夢喰う、生きもの
悪夢という闇の中に、楠丸の黒い服はすうと溶け込むように交わる。
彼はもうずっと、こうしてマナカの手助けをしてきた。いつものことだ、悪夢を持つ人間の夢の中に入り込み、その夢を喰う。
長い長いストローを手に、彼は今日マナカが診た女性患者の夢へ入り込んだ。
「わーお、こりゃ暗い夢っスねぇ……色は俺好みっスけど、味はどうっスかね」
去っていく恋人を捕まえられずに、女性はただひたすら泣いて座り込んでいる。
「さて。せーの」
女性にストローの先を向け、楠丸は一気に悪夢を吸い込んだ。空間の色がどんどん、明るくなっていく。まるでそれは曇り空が晴れていくかのようだった。
うなだれて泣いていた女性が、顔を起こす。顔を上げたその視線の先には、先程去っていったはずの恋人が迎えに来ていた。
楠丸はゆっくりと、ストローを構えなおした。悪夢が晴れると、いつも、こういうふうに、夢の内容が切り替わる。彼はこうやって、もう何人もの【切り替わり】を見てきた。マナカを除いては。
「喰い残しは、ないっスね」
晴れた夢に、自分の黒服は似合わない。仕事が済んだら、すぐに現実へ戻るのが、彼のモットーでもあった。だが、この夜に限っては、そうはいかなかった。
晴れたはずの夢の中、彼の視線のわきを、黒い影がかすめた。
いつから居た? もしかしてはじめからずっと?
その影は少女だった。見たことのないものに、楠丸は一瞬、警戒した。
「誰っスか」
相手はしゃべらなかった。冷ややかな瞳で、楠丸をただ見つめていた。
「喰い残しじゃあ、なさそうっスね?」
にい、と、閉じた口が奇妙に開く。
「へぇ。ホントに喰べるんだな、夢」
「それが仕事っスからねえ。――で、誰っスか、おじょーさん」
楠丸はあっけらかんと言ってみせた。大丈夫。まだこちらに分がある――――
だが彼は気がついていた。少女の冷ややかで大きな瞳が、自分の瞳の色と同じであることに。コイツは違う。同種かどうかはわからないが、少なくとも……
「俺とここでフツーにしゃべってるんだから、ただの人間じゃあ、ないっスね?」
「読めないな。ただのお馬鹿さんなのか真面目なのか」
楠丸は彼女の背後に立ち、ストローを当てた。
「全然質問に答えてないっスよ」
少女はくすりと笑う。
「その質問、答えたら、どうする?」
「そりゃ答えによっちゃあこのまま喰うっスよ。仕事邪魔されるのは好きじゃないんスよねェ俺」
「冗談じゃない。私を喰べれば、たぶんお前がただじゃすまないさ」
そう言って、少女はひらりと跳んだ。とん、と楠丸の肩に乗り、バネにして一気に楠丸から離れる。
「え?」
一瞬、楠丸のストローは間に合わず空を切った。早い。この距離では喰えない。
「なかなか面白かった、夢喰う者」
「待てっ!! お前……何者っスか!」
可能であれば、跳んで追いかけたいところであったが、彼の本能がそれを許さなかった。追うのは危険だと、長年の勘が警鐘を鳴らしていた。
「私の名は狼深。たぶんまた、会えるさ」
「ホントお前ひとの質問に答えないっスね! ちょ、……」
少女はまた、にい、と笑うと、スカートをひらりとひるがえして姿を消した。
「なんなんスかあいつ! もー!」
楠丸は地団駄を踏んだが、時すでに遅し、だった。しかし彼の心の中には、「たぶんまた、会える」その言葉が棘のように引っかかったままだった。




