9:気付いてしまった恋心(3)
馬車がある食堂の前で止まった。
「アリエッタ。今日の夕飯はここでどうだ?」
隊長が御者台から声を掛けてくる。アリエッタは食堂の看板を見て、渋い顔をしてしまう。
「お肉料理の店じゃないですか。駄目ですよ」
「しかしな、良い匂いだろう? アリエッタも満足できる最高な店だと思うんだ。それに、きっとヒルダも肉が食べたいはずだ!」
隊長がヒルダの名前を出すと、ヒルダが目を輝かせた。
「ええ! お肉最高です、隊長様!」
「ちょっと、ヒルダさん。簡単に乗せられないで下さいよ。隊長のお腹はどんどん脂肪がついてきているんですよ? ゴムボールみたいな肥満体になっちゃったらどうするんですか」
「それでも、隊長様への想いは変わらないわ!」
アリエッタはがっくりと項垂れた。ヒルダの盲目的な愛に勝てる気がしない。
「よし、じゃあここで決まりだな」
満足そうな隊長の声が聞こえた。確かに肉の焼ける良い匂いが漂っていて、アリエッタもごくりと喉を鳴らしてしまう。諦めて馬車を降りると、御者台にいるロイと目が合った。
明るい青の瞳は呆れの色を含んでおり、ひやりとした印象を与えてくる。
なるほど、これは氷の瞳だ。彼の二つ名に『氷』という言葉が入っている理由が、少しだけ分かってしまったアリエッタだった。
「そろそろジーク皇国に着くのよね。どんな国なのかしら、ちょっと楽しみ」
宿屋のベッドの上で大きく伸びをしながら、ロイに話し掛ける。窓の外は夜の闇に飲まれ、ぽつぽつとランプの明かりが見えていた。
しばらく不機嫌なロイに同室を拒否されていたアリエッタだったが、朝が来るたびに大騒ぎをしていたら、そのうち面倒になったのか、また一緒の部屋で寝させてもらえるようになった。助かった。
「……貴女は、どうして」
「ん? なに?」
「いや、何でもないです」
ロイはアリエッタから目を逸らし、窓際に立った。その瞳に外のランプの光がチラチラと映りこんでいる。
(綺麗……)
ロイの横顔をぼんやりと眺めながら、アリエッタは胸の前でぎゅっと手を握り締めた。
「知ってますか? セレスティアル王国と違って、ジーク皇国やその近隣の国々では、年上女性との恋愛も至って普通のことなんです」
ロイが窓の外に目を遣ったまま、独り言のように呟く。その表情からは何の感情も読み取れない。
「ジーク皇国に着いたら、こういうのはもう止めましょう。その気がなくとも、将来を約束した仲だと思われてしまう」
「……ロイ? 急にどうしたの?」
ロイの目の端がきらりと光ったような気がして、アリエッタは思わず立ち上がってロイの傍に寄った。ロイは窓の外から視線を外さず、小さく息を吐いた。そして、ゆっくりと口を開く。
「嘘、なんでしょう?」
「何が?」
「俺のことが、好き、だなんて」
アリエッタの頬が、急に熱を持つ。
「そ、それはっ」
「まるで、俺のことが本当に好きであるかのように振る舞うのも止めて下さい。でないと、俺は……」
アリエッタの赤くなった頬に、ロイの指が近付く。しかし、その指は触れることなく擦り抜ける。ぞわりと奇妙な感覚が襲ってきて、アリエッタは小さく震えた。
「勘違いしてしまいそうです」
どきん、と心臓が跳ねた。まだ砦にいた頃に少しだけ見た、艶めいたロイの仕草を思い出す。あの頃よりも数段色気が増している気がした。
今夜のロイは、なにかがおかしい。いつも一定の距離を空けて接してくるのに、やたら近い。
「……私は別に、勘違いさせるような振る舞いなんて」
「俺がいないと意味がないと言ってみたり、朝は俺の手しか掴めないなんて言ってみたり。最近は陰でこそこそ俺の情報を集めているんですよね?」
「え? あの、それは、その……」
アリエッタはどう答えて良いのか分からなくなって慌てる。
ただの成り行きにすぎない、と言うべきか。ヒルダの暴走の結果というべきか。でも、ロイのことを知って、喜ぶ感情がアリエッタの中にあるのも事実だ。
視線を彷徨わせるアリエッタをちらりと横目で見たロイは、自嘲するような笑みを浮かべた。
「すみません。故郷が近いもので……少し感傷的になってしまいました。気にしないで下さい」
「え……」
ロイは二つ並んだベッドの片方に寝転がり、さっと布団を被ってしまった。大袈裟なくらい端に寄っているのが少し滑稽に思える。
ロイの故郷が近い。一体それはどこなんだろう。
そう考えて、アリエッタは突然気付いてしまう。自分がロイのことをもっと知りたいと思っていることに。
正直に言ってしまえば、アリエッタははじめからロイのことをかなり好意的に考えている。ヒルダに好きな人は誰だと聞かれて、一番に思い付くくらいには心を寄せている。
しかし、異性としてどうなのかと改めて聞かれると、微妙なのである。ずっと年下男性は恋愛対象にならないと思い込んできたため、好きだと認めることが恐い。
朝、引っ張りあげてくれるその手が頼もしくて、いつもドキドキしているのに。瞳の色が綺麗で、しょっちゅう見惚れているのに。気が付けば、旅の道中ずっと、ロイの姿を目で追ってしまっているのに。
そんな自分に気が付いているのに。年上のくせに、と笑われるのが恐くて。
自分の気持ちに無理矢理蓋をしてしまう。
そのくせ、ロイが年上女性との恋愛を普通だと考える国の出身であれば、アリエッタのこともそういう対象として見てくれるのかな、なんて。そんな期待をしてしまう。
大丈夫、まだ、本気で好きな訳じゃないから。いつだって、引き返せる。
鼻の奥がツンとしたのをごまかすように、すんと鼻を啜って天を仰ぐ。窓の外から入ってくるランプの橙色の光が、天井を微かに照らしていた。




