7:気付いてしまった恋心(1)
セレスティアル王国を出発して、一ヶ月ほど経った。
旅は順調で、特に困ったことも起こらない。アリエッタは少しだけ金銭的な心配をしていたのだが、それも驚くほど余裕があった。
目的地であるジーク皇国は遠く、あと二ヶ月はかかるだろうと言われている。その道中も心配なさそうだと、アリエッタは財布の中身を確かめながら、ほっと胸を撫で下ろした。
王国から出張費として渡された金額は、決して多くはない。それでも財布に余裕がある理由、それは。
「アリエッタ。ほら、今回の報酬」
隊長がじゃらりと硬貨の音を鳴らして、アリエッタの前に小袋を置いた。
「ありがとうございます。これで次の町でも、それなりのところへ宿泊できそうですね」
「そうか。あ、それなら飯は肉をたっぷりと……」
「それは駄目です」
アリエッタはそう言うと、冷ややかに隊長のお腹を見遣る。隊長は三十代後半。この頃、余計な脂肪がついてきたと腹の肉を摘んで嘆くようになったくせに、もう忘れたのか。
「でもな、アリエッタ。魔獣を倒すのも体力が必要で」
「何言ってるんですか。同じように魔獣と戦ってくれているロイは、そんな我が儘は言いませんよ!」
十歳以上年上の上司を叱りつける。急に名前を出されたロイはというと、魔獣と戦った時にできた怪我の手当てをリュカにしてもらっているところだった。アリエッタの叱り声にびくりと体を揺らしていたような気もするが、深くは考えないようにする。
「だ、だが! 今回の報酬も、ロイと私が必死で戦って得たものだろう。少しくらい融通してくれたって良いじゃないか。ロイだってきっと肉が食べたいと思っているはずだ。なあ、ロイ、そうだよな?」
「……俺を巻き込まないで下さい」
うんざりした顔で隊長に言葉を返したロイは、手当てが終わると馬車から出て行ってしまった。
ここは小さな町で、魔獣を倒せるような人間はいない。しかし、最近は魔獣の数が増えたせいで、いろんな場所に被害が出るようになったという。隊長とロイは町の人たちの敵である魔獣を片付けて、そのお礼に報酬としてお金を受け取っているのだ。
こういう町は案外多い。どこの町に立ち寄っても同じような感じで、魔獣討伐を依頼されることになる。
魔獣討伐で得られる報酬。これがアリエッタの握る財布に余裕がある理由だった。
「隊長、私はなにも意地悪で言っている訳ではないんです。そのお腹についた贅肉を心配して言っているんですよ。お金の問題ではないです」
「うう……」
「ちょっと、泣かないで下さいよ! ……少しだけなら、食べても良いですから!」
背中を丸めて悲愴な空気を醸し出す隊長に呆れかえりながらも、アリエッタは譲歩してあげた。その途端、隊長はけろりと普段通りの表情に戻った。
「よし、じゃあ今日の夕飯は、あの肉の看板のところにしよう」
少しだけなら、という部分を都合よく聞き流したらしい。アリエッタはこめかみを押さえ、項垂れる。隊長の肉に対する情熱に、今まで一度も勝てたことがない。たぶん、これからも勝てないと思う。
「おーい、ロイ! 夕飯行くぞー!」
馬車の外にいたロイにひと声かけると、隊長は御者台にひらりと飛び乗った。そして、肉の看板の食堂を目指して、馬車を走らせ始める。
ロイは置いていかれないように、素早く隊長の隣に乗り込んだ。
「馬車の中に乗れば良いのに」
隊長が御者台へ腰を下ろしたロイに、にやりと笑いかける。
「アリエッタの顔を見るのは、夜だけで充分です」
「相変わらず捻くれてるな、お前」
「ほっといて下さい」
ロイはちらりと馬車の中のアリエッタに目を遣り、ひとつ息を吐いた。
アリエッタはというと、そんなロイの素振りに気付くこともなく、食事代の予算をいくらにしようかと財布と睨めっこをしていた。半透明の身体で財布を掴むには、相変わらず唸らないと駄目なようだ。
「ふぬぬーっ」
間抜けな声を中で響かせながら、馬車はカラカラと音を立てて町の通りを駆け抜けた。
肉の看板を掲げた食堂からは、香ばしい匂いが漂ってきていた。少し古臭い扉が、軋むような音を鳴らして開けられる。
「いらっしゃい!」
恰幅の良い店主の男がにこりと笑って、アリエッタたちを招き入れる。ぶわっとおいしそうな香りが広がって、アリエッタは思わずうっとりと目を細めた。
「これは、おいしい……」
ぽつりとそう漏らしたアリエッタに、隊長が得意顔で頷いた。
「そうだろう。アリエッタも満足できるだろうと思っていたよ」
奥の方にある四人席のテーブルに案内され、椅子に座る。アリエッタはロイの隣だ。ロイはぴくりと眉を動かしたが、黙って大人しくしている。
旅の最初の頃は、アリエッタが隣に座ることに抵抗していたロイ。しかし、一度大柄な隊長の隣になった時、それはそれは食べにくい思いをしたらしい。気付けば、大人しくアリエッタの隣に座るようになった。
大柄な隊長の隣で、普通にご飯を食べることができるのはリュカだけである。肉に夢中になった隊長の腕を器用に避けるリュカ。半透明のアリエッタにも無理な芸当である。
ロイの隣が一番落ち着く。アリエッタはふわりと嬉しそうに笑った。
注文を聞きに来た店員が、半透明のアリエッタを二度見した。こういう反応も、旅をしていればよくあることで、もう見慣れてしまった。特殊第三部隊の面々は店員の反応を気にすることなく、どんどん注文する。
注文を終えてしばらくすると、テーブルの上は料理でいっぱいになった。主に肉料理だ。アリエッタは唸りながら、サラダの皿を隊長の前に置く。そして、肉料理はロイの方へと寄せてやる。
「アリエッタ。私は肉が食べたいんだよ」
「そのサラダを食べ終わるまで、こっちに手を出したら駄目ですよ」
ぎろりと睨むと、隊長は肩を竦めてサラダをつつき始めた。これもいつも通りの光景である。
「アリエッタ、これとかどう? 結構いけるんじゃない?」
リュカがずいっと濃い色のソースがかかったステーキを、アリエッタの前に差し出してきた。アリエッタは、すん、と鼻を鳴らして香ばしい匂いを嗅ぐ。
「さすがリュカね。すごくおいしい」
アリエッタは半透明になってから、食べ物を口にしていない。というか、食べることができなくなったのだ。しかし、匂いはよく分かる。分かるどころか、匂いでお腹が満たされるようになった。
そんな状態なので、実は、アリエッタは食堂の前で匂いを嗅ぐだけで満足できる。しかし、それでは無銭飲食をしているような気がして、お店の人に申し訳ない。だから、食べられなくても隊長たちと一緒に店に入るようにしている。奇妙な目で見られるのは少し悲しいが、悪いことをしている訳ではないので、堂々としていようと思う。