飛び降りは手を繋いで
普段、鍵が掛かっている屋上に通じる扉は、少し口を開け夏の熱い空気をそっと吹き出して私を誘っていた。
思ったより大きな扉の蝶番が軋む音に首を竦め、普段人が入らないコンクリートの広場からの景色を眺める。
山側に移転したまだ新しいこの病院は少し高台に建っており、あまり良い思いでのない生まれ育った街を一望できた。
「下に人が来ないのは・・・」
私はよくある理由で今から飛び降りるのだが、巻き添えは出したくない。
だだっ広い屋上を廻る、永遠の自由との境を示す柵のスキマから、出入り口や窓の無い壁を選んだ。
近くに屋外用の蛇口まである。
生ゴミを片付けるのにちょうど良い。
私は散らかすばかりで決して後始末には参加でき無い。
このぐらいの配慮はしなくては。
後は柵を越えるのに台が欲しい。
面倒くさいが一回戻って椅子でも持ってくるかと振り向いた私の目に、ちょうど良いベンチが写った。
公園にあるような背もたれつきのベンチは、柵の前に置けば、座面、背もたれ、柵、自由と私の最後の何歩かをサポートしてくれるだろう。まあ、ちょっとは柵をよじ登る必要があるが。
問題なのはベンチに、こっちを興味深げに見ているイケメンが座っていることだ。
「すいません。飛び降りたいのでそのベンチを貸してもらえませんか?」
言えるか。完全にアホの子しか言わないセリフだ。
イケメンは私を取り押さえるか、人を呼ぶだろう。
この病院は閉鎖病棟もあったはず。
先に希望の「メ」も見えない人生をこれ以上無理矢理歩かされたくはない。
「いい天気ですね」
宗教と野球と政治の話はするな。
困ったら天気。
私を連れて行くのに失敗した母が、生前気まぐれに話かけてくれた優しい言葉が唇から出た。
「ええ、夏らしい空です」
低いバリトンのボイスが私の鼓膜を震わせる。
声までイケメンか。
彼の声って子宮に響くのと言っていたクラスメートを笑ったのはいつだっただろう。
今なら頷けそうだ。
「お、お散歩ですか?」
私はバカか。屋上でベンチに座ってる人に散歩は無いだろう。もっと気の効いた事が言いたい。
「そうです。あまりに世界が美しくて。でも疲れて休んでたんです。
私のトンチンカンなセリフをやんわりと受け止めて、イケメンはウインクでもしそうな微笑みを浮かべた。
「タチハナさんは気分転換?」
イケメンがベンチの肘おきにかけてあった白い布を身に纏う。
イケメンはケーシーを着た若い医者になった。
「?」
私は自分の今日の装いをチェックする。
どこにも名前なんか書いてないはずだ。
「不思議かい?」
イタズラが成功してしてやったりと語っていたイケメン顔がにわかに曇る。
「自殺はおすすめできない」
今、コイツは私になぜを言い当てを言ったのか?
混乱した私の口は身に染み付いた母の残りを男に吐き出した。
「お前、なんかに、何がわかる」
母が毎日、毎晩、毎朝、私に、いって、威って、言って、逝った言葉。
私が絶対に言いたくないと心に決めていた言葉は、吐き出した勢いのまま男の耳を汚しただろう。
「タチハナ キョウカ、母親の返しきれなかった父の借金を苦に、7月×日、入院先の病院で投身自殺。享年二十才。身寄りが亡く遺骨は無理心中しようとした母親と共に無縁墓に納められる」
スラリスラリと男の口は私を知っていることを先を説明する。
「あ、え? 何で、何を? 何時?」
先から混乱がおさまらない。
考えが日本語らない。
何でコイツは私のすることをわかってどうしたいのだ?
「ここに座って」
男の形をした何かがベンチの空きスペースをポンポンと叩いている。
座れない。近づけない。
コイツはなんだ?
「死ぬ予定だろ。もう殆ど怖いものは無いはずなんだけど」
さっきまでイケメンに見えていた顔が良くできた作り物に見える。
「そのままでもいいよ。倒れそうになったらそのまま座って」
声だけは変わらない。
私に笑いかけるコレはなんだ?
「自分は人間だよ。君の先輩」
膝に肘をついて手を組んで、祈るような格好になったヒトガタは音を出した。
「先輩?」
小、中、高校生活を思い出す。
一学年違えば知り合いなんて殆どいない。
いや、でもこんなのはいなかった。
「学校じゃ無いよ。自殺の先輩さ」
ヒトガタは溜め息を吐いた。
「幽霊?」
私は視線を下げてヒトガタの履いている、ブランド品らしい高そうな靴を確認する。
「いや、今は生身の普通の人間。ほら」
右手を差し出してきたが無視だ。
不気味すぎる。触れるか。
「飛び降りた後、自殺した後ってどうなると思う?」
「飛び散って生ゴミになって迷惑をかける」
「ああ! そうだね。そうか。自分はそこまで考えなかったよ。まいったな。迷惑、うん迷惑だよな」
ヒトガタは自分の後頭部をかいた。
ちょっと人間ぽい。
「自分はね、そこで終わりだと思ってたんだ。テレビのコンセントを抜く感じ? プツンと真っ暗になって終わり」
男が両膝に手を乗せる。
「でも違った」
「違う?」
私もそう思っていた。
そうでなければ死後の世界とやらがあるのか。
勘弁してくれ。
死んで終わり、それでいいじゃないか。
異世界とか転生とかニューゲームなんかいらない。
「戻るんだよ」
男がほとほと困ったと項垂れる。
「戻る?」
私は身を乗り出した。
「ああ、飛び降りるだろ? そしたら前の日の起きた所に戻るんだ」
「一日時間が戻るって事?」
「ああ、そうさ」
「そのまま、また一日を過ごして飛び降りるの?」
永遠に飛び降りを繰り返す。
自殺者に相応しい末路か。
「いや、普通に過ごすこともできるよ。寝たら前の日に戻るけど。自分は三日連続飛び降りた後やめたんだ」
「三日連続?」
「明後日から。飛び降りて戻って、飛び降りて戻って、飛び降りて戻って。水曜と火曜と月曜に飛び降りる」
頭が上手くつぶれないとキツいんだ。と男は顔をしかめる。
「昨日、いや明日? は普通に過ごして寝たんだ。でも今日の朝に起きた。たぶん産まれる前まで戻るんだろうな」
また家族に会えるけどと、さびしそうに笑った若い医者は私に小さな紙をくれた。
「だから、初心にかえって人を助ける事にしたんだ。君が一人目。勝馬投票券。今日の最終レース。万馬券だよ」
額面は五千円、イケメンの話が本当なら五千万になる。
借金を二回返してもお釣りがくる。
「いいの?」
「ああ、自分が持ってても使えないんだ。戻るから」
イケメンは立ち上がって屋上の入り口に向かって歩き出した。
「あの、お名前は?」
産まれて初めて。人に優しくされた。
この人に何かしてあげたい。
「明後日以降、嫌でも耳にするよ。新築の病院で飛び降りたバカな医者ってね」
ヒラヒラと手を振って、貴方は私を屋上に残して行った。
あれから三年。
貴方は今、私の隣で寝ている。
月曜に名前を確認して、火曜日に間に合わなくて、水曜日にあの場所で捕まえた。
月曜と火曜の死体は次の日の朝に忽然と消えて、病院の七不思議になっている。
水曜日に人を救えない事に絶望した貴方を捕まえた私は、励まして、支えて、一緒に歩いた。
「キョウコ。まだ起きてるの?」
聞き慣れたバリトンはやっぱり私に響く。お腹に変な影響がなきゃいいけど。
「いいえ、寝てるわ」
「嘘つき。チュッ」
この子が生まれて、独り立ちして私達が皺くちゃのお婆ちゃんとお爺ちゃんになったら、またあの屋上に行こうね。
貴方の頼りがいのある背中を私は押すの。
私の方が若いもの。ちゃんとできるわ。
今の貴方も素敵だけど、本当の貴方はあの日の貴方。
貴方は元通り、戻りながらたくさんの人を救うのよ。
私は必ず貴方を支えるわ。
私達が出会う前でも。
二人手を繋いで他の人の二倍幸せになりましょう。
生が二人を別つまで。
楽しみね、貴方。