17:生きる意味(5)
五年前。
微かな月明かりが照らす小道を、十六歳のアリエッタは必死で駆けていた。
魔獣の大量発生。アリエッタのいた小さな王国は、瞬く間に魔獣の群れに飲み込まれていった。王女として側近や護衛に守られて危地を脱したが、気が付けば周りには誰もいなくなっていた。
一人きりで走るのは心細くて、恐くて、今にも泣きそうになる。込み上げてくる涙と嗚咽を抑え、痛む足を叱咤して暗闇を駆け抜ける。
前方にゆらりと黒い影が現れた。アリエッタは小さく悲鳴をあげた。それは紛れもなく、小さな王国を飲み込んでいった魔獣だった。
(もう、駄目ね……)
力が抜けて、その場にへたり込む。命を賭して逃がしてくれた人たちの顔が思い浮かぶ。
(ごめんなさい)
魔獣の牙がギラリときらめいて、アリエッタに襲い掛かってくる。固く目を閉じ、覚悟を決めた。
――キンと高い音が響く。
続いて、苦悶に満ちた魔獣の咆哮。
痛みが一向に来る気配がないので、アリエッタは恐る恐る目を開けた。
「大丈夫か?」
目の前に、月明かりに照らされた少年の姿があった。明るい青の髪の毛は、魔獣と戦ったせいで汚れてしまっている。少年は掠れ声でアリエッタを気遣う。
「立てるか? とりあえずここはまだ危険だ。町まで行かないと」
少年に倒されたばかりの魔獣は、まだ苦しそうに暴れている。アリエッタは青ざめながらも、こくりと頷いた。
「行きましょう」
少年はアリエッタよりも幼く見える。それなのに殺伐とした空気をまとっている。十代前半くらいの少年には、似つかわしくない姿だった。
少年と並んで町に向かって進む。一人きりでなくなったことにアリエッタは妙な安心感を覚えた。
「どうして貴方は一人で行動していたの?」
隣を歩く少年に、なんとなく質問をしてみる。少年は目線を前に向けたまま、何の感情もないかのように、軽く息を吐いた。
「生きている意味が、よく分からないから」
曖昧な答えに、アリエッタはきょとんとする。
「俺はきっと、生きていない方が良いんだ」
命なんて惜しくない、と少年が呟く。一人で行動して、魔獣に襲われ、その命を落としても構わない。そんな風に少年は語る。
「馬鹿なこと言わないで! 生きている方が良いに決まっているでしょう! 何に絶望してそんな風に言うのかなんて知らないけど、生きていれば何とかなるでしょう! 貴方が生きることを望んでいる人が、きっとどこかにいるはずなんだから!」
「あんたなんかに、俺の何が分かるんだ」
アリエッタは冷めきった瞳をしている少年と、正面から向き合う。
「生きている意味が分からないというのなら、私がそれをあげましょう。貴方の手はさっき私を救ってくれた。きっと、これからも貴方の手は誰かを救い続ける。貴方を必要とする人は、この先どんどん現れるはず」
「……買いかぶりだ」
「そんなことないわ。実際に今、私は貴方を必要としている。一緒にいてくれて、本当に助かっているのよ。必要としてくれる人がいる限り、貴方は生きていないと駄目。それが、貴方の生きる意味」
少年の青い瞳が潤んだ。それから湿った声で呟く。
「……俺が、罪人の子だとしても?」
アリエッタは一瞬息を止めたが、すぐに迷いなく頷く。
「それを言ったら私も罪人の子よ。私の親や兄弟は、罪人として弑されたから。でも、だから何だというの? 私は私を必要としてくれる人のために生きてきたし、これからも生き続けていくわ」
国が滅び、王女でなくなったとしても。心優しい側近や護衛が守ってくれた大切な命だ。
「……さっき、魔獣にあっさりやられそうになっていたくせに?」
「あれは仕方ないでしょう! 私、戦えないんだから! 結果として助かったんだし、問題ないわよ!」
膨れっ面で反論すると、少年は微かに笑った。
「分かった。とりあえず、生きてみる」
「うん。そうしてちょうだい。……死にたがりの困ったさん」
優しい風が、二人の間を吹き抜けていく。アリエッタの紺色の髪がふわりと踊った。白い月がその髪を照らし、闇の中できらきらと光を散らした。
明るい青の瞳を持つ少年は、その幻想的な光景に釘付けになっていた。こくりと喉が鳴る。この瞬間、確かに少年の運命は変わった。
少年が照れ臭そうに、その表情を緩めた。アリエッタも少年の柔らかい表情に釣られてにこりと笑う。
つい先程まで冷めきっていた明るい青の瞳。もう冷たさはどこにも感じられはしない。その瞳の色は、まるで――……。
*
「もしかして、あの時の……」
「そうよ。やっと思い出してくれた? とは言っても、あの時の少年が貴方だという確証はなかったし、このまま黙っていようかと思っていたんだけど」
アリエッタはロイをまっすぐ見つめた。
「第三特殊部隊に貴方が来てくれた時、五年前の話をしようかと少し悩んだわ。でも、貴方は私のことを何も覚えてはいないようだったから」
アリエッタが「ミンブルー地方に来たことがあるか」と問うた時、「覚えていない」と返された。だから、それ以上何も言えなくなった。
しかしその後、相変わらず単独行動をして、その身を危険に晒すロイを見ていると、あの時の少年の姿が重なって見えた。ロイが何も覚えていなかったとしても、ロイがあの時の少年であるならば、彼は間違いなくアリエッタの恩人なのである。
恩を返すためにも、傍にいようと思った。まあ精神体になってしまったり、ロイのことを好きになってしまったり、予想外のことは多々起きてしまったが。
「さっき月明かりの下で戦う貴方を見て、やっぱり間違いないと思ったの。貴方は私のことを忘れていたみたいだけど……」
「忘れてなんかいない!」
ロイの大きな声に、アリエッタはびくりと体を揺らした。続いて、ロイの後方に目を遣り、はっと息を呑む。そこには、黒い獣の影。
「魔獣、なの……?」
「逃げましょう。話は後で」
ロイがさっとアリエッタの手を取った。なぜかその手は透けることなく、しっかりと掴まれている。アリエッタの胸が、どきりと一際大きな音を立てた。




