8
――ねえ、どうして、そんなに優しくしてくれたの?
好きになってしまったじゃない。
最初はお屋敷で暮らしているだけで満足だった。
でも、ジャムを作っておいしいと言ってくれたあの時から、きっと伯爵様よりも、あなたに食べてもらいたくて、あなたに読んでもらいたくて、必死に母のレシピを何回も読み直していた。
あなたと過ごした時間は、たった半年間だけど、今でも鮮明に思いだせる。
あなたの暖かくて大きな背中も、ジャムをこっそり摘み食いして子供たちに叱られる姿も、私を気遣うように何度も振り返るあなたの姿も、全部覚えてる。
あなたとの思い出のせいで、ずっと苦しいの。
会いたい。
今、会いたかった。
名前を呼んでほしかった。一言だけ、マリエッタと。名前を呼んでほしかった。妹の名前でもなく、伯爵の奥様でもなく、目を見て名前を呼んでほしかった。
あなたは、伯爵様に抱かれた私をどう思うかな。
悲しむかな、それとも普段通り笑って話してくれるのかな。
あなた以外の男の人と手を繋ぎたくない。あなた以外にこの身体を許す気もない。あなた以外に恋をできない。
でも現実には、今から自分は別の人と、初夜を迎えようとしている。
恋を知りたかった。
夜会に行った義妹が、「好きな人ができた」という度に、家にいて実家のことばかり考えていた自分は、ずっと羨ましく思っていた。
でも、こんな思いをするくらいなら、恋なんてしなければよかった。
「ねえ、会いたいよ。エリック……」
コンコンとノックの音が鳴る。
反射的に、マリエッタは窓枠の方に寄っていた。
さらに、続くノックの音。
怖くなって、窓から身を乗り出すようにして、扉から離れた。
強い風が吹いている。
体勢を整えようと、身体をねじった瞬間。
「……あっ!」
最悪のタイミングで、躓いてしまった。
ちょうど窓の枠に近いところにいたせいか、あっという間に、身体が投げ出されていく。
天地がひっくり返る。眼前には、迫り来る地面。
「ッ……!!」
マリエッタは、思わず目を瞑った。
――だけども、いつまで経っても衝撃は訪れなかった。
その代わりに、ぽすっとマリエッタは抱きかかえられていた。
「マリエッタ。そんなに僕との初夜は嫌かい」
「えっ」
恐る恐るマリエッタは自分を抱き抱える男性の姿を見上げた。
華美でなく、それでいて上品な装い。
使用人ではない、伯爵様の服だろう。
でも、その顔は……、長い前髪をかき上げたその眼の色は、見慣れた人のもので。
マリエッタは、混乱しながら尋ねた。
「エリック……?」
「ごめん。実はずっと騙してた。最初は、妹君が来ると思っていたから……」
マリエッタは、寝室に戻って話を聞いていた。
まるでさっきまではひたすら大きく見えたベッドが、今はなぜか、とてもちょうどいい大きさに思える。
「そもそも、最初は契約結婚のつもりだった。おそらく妹君も辺境での暮らしは好きではないだろうから、すぐに別れる、と思っていたんだ。一度でも結婚さえしてしまえば、今後周りから勧められる縁談も断ることができる」
エリックの語る話は、何となく理解できた。
でも、ひとつだけ、どうもわからないことがあった。
「……なんで、私なのでしょう?」
それだけがただ、わからなかった。
「別に私は義妹のように可愛くもなければ、派手なわけでもないですし……特にお金になるようなこともできません」
「いいや、君は美しいよ」
あっさりとエリックが言い放つ。
「そして何よりも優しかった。姿の見えない伯爵にも、いつまでも主人に会わせてくれない使用人にも、そして恵まれない子供たちにも。全てに等しく、優しかった。そういうのは、お金とか地位や名誉では簡単に買えるものではない、と思う」
エリックの眼が、まっすぐにマリエッタを見つめていた。
「どうかな、マリエッタ」
気が付けば、手も、エリックの手に絡みとられている。
「ちょ、ちょっと待ってください。母は『ちゃんと男女の順番は守った方がいい』とも言っていました! 私たちはまだ結婚式もしていませんし……」
混乱しながらマリエッタは何とか反論した。
嬉しくないことはないのだけど、急に照れくさくなってくる。
「大丈夫さ。結婚式なら後で開けばいい。それに、多少順番が前後したところで、母上も笑って許してくださるだろう」
ねえ、マリエッタ、と耳元で囁かれる自分の名前。
答えは言わなくても伝わっていただろう。
――だってマリエッタの耳は、まるで摘み立ての野苺みたいに、真っ赤だったから。




