剣狂、巌流、魂魄、エルフ。の巻 九
だが、二人からしてみれば、ハルトロンの動きはこの上なく緩慢であった。
「なめるな」
景虎が言い放った瞬間、光の直線が五本、ハルトロンの全身を走った。
その内三本は、物干し竿の軌跡であった。
ツバメは、背に負った鞘から抜きざまに振り下ろす形で一閃。
切り返して突き上げるように一閃。
更に、突き刺さった竿を抜きざまに横に一閃。
一瞬のうちに三本の斬撃を見舞いつつ、音を置き去りにした残心の後には血糊がしずくほども残っていない。
対して、景虎は二本と数では劣るが、一撃目の早さと過程の奇妙さでは彼に軍配が上がる。彼は目にも留まらぬ抜刀でハルトロンの胴を一薙ぎにすると、二撃目を加えるつもりであったにも関わらず、納刀した。
これが、『阿刀現世流』の特徴であり強みであり、もっとも非合理的な点であった。
納刀状態に始まり、一度の斬撃につき必ず納刀状態へと回帰する。景虎はその法則に内在する深遠な哲学を理解してはいないものの、強みを体現している。即ち、何度も何度も繰り返し抜刀と納刀を繰り返す中で磨かれた速度と集中力を強みとする剣であった。
それ故に、二度目にハルトロンの胸部を裂いた時には、既にこれらの斬撃がハルトロンの生命に届いていないことを事細かに感じ取っていた。
「ふむ、五回斬られたのかな?」
ハルトロンは変わらぬ笑顔で、自らの身体のあちこちを手で撫でまわしていた。確かに斬られたはずの身体が、衣服に至るまで完全に修復し、血の染み一つ無い状態で現存している。
「この国では、もう廃れた技術だそうだね。まぁ、手品のようなものさ」
ハルトロンは懐から人型の小さな木像を取り出して、示した。
「二人が斬ったところに応じて血が滲んでいるだろう?
肩代わりの呪術さ。もちろん、こんな日和見のまじないだけではない。
向こうに行けば、もっとおどろおどろしい術を目にすることもあるだろう。
流石の武蔵も、今のままではこういった術に手も足も出ないだろう」
ハルトロンは木像を放り捨てると、改めて二人に向き直った。
「さぁて、武蔵との契約に従って君たちを勧誘しよう。まだ見ぬ強敵、そして武蔵の待つ世界『ローランダルク』へ、来るかい?」
ハルトロンが迫る決断は重大であった。
しかし、
「行く」
「早く連れて行け」
即答。前者がツバメ、後者が景虎の答えである。
ハルトロンは目を丸くしたあと、不敵に微笑んだ。
「それはよかった。では、君たちは今から僕の客人だ」
ハルトロンは二人に向けて一礼し、錫杖で空間を裂いた。
裂け目からは薄暗い洞穴が覗いており、その最奥にはこの世界とは違う、どこか光差す場所が続いていた。
その異様は、ハルトロンの話したことがいよいよペテンではないことを証明していた。
「さぁ、僕たちの国に案内しよう、客人たち。そして、新たなる同胞よ」
ハルトロンが先導するように足を踏み入れ、それに武蔵の亡霊が続く。景虎がさらにその後を追い、僅かにその異様に気おくれしていたツバメが、遅れまいと飛びこんだ。
やがて空間の裂け目が完全に閉じた時、後にはズタズタになった木像と、気絶した隠居老人たちだけが残されていた。