剣狂、巌流、魂魄、エルフ。の巻 五
巌流島。下関は小倉藩の領地であり、海峡の北寄りに位置する孤島である。
何もない殺風景な島であったが、三十年ほど前に宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことによって剣士たちの聖地と化した。
巌流島は十分も歩けば一回りできる小さな島である。人工物は船を寄せる小さな桟橋があるのみで、大半は砂浜と岩場で構成されている。
「ほぉ、思ったよりもあはれなるところですなぁ。見物に立ち寄って良かった」
僅かに島の中心に茂った緑に腰掛け、旅の隠居老人は二人の従者に暢気に告げた。
彼らの他には小舟に待たせている舟渡しが一人と、旅の武芸者らしき編み笠をした若者が岩場に佇んでいるのみで、島には他に誰もいなかった。
決闘場所に選ばれただけはあると言える。
「しかし御老公、ここは随分と潮風が強うございます。いつまでもいるとお体に障りますぞ」
「まぁまぁ、もう少しの間だけ名に訊く名決闘に思いを馳せてもよいではありませんか」
隠居老人は朗らかに哄笑するが、晴れ空の下に横たわる明るく寂しい景色を前にすると、何とももの悲しい気分がするようで、僅かに目を細めた。
「此処こそ、日の本の武芸者たちの夢の果て。
だのに……いや、だからこそですか。
何と寂しい景色であることでしょう」
隠居老人は嘆息するが、ふと桟橋に新たに船が渡ってきたのを見つけ、好奇の目を向けた。
「おや、また一人誰かが。岩場にいる人と決闘でもなさるのですかねぇ」
船頭に何かを言い渡して降り立ったのは浪人、阿刀景虎であった。
野生の虎のような血に飢えた目つきが辺りを見回し、岩場の若者を、そして隠居老人たちを捉える。
景虎と目が合い、二人の従者は目の色を変えた。
「……あの者、ただならぬ眼光を放っております。ご老公に害意を持つ者やもしれませぬ、お下がりを」
「ははは、格さんは心配性ですなぁ」
隠居老人は苦笑するが、それに続いてもう一方の従者も腰の刀に手を伸ばした。
「助さんまで。心配のし過ぎでは?」
「いえ、ご老公。いつものようにはいきますまい。お下がりくだされ」
二人の敵意を感じ取ったのか、景虎は獲物を見つけた猛獣の眼で一行に迫る。
「お前たちか?」
「待て、そこの者。それ以上近付くな!」
助さんは刀の柄に手を伸ばしながら警告するが、景虎はますます好戦的な笑みを増していくばかりである。
そして、虎が吠えるような気迫で虎嘯した。
「お前たちが武蔵の代理か!」
「ぬぅ、何を訳の分からぬことを!」
格さんは得意の体術で景虎を打ちにかかるが、景虎は恐るべき速さの動きでそれらをいなし、さらに近づいた。
「本命はそっちか?」
既に手刀が格さんのみぞおちにめり込んでおり、格さんは胃液の混じった唾を垂らして崩れ落ちていた。
「ええい、貴様よくも!」
続いて助さんが刀を抜いて立ちはだかるが、景虎は格さんを落とした勢いのままに助さんに迫ると、目にも留まらぬ速さで抜刀した刀の柄で助さんの側頭を打って卒倒させた。
「口ほどにもならん。おい爺、お前か?」
「……」
すると、隠居老人は格さんの懐から印籠を取りだし、自ら示して見せた。
「ええい、控えおろう!
自分で言うのもなんじゃが、この紋所が目に入らぬか!
ここにおわすは天下の副将軍……」
「知ったことか」
威厳たっぷりに宣言しようとしたが、景虎は興醒めした様子で刀に手を掛けていたので、恐怖が勝って口ごもった。兇漢とは、まさにこのような男のことを言うのだろう。
「俺は、お前が武蔵の代理かを聞いている」
「ヒッ……」
隠居老人が景虎の獰猛さに思わずたじろいだ瞬間、一陣の風が吹き荒れた。
「む!?」
景虎とも在ろうものが気付かなかった。すぐそこに、編み笠の武芸者が迫っていたのである。