夢は、喰いきれない
「何……あれ……」
「マナカの……悪夢、そのものじゃないっスかアレ!」
育つにもほどがあるっしょーよ、そう言って楠丸はストローを構えるが、マナカは楠丸が「喰う」のを制した。
イツカが吼えた。
「あなたはいつだって私を見なかった……ほかのひとにばかり目を向けて、いつだって自分のことは後回しで」
吼えるイツカの声が、マナカにはどこか、泣き声に聞こえた。
「イツカ……」
「イツカ様! 影がどんどん大きくなります! 抑えてください!」
狼深が悲鳴にも似た叫びをあげる。
「私は自分を大切にするわ。あなたみたいに、自分を押さえこんで、闇を作ったりしない!」
「だから交代しろってのは、ちょっとワガママじゃないっスかね!?」
イツカはじりじりとマナカに近づく。
マナカは逃げもせず、イツカをまっすぐ見つめた。
「夢の中なら、なにもしなくてすむわ。誰のことも考えなくていいのよ」
奇妙な微笑みを浮かべながら、イツカはマナカの顔を両手で挟んだ。諭しているようにも、命じているようにも聞こえるその声は、マナカそのものだった。
「ねぇ、マナカ。自分のことだけ考えなさい。自分のことだけでいいじゃない」
マナカはそれまでじっと、イツカのするがままに任せていたが、ゆっくりと彼女の手を振りほどいて、はっきりと、言った。
「嫌」
マナカのまっすぐな瞳と、まっすぐな物言いに、獣の影が緩んだ。
「わたしが自分のことだけ考え始めたら、あんたは消えるのよ」
「え…………」
思いもしなかった言葉に、イツカは動揺した。
「わたしがほんとうに自分のことだけしか考えなくなったら、わたしは患者さんのことも、あんたのことも、考えなくなる。消えるわよ。イツカ」
「馬鹿な! イツカ様が消えるなど!」
マナカは狼深にもきっぱりと言い放った。
「あんたも消えるでしょうね」
「何……」
「ふたりともわたしから生まれたものなら、わたしさえ考えることをやめれば、そのうち消えてなくなるわ。でもね、」
「それは、嫌」
その言葉を発したのは、マナカとイツカと、ほぼ同時だった。
消えたくない。それは確かにそうだったが、イツカはそこに別の感情が生まれているのを感じていた。思わぬ言葉を発したことに、イツカは口を押さえる。
「あっ……!?」
「わたしは背なんか向けてない。向ける気もない。いつだって、片隅には誰かがいる。あんたもね、イツカ」
「そんな……そんな、」
「戯れ言だ! イツカ様、吐きますっ!!」
狼深はイツカを守りながら、いまにも夢を吐こうとしていた。
それを見た楠丸が素早く、至近距離にストローを構える。
「待った! まとめていただくっスよっ!!」
ふたりの動きはほぼ同時に思えた。
マナカは瞬間、確かに、楠丸が【吸い込む】音を聞いた。だが、闇はほとんど晴れていないし、まだ気配も重苦しいものだった。
だが――イツカと狼深は、いなかった。
「――消えた?」
「喰った感じは、あんまりなかったッスけど。……いや、でも、結構重たいな……」
楠丸が腹を押さえてストローを杖代わりに使う。
「元には戻れてないわ。イツカたちもいない……全体を喰ってしまわないとだめだということ……? そんなことしたら……」
たぶんなにもかも消える。そして、楠丸の身体もどうなるかわからない。
それだけはほんとうに嫌だ。マナカがそう思ったそのとき、楠丸がいやにはっきりとした声でつぶやいた。
「あ」
「何」
「ヤバい」
「は!?」
「お腹痛いっス」
それだけをようやく言うと、楠丸は震えてうずくまった。
「また!? 一気に詰め込んだせいかしら……しっかりするのよ、楠丸!」
「痛いー」
マナカは楠丸の腹をさする。これに効果があるかどうかなんてわからない、とにかくできることはやらなくてはならない。
「深呼吸して。ゆっくりね」
「ひっひっふー」
「どこで覚えたのそんな呼吸! それじゃ出てきちゃうじゃないの! 止めて! ひっひっふーやめ!!」
「ひっひ」
なおもラマーズ法を繰り返そうとする楠丸に、マナカが本気で怒る。
「楠丸っ!!」
「痛いんスもん、痛いんスもん。お腹、はちきれそうっス」
怒った自分と、とんでもないものを喰べさせてしまった自分とに対する反省で、マナカはいっぱいになった。
「ごめん……ごめんね、楠丸……」
「ごめん、は、いらないっス。俺はマナカの悪夢に惚れ込んだんスよ。最後までちゃんと喰わなきゃ、死んでも死にきれないっス」
「でも……ここから出るには、この夢を全部喰わなきゃ……でも……そうしたら、楠丸が……だけど、ここから出るってことは……」
楠丸がふいに黙る。意識を失ったのかとマナカは焦った。
「楠丸?」
「ほんとうは……ちゃんと、マナカとイツカの区別……ついてたんスよ、俺」
まるでうわごとのように楠丸がつぶやく。適当なんかじゃない、ましてや勘などでもない。たとえ同じ顔をしていても、それがマナカかそうでないかくらい……
「楠丸……?」
「当たり前じゃないっスか……ずっとマナカと一緒にいたんスよ、俺……」
「わたしだって……わたしだって、楠丸と一緒にいるわよ! あんたがいなきゃ、誰が患者さんの悪夢を喰べるのよ、誰がわたしの悪夢を喰べるのよ!」
緩やかに空間がねじれて、イツカと狼深が穏やかな視線でふたりを見つめた。
それがマナカなのだ。いつも誰かのことを思い、いつも誰かのそばにいようとする。自分を顧みないという癖はあるけれど、それでも他人を見捨てたりはしない。
「そのなかには……きっと、私も、いるのね。マナカ」
イツカは静かに微笑んで、つぶやいた。
「マナカ……でも、もしもぜーんぶ喰っちゃって、悪夢がなくなったら、俺……喰うもん……なくなるっスよ……?」
「いくらでも喰べさせてあげる! 言ったでしょ! わたしの悪夢はそんなチャチじゃない!! わたしには楠丸がいなきゃだめなの! 楠丸のことも、イツカのことも、狼深のことも、わたしはみんなのことを考えて、想って、生きていきたいの!」
横たわる楠丸を抱きしめて、マナカは叫んだ。手を離せばいまにも楠丸がかき消えてしまいそうな、そんな不安に駆られた。
「消えないで……みんな消えないで! 誰も消えないで!!」
必死だった。どの道を選択しても、誰かが消えていなくなりそうで、マナカはどうしていいのかわからなかった。
そのときだった。
「マナカ!」
イツカの声がした。ねじれた空間を背に立っているイツカと狼深に、マナカと楠丸は初めて気がついた。
「えっ?! ……イツカ……!」
「狼深!」
「――――ありがとう。私たちは消えない。あなたをずっと見つめながら、夢の中で生きてく。だけど、覚えていて、」
イツカの口が動いて、言葉をつむいだのを、マナカは確かに聞いた。それと同時に空間がねじれ、世界がぐるりと回る。
「イツカ!?」
そうして、マナカの意識は途絶えた。