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カーテンを開けると、まぶしい冬晴れの一日が始まろうとしていた。二度寝する気にもなれなくて、たまには外で朝の日差しを浴びようと着替えて部屋を出た。
居間を覗いてみると今朝は三人がそろっていて、口々におはようを言ってくれる。玄関から庭に出てみると冷たい空気がぴりりと心地よく、身体の輪郭をはっきりと感じた。
「講義もないのにこんな時間に起きてくるなんて珍しいじゃない」
カラカラと玄関が開き、智恵が出てきた。
「あ、もしかしてどきどきして眠れなかった?」
茶化すような口ぶりに、強くは否定できなかった。
「昨日までは、ただ満開の御台桜を見たい一心だったんだよ。でも夜中に布団の中で考えてたら、俺が今からやることに桜祭りの成功とか、地域の人の気持ちとかもかかっているような気がして急に緊張してきてさ」
智恵が首をかしげると、光を透かす細い髪の毛が流れるようにサラサラと肩から落ちた。
「自分を買いかぶりすぎじゃない?」
「え?」
智恵はさくさくと落ち葉を踏みしめて庭に入ると、一本のりんごの木に触れた。知恵の実をつけるこの木こそ、本来智恵の精神が宿っているもの。本体と言っても差し支えないだろう。
「凍てつくような風雪も、刺すような強い日差しも、耐えられなければそこで終わり。例え苛酷な環境に芽吹いても、私達はそうやって覚悟を決めて生きていくの。御台桜がここでまた花を咲かすのか、それともこのまま静かに朽ちるのかどちらを選ぶのかわからないけど、今の段階でそれを左右できるのは御台桜自身しかいない。誰かが口を出して無理やり従わせることなんてできないんだから、できたらラッキーぐらいに思っておいた方がいいわ」
我が身の梢をまっすぐに見つめるその横顔は普通の女の子にしか見えなくて、いつにも増して不思議な気持ちになる。
「智恵」
「ん?」
「励ましてくれてありがとう」
智恵は照れたようにぷいっとそっぽを向いた。
「別にそんなつもりじゃなかったけど……まぁ、いいってことよ」
人が少なくなるであろうお昼時に御台桜の前に集合することにして、智恵と分かれて家を出た。俺が向かうのは、商店街の吉備堂だ。
若い職人さんは約束どおり店の前で待っていてくれた。私服を着ているとやはり同い年くらいに見えるので、きっと和菓子職人としてはかなり若い部類に入るだろう。
「お仕事があるのにすみません」
ぺこりと頭を下げた俺に、いえいえとんでもないと両手を振った。
「今日は店主がいるのでお店は大丈夫です。それに、御台桜のことでと言われたら気になりますし」
ちらりと店内を見ると、いつものおっちゃんが手を振っている……が、その笑顔に含みがあるように見えるのは気のせいだろうか。
「じゃあ行きましょうか」
ガラス越しからおっちゃんに一礼すると、二人で敬葉寺へ歩き出した。
「大学一年生っていうのは昨日聞いたけど、一人暮らしですか?」
「うん、まぁそんなもんです。もう少しで一年たちますけど、この辺はまだ知らないことばっかりです」
「そっか。一人で知らない世界に旅立つって、ちょっと憧れます。まぁ和菓子の世界も知らないことだらけなんですど」
そう言って明るく笑うと、転がっていた松ぼっくりを蹴飛ばした。よく乾いた松ぼっくりはカラカラと音を立てて不規則に転がり、側溝に落ちた。
「ところで、これから会う樹木医さんってどんな人ですか?」
十分イメトレを重ねた結果を発揮する機会、待ってましたとばかりに説明した。
「僕の地元ですごく有名な桜専門の樹木医なんです。なんとか頼み込んで来てもらったんですけど、すごく気難しいお年寄りで。御台桜に対してすごい熱意を持った人を連れてきたら、働いてやらんこともないって感じなんですよ」
少し心が痛んだが、まさかこの老人が御台桜ご本人ですと言って対面してもらうわけにもいかないので致し方あるまい。
そうこう言っている間に、敬葉寺に到着した。