなか、ゆっくりと娘のもとへ歩みを進める。
近づいてくる彼女から目を離せぬまま、フェリシィは震えながら後ずさりする。
怯える娘に対し、ジャスミンは……。
「こんなことまでしてって……。アタイが望んだと思うかい?」
穏やかな笑みへと変わった。
違う次元の存在である娘だろうと、久方ぶりに会えたことに変わりはない。
フェリシィを強く抱きしめた。
温もりは感じているのだろうか。
魔女と共に地獄の世界を撒き散らしたフェリシィだが、段々と涙が目に溜まっていく。
そして同時に、顔中のあらゆる部分にシワも刻まれる。
「ちがうちがうちがう……!! ちがうゥゥゥ!!」
純粋な感情が反転して襲う。
彼女の周囲にて、マグマのような炎が噴き上がった。
その怒りを一身に受け入れようというのか。
ジャスミンは目を閉じ、一切の抵抗を見せず。
灼熱の焦土に呑まれて塵となった。
その黒き灰を掴もうとした彼女だったが、震えのせいで上手くできなかった。
握り拳は、歯を噛み締める力にすべて注ぎ込まれる。
「アタシに殺させた……!」
フェリシィは、スリングショットでゴムを引く構えを見せた。
武器そのものを持っていないのに、炎が同じ形を再現していく。
そして右の爪先あたりには、身の丈の倍はある火球が形成された。
「絶対絶対絶対絶対ィィ……!! 許してやるもんかああああああああ!!」
リリアーナはあえて逃げず、向き合ったまま、フェリシィと全く同じ構えを取る。
そして、魔力の流れが武器の形となるところまでも全くの同じだった。
違うのは、属性が炎なのか光なのかという点のみ。この合わせ鏡の事態にフェリシィが目を剥く。
同じ原理だ。
魔女はこの要塞内に埋められている肉体から、無理矢理ステラの魂を引っ張ってきた。
要塞内の階段で肉体が飛散したフェリシィが、こちらの呼びかけに応じてくれた。
光球から先に放たれる。
フェリシィもできる限りの魔力を吐き出していたが、焦りが生じたのか。放たれた炎は小さくなっていた。
それもあり、ぶつかり合った二つは拮抗したまま動かず。
だが、闇に堕ちたほうのフェリシィからしてみれば、単純な力比べに乗る必要はないだろう。
床から湧き上がる他の瘴気を浮かび上がらせ、両手を天に掲げる。
いま放ったものよりも一回り大きい火球が、五つほど出来上がった。
そのうち三つをリリアーナ達の方に投げつける。
リリアーナはバリアで身を守ろうとするが、しかし圧倒的威力だ。二発目だけで甚大な損傷とも言えるヒビが入る。
そして、三発目で決壊。破片が床を跳ねる。
残る二発も降下の準備に入る。
表情には決死が滲んでおり、いつしか涙が頬を伝っていた。
「アンタを殺してェ……!! ママもパパも、みんな取り戻すんだからァァァァァ!!」
しかしここで、フェリシィが用意していた二発。
そして、リリアーナ達が発射した光球と、ぶつかり合っていた火球が、一斉に破裂した。
急な事態にフェリシィが目を丸くし、そのまま着地。
今の不可解な現象に心当たりがあるのか、両手のひらを見つめる。
震えながらその場で膝をついた。
「一緒に……いたくないっていうの……? ママ……」
涙声でつぶやく彼女を見つつ、リリアーナとセツナはこの場を後にする。
目指す先は、魔女が手にしようと企む脱出の糸口だ。
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状況を足場の上で見下ろしていた魔女リリアーナは、顔を引きつらせた。
配下として招いた者たちはことごとく敗れ去るか、あちら側のリリアーナに寝返るという始末。
そしてフェリシィまでもが戦う気力を失くしてしまった。何から何まで自分に不都合な状況……。
「不思議な話だね……」
そして、あざ笑う意図はないだろうが、そうとしか思えないタイミングだ。
魔女は声の主の方へ振り返った。
彼女は当然従わないだろう。ナミダ・アラシの幻影がそこに立っていた。
無言で睨む魔女に対し、彼女は視線を合わせず続ける。
「こんな展開を想定して、未来に託したわけじゃなかった」
「君も今は私の配下だよ? そんなところで黙って見てないで……」
手を挙げるも、彼女は一切の恐怖を示さない。
ナミダが身体ごとこちらを向ける。
「私も……謝らなくちゃいけない」
「え……」
見つめているのか、やや下を向いているのか分からない視線が感情を物語る。
「君を期待させるだけさせて……。何も……果たせなかった」
まだそんなことを言っているのか。
魔女は唇を噛みながら限界まで近づく。
「そんな言葉いらない……!! どうせやり直しになるんだから無意味だよ!!」
「けど……」
「本当にそう思ってるんなら次がんばってよ!! あの世界で私のことを見てくれたのは、君だけだったんだよ!?」
息が段々としにくくなる。
「だから信じてた。信じて、たのに……!!」
涙を流しながら、なぜだかほほ笑みかけてしまう。
「君が裏切ったから……」
「うん。でも……私の選択は間違ってなかった」
彼女にそう言わせるだけの理由が近づいてきた。
二つの剣さえ手にすればここから脱出できると見込んで、魔女は配下に剣を持ってこさせた。それを追って、リリアーナとセツナも氷上に乗ってやってきた。
ある程度の距離まで近づけたセツナは、指から氷柱を発射。黒い手が上に載せていた剣を弾き飛ばす。
それを、セツナの肩の上にいたリリアーナがキャッチした。
次なる目標を、高みの見物と決め込んでいる魔女へ移す。
リリアーナは手のひらを床に向け、球状の風を形成。
それを拡散させることで、魔女のいる高さを目指して急激に上昇し始めた。
純粋な能力差では魔女のほうが上のはずだが、もはやそれで達観できる余裕は消えた。だからここまで接近を許しているのだ。
とは言え、少しでも距離を取るため、考えられる中で最も有用な援軍を呼び出す。
足場の床に手を置き、その精神を引きずり出そうとする。
最期までリリアーナ達を手こずらせた狂気のアンドロイド、カナリア……。
しかし、すぐに原型が崩れていく。
目を剥く魔女に対して、ナミダは冷静である。
「人工知能は魂じゃない。君もよく分かっていることだ」
そう。魂が状況に適用してコード化したセツナとは根本的に異なる。
魔女の言動をデータ化し、別のもう一人の知能をブレンドしたプログラムに過ぎない。この場に送り込むことはできない。
そうこうしている間に、まんまと二人をより高い位置に招き入れてしまった。
セツナは氷弾を発射しながら降下接近。
魔女はレイピアで振り払いながら待ち構える。
二人はいまだ密着したままだ。セツナがその身を斜めに回転させると、その勢いに乗って斬撃をリリアーナが斬撃を繰り出す。
特殊な剣戟を受け止めるも、セツナは足の指でナイフを握りしめていた。斬撃は下からもくる。
何発も繰り出される攻撃を捌くことに精一杯である。
魔女は苦し紛れに発言を行う。
「私がやられたら……もうやり直しできない……!!」
「そんなことはさせないって言ってるの!!」
「君たちなら世界を少しはまともに変えられるんだと思うよ! でも私のふざけた人生は変わらない!! なんとも思わないの!?」
「あなたの手は血に染まりすぎた!!」
「だから知ったこっちゃないって!? そんなに薄情だったんだセツちゃん、見損なったよ!!」
またあらゆる怨念が実体を伴って浮上。
しかし攻撃へと移行するよりも先に、脳や腹を押さえ始める。
魔女は血眼になって叫ぶ。
「ううん、とっくに見限ったんだったよねぇッ!! このバカげた世界そのものにさぁ!!」
彼らはもはや断末魔でしかない絶叫を上げて、爆発。
囲まれていたリリアーナとセツナは、爆風を浴びて吹き飛ばされる。
しかしリリアーナが風のバリアを張っていたため、直撃を逃れた。
さらに怨念の自爆は、先ほどまでセツナ達が駆けていた下層でも巻き起こる。
深層世界の地表が、壁が、剥がれ落ちていく。
単純な話だ。この空間を破壊すれば、二人も現実世界に戻ることはできない。それは避けたいはずだ。
魔女が差し伸べた手は、単なる脅迫である。
「死にたくないなら、その剣を渡して!!」
魔女とリリアーナ達の間にも光の亀裂が走る。その身自体もノイズが生じ、安定が揺らぐ。
いよいよこの空間が消滅しようとしている。
しかし、リリアーナは剣を放棄しない。
「君が作ろうとしてる未来は間違ってる!!」
「どの口が言うの!! 君こそ、色んな人の命を無駄にしようと──」
「違う!!」
「いっしょだよ!! 私がこの空間で閉じ込められたら、世界はもう終わり!! 何も残らなくなる!! そんなのは君だって止めたいはず!! だから同じリリアーナ同士、力を合わせるべきなんだよ!!」
必死の説得。だが、現世に留まろうとするほうのリリアーナは剣を放さない。
それどころか、セツナと頷き合ってすぐ、共に亀裂を跳び越えてきた。
逆にこちらのレイピアを奪って帰還を果たすつもりだ。魔女はそう予測し、手元に残っている剣を光らせる。
「本当に最期まで……分からず屋だったんだから!!」
飛んできた虫たちを焼き払おうとする。
その判断の失敗をすぐに後悔する。
彼女たちはすぐに剣を奪いに来なかった。風と氷の魔力が、魔女よりも奥へと飛ぶ。
そこにあるのは、怨念の自爆によって生じた床の亀裂……。
既に魔力濃度の塊であり、他の魔力干渉を受けるだけで爆発する危険を孕んでいた。
対応が遅れた魔女は、着火した魔力を防ぐことができず、そのまま受け入れることになる。
「がぁぁぁぁぁッ!?」
爆発を浴び、リリアーナ達が迫る前方に吹き飛ばされた。
刃先だろうと構わず、もう一人の自分に剣を掴まれてしまう。
──やるしかない。
本当は使いたくなかった。でももうこの手段しかない。
せっかくこれだけの魔力があるんだ。なら本当の意味での常識改変だってできる──。
過去への転移は、世界そのものという単位でしか実行できなかった。
しかし、今回は自分自身に限定して実行する。
本来なら、過去からセツナを連れて行こうとした時と同様、時空の歪みによって肉体が崩壊する。
だが、精神のみで活動できている今の状態を利用すればいい。
そして、消すべき対象も決まっている。
魔女は自身の剣を両手で握る。
いま自分の中で残っている全ての魔力を、補助魔導具であるレイピアに注ぎ込む。
この空間での実体を維持できなくなるが、それでよい。
「本当は、君たちの記憶も欲しかったんだけどなぁ……」
リリアーナが狙いに気づいたのか、息を呑む。
「まさか……!? ダメ!!」
旋風を懐へねじ込んできたが、もう遅い。
「お別れだよ! この世界のセツちゃん!! もう一人の私ッ!!」
視覚と聴覚。何かに吸い込まれるような感覚に陥る。
白き空間は黒の空白へ。
無の感覚がしばらく続く。




