剣狂、巌流、魂魄、エルフ。の巻 三
景虎が通された部屋には温かな光が満ちていた。その中央には他でもない、宮本武蔵の亡骸が穏やかに身を横たえていた。
「そんな、馬鹿な……」
景虎は、この段になって初めて武蔵の死を信じた。だが、武蔵が畳の上で死んだという事実については、まるで理解が出来なかった。
「見ての通り、我が父である新免宮本武蔵は死にました。
丁度明日、簡素な葬礼の後に埋葬する予定でしたので、その意味では間に合われましたな。
骸を確認しようと掘り返されてはたまりません」
伊織の言葉は凪いだ海のように静かであった。悲しみを始めとした諸々の感情は既に流し尽くされてしまったか、あるいは大海の底の潮流のように秘められているのか。
どちらにしろ、大した者であると景虎は感じ取った。
生前の武蔵の深い精神性を表す言葉に『魚歌水心』という言葉があるが、伊織はまさしくその体現者であった。剣士ではなく、政治家としての体現であるが。
「父から聞いております。一人の有望な若武者に試練を課した、と。
父の知る限りの各地の達人を打ち倒して戻ったなら、剣をもって立ち会うと約束した。
そうですね?」
景虎はいらだたしげに歯を剥いた。
「ああ、そうだ。己は確かにそれを為した。だが、こうなっては糞ほどの意味もない……っ」
景虎は、武蔵を倒して『最強』になりたかった。それ以外に己の価値を見いだせない手の男であった。
名のある強者を訪ねては叩き潰し、逆に叩き潰されそうになろうと、やはり叩き潰す。そうした無理を通すことでしか生きられない性質の男は確実に存在し、かつては一時代を築いていた。
だが、時代は徳川の名のもとに急速に収束しつつあった。
皮肉なことに、武蔵が細川藩に仕えて得た石高三百石に対して、武蔵が政治家として推挙した伊織が得ることになる石高は十倍以上の四千石であった。
時代は、剣豪や武人を求めた戦乱の時代から、治臣を必要とする統治の時代へと転換していた。武蔵の時代はまだ関ヶ原直後、また戦乱に逆戻りしかねない転換の最中であったが、景虎の時代には完全に切り替わっていた。
徳川家康の仕事は完了していたのである。
武蔵は最強の剣豪でありながら時代の移り変わりに最も苦悩した一人でもあった。
人生の絶頂とも呼べる巌流島の決闘にて最大の好敵手たる巌流佐々木小次郎を打ち破った後、武蔵は仕官を望んで自分を売り込むようになる。武蔵は豊臣討伐や島原の平定にも加わるも、武功は上がらず、最強の剣士という肩書に恥じない役職を得ることは人生を通じてついぞ叶う事が無かった。
最強の武蔵でさえ苦労したのに、同じ性情を持つ景虎は如何にして身を振るべきか。剣士たちは皆、時代の岐路に立たされていたのである。
「武蔵が、死んだ……畳の上で……」
景虎は、急に血の気が引くような思いがした。一つの時代が終わった事を武蔵の亡骸に見て取っていた。