12:気付いてしまった恋心(6)
背伸びをして、手を精一杯上へと伸ばす。手のひらが闇から抜け出た感覚がした。
早くヒルダに気付いてもらって、ロイを呼んできてもらわないと。二度寝のせいで、いつも通りの時間でははいだろうから、すぐには気付いてもらえないだろうなと少し落ち込む。いつもより大袈裟にアピールした方が良いだろうか。
そんなことを考えながら、手のひらをぱたぱた振ってみた。すると。
「へ?」
唐突にぎゅっと手のひらが握られた。温かい手がアリエッタの身体をぐいぐい引っ張りあげる。闇の中から地上へと全身が浮き上がっていく。
「遅いですよ」
地上に出てきたアリエッタは、不機嫌そうに眉を顰めたロイに、開口一番叱られた。
「……ロイ?」
「今、何時だと思っているんですか?」
冷ややかな目線に、アリエッタはたじろぐ。ふと脳裏に『氷の戦鬼』というロイの二つ名が甦る。明るい青の瞳は静かにアリエッタを捕らえており、凍るような空気が部屋に満ちていく。
「えっと……ごめんなさい?」
居心地の悪さをごまかすようにへらりと笑ってみせるが、残念ながらロイの醸し出す冷たい空気を和らげることはできなかった。
「……消えてしまったかと、思いました」
絞り出すように、ロイが呟いた。怒るというより泣く寸前のような声色に、アリエッタは驚いてしまう。
そんなに、心配してくれていたのか。
メリッサという美女との再会を経て、アリエッタの存在なんて忘れていても仕方ないと思っていた。しかし、ロイはきちんと覚えていてくれたのだ。
時計を確認すると、もう昼前だった。すぐに手を引っ張りあげてくれたことから、ずっとアリエッタのために何時間も待機してくれていたと分かる。
いつまでも出てこない手のひらを、どんな気持ちでロイは待っていてくれたのだろうか。
「ロイ、ごめんね。ごめんなさい……」
目の前にいる青年が、急に不安がる子どものように見えた。アリエッタはそっとロイの背中に手を回し、抱き締めるようにその身体を囲う。
半透明なアリエッタの腕は、ロイの身体を擦り抜けてしまう。擦り抜けてしまっている部分は、やはり少し変な感じがする。しかし、アリエッタはその感覚をじっと我慢して、ロイを抱き締め続けた。
「……もう、大丈夫です」
しばらくすると、ロイがアリエッタの腕の中から逃れるように後ずさった。気弱なところを見せたのが恥ずかしかったのか、頬は少し赤くなっている。
「ロイ、ありがとうね。私のこと、忘れないでいてくれて」
「忘れる訳がないでしょう。貴女がそうなったのは、俺のせいなんですから」
ふいと顔を背けるロイに、アリエッタはくすくすと笑う。
「ロイのせいではないわよ。私が命を狙われていることをうっかり忘れていたのが原因だもの。それに、今の状態もなかなか面白くて、悪くないって思っているのよ?」
ロイを元気づけようと、わざと明るい口調でおどけてみせる。
「ほら、壁を擦り抜けるのも余裕だし! 隠れんぼとか最強だと思うの。そうだ、マリア皇女と隠れんぼで遊んでみようかしら!」
「……本当に貴女は、変な人ですよね」
ロイは呆れたような顔でそう言った後、ふっと笑みを零した。
開いた窓から柔らかい風が吹き込み、白いカーテンがふわりと舞う。差し込む太陽の光が木の床を照らし、部屋全体を明るい世界へと変えていく。
ロイの明るい青色の髪の毛が風に揺れ、きらきらと輝いた。先程まで冷たい印象だった瞳の色も、今はどこか温かく、柔らかい印象へと変化していた。
(やっぱり、ロイの瞳はすごく綺麗……)
どきどきと高鳴る胸を押さえ、じっとその瞳を見つめる。ロイもアリエッタの瞳を黙って見つめ返してきた。
「あの、俺……」
ロイが何かを言いかけた、その時。
「あ、やっと起きたのね!」
ヒルダが勢いよく部屋に入ってきた。アリエッタとロイは慌てて目を逸らし、お互いに少し距離をとる。
「寝坊するなんて、気が緩みすぎよ! 第三特殊部隊の人間としての自覚を持ちなさいよ!」
「いや、ヒルダさんは第三特殊部隊の人間じゃないでしょう……」
腰に手を当てて偉そうなポーズを決めるヒルダに、アリエッタは冷静に突っ込んだ。
「そろそろお昼ご飯の時間よ! さあ、食堂へ行きましょう! 隊長様が待っているわ!」
今にもスキップを始めそうなほど軽い足取りで、ヒルダが急き立てる。
さっさと食堂に向かって歩いていくヒルダの後を慌てて追う。隊長やリュカにも心配をかけてしまったに違いない。早く顔を見せて、安心させてあげなくては。
心持ち急いで廊下を歩く。ふと振り返ると、ロイの姿が思ったよりすぐ傍にあって驚いた。
「貴女は目を離すとすぐにいなくなりますから」
ロイが言い訳をするようにぼそぼそと言った。
その言葉は、「もう目を離さない」「ずっと傍にいる」という風に聞こえた。
ぱっとアリエッタの顔が赤く染まる。その顔を見られないように、くるりと前に向き直って歩く速度を上げる。
心臓の音がやたら煩い。
自分の方が年上だから、なんて言っている場合ではないなと思った。
ロイの気持ちが、あの美女に向かっていたとしても。王国に戻れば、この恋心が認めてもらえないと分かっていても。この先ずっと半透明のままで、まともに触れ合うことさえできない状態が続いたとしても。
アリエッタはやっぱりロイのことが好きなのだ。異性として、本気で好きになってしまった。
なんてことだ。気持ちをごまかすなんて、もう無理だ。完敗だ。
朝、いつもロイに掴まれる右の手のひらが、じわりと熱を持ったように感じた。
(ロイ、貴方の手はいつだって私を救ってくれる)
アリエッタは小さく息を吐いて、その金の瞳を物憂げに伏せた。これからどうやってロイと接していくのが正解なのか。
頬は熱いまま、どきどきと鳴り続ける胸にそっと手を添える。こんなの、本当に困る。なんだか泣きそうになる。
窓の外は今日も気持ちよく晴れ渡っている。アリエッタの心とは正反対だ。
それがなんとなく悔しくなって、アリエッタはきゅっと口を引き結んだ。




