第三十話 樹の過去①
「樹、将来の夢はあるのかい?」
佐藤樹がまだ幼い子どもだったあるとき、父親から言われた言葉だ。
樹はまだ小学校に上がったばっかりで、夢や目標はあってもそこにたどり着くまでに必要な努力など微塵も知らない。けれども、夢や目標を言うだけあであれば誰にだってできる。かくいう樹もそうだった。
「僕、大きくなったら漫画家になるんだ!」
漫画家になるのに必要な技術や知識は何も知らない樹はそう父親に熱く語って見せた。
それを聞いた父親は大層驚き、感心した。
「漫画家か。それはいい。もう描いているのか?」
樹のことを全肯定した父親は樹が描こうと思っている漫画がどんなものか、興味を唆らずにはいられなかった。
「いいや、まだ。絵があまり上手くないんだ」
そう何の屈託のない顔で樹は豪語した。
自分はまだ子ども、絵なんてそのうち上達する。
そんな現実を知らず楽観視をしている子どもだからできた行動だろう。
「誰しも、みんな最初は上手くないさ。少しずつ練習を重ねてって上手くなっていけばいい。それに樹はまだ子どもだ。将来の目標が決まっているというだけでも偉い。誇っていいぞ」
父親は樹を教師のような口調で、尤もらしいことを述べる。そんな簡単に努力が実らないことくらい、父親とてわかっている。けれども、夢をそう安々と諦めてほしくなかった。
「うん」
佐藤の父親には、学がなかった。高校に進学せず、中学校を卒業するとすぐに地元企業に就職した。
母親は高校は卒業していたものの、大学にはいかず地元企業に就職。そして、職場において彼と恋に落ちた。
「学歴など関係ない。愛があれば不要だ」
そんなテレビか本の中でしか見たことがないような文言を両親の前で平然と言ってのけ、二人は結婚し樹という子どもを授かった。
余裕があるとまでは行かなかったが、慎ましい生活をしていれば何ら経済的に問題はなく三人は幸せな生活を送っていた。
しかし、状況は一変した。アメリカの大手投資銀行が破綻したことを発端にした世界規模の不況が発生した。当初は日本への影響はあまりなかったが、影響が取引相手などに伝播。そして、父親の会社を襲ったのだ。
父親の務めていた地元企業は最初は楽観視していたが、得意先が影響を受け売掛金が回収できず次第に堪えられなくなり倒産した。大勢の社員が路頭に迷うこととなり、父親は失業保険で食いつなぎながら就職活動に勤しんだ。
けれども、学もなく資格もなく技術もない。
「残念ながら、今回はご縁が無かったものでして──」
父親は、その文言を言われるために何度受話器を取ったことだろうか。
どこの会社も採用どころか、リストラに積極的であり父親など書類審査すら通らないこともしばしば。やっとのことで書類審査に受かり、面接のために会社へ行っても採用して何のメリットもない父親に対し会社は渋い顔をするほかなかった。
それでも、父親は樹のことを大切に考えていた。数少ないお金から息子の将来の職業の力になれるならと安くはない画材を大量に買ってあげた。
その後、父親が就職活動を開始して数ヶ月。ようやく無事に派遣社員として建設会社で働けることが決まった。父親にとっては未知の領域で慣れないことも多く年下の上司から叱られることもしばしば。けれども、家に帰ったら笑顔を保ち続け、樹に対しては描いた漫画を真剣に読み父親なりのアドバイスをしてあげた。
「ねえ、お父さん」
父親が樹の描いた漫画を真剣に読んでいると、樹から不安そうな声がかかった。
「どうした。樹」
「僕ね、小学生の漫画コンクールに応募しようと思ってるんだ」
「それはいいな」
受かるかどうかではない。挑戦することが大事だと思えっている父親は、樹の発言に肯定した。
しかし、樹の声は震えている。樹は手を握りしめていた。
「でもね、不安なんだ。みんな絵が上手そうだし」
悩みを聞いた父親は、うんうんと頷き樹に語った。
「そうだな、落ちることもあるかもしれん。でも、樹の代わりに上位入賞を果たした子たちを見返すような漫画を描けばいいだけじゃないか。そうだろ? 樹」
見返せる漫画を描くことなど、並大抵のことではないが当時の樹は、それができる気がしてならなかった。
「うん」
無事に送ったものの、入賞とはならなかった。けれども、樹は落ち込むことなく漫画を書き続けていた。そんなある日のことだった。
「樹! お父さんが、大変だって!」
「え?」
漫画を描いていた樹は、さすがにその言葉で描くのを中止せざるを得なかった。
樹たちは急いで病院へと駆け込んだが、父親と面会することは叶わずただ集中治療室の外から様子を眺めるしかなかった。
聞く所によると、工事現場で事故が発生したようだ。父親は重機の下敷きにあったのだという。幸い、命は助かったものの意識は戻らなかった。
派遣先の企業は責任を認め父親の医療費に関しては全額を負担するとはいったものの、本来あるべきだった収入まではもらえない。保険も入っていなかったため、手元に残ったのは僅かな労災保険と慰謝料のみだ。
さらに家庭は苦しくなるも、樹はそんなことわからなかった。まだ小学生であったし、何より父親は樹に気を使わせないようにと必死に隠してきたのだ。そのため、暇があればひたすら漫画を書く日々。
母親は苛立っていた。ただでさえお金がないというのに、息子は金にならない漫画を延々と描いている。心のゆとりはとうに潰えてしまったのだ。
この苦しい生活を脱したいという思いからだろう、母親は樹に勉強の重要性を教えるようになっていた。
「私は樹に勉強を頑張ってほしいのよ。漫画なんて大人になってからいくらでも描けるわ」
勉強したほうが漫画のネタとしても使える。いろんなことを吹聴した結果、樹は勉強に意欲的になってくれた。幸いにも、樹の成績は決して悪くはない。
「わかった! 僕、いっぱい勉強するよ」
しかし、二人の考えていたことはまるで違ったのだ。
母親が考えていたのは、名門大学に進学し立派な企業に勤めてほしいということ。
一方で、樹が考えていたのは、芸術大学に進学し立派な漫画家として活躍することなのだと。




