剣狂、巌流、魂魄、エルフ。の巻 二
「ぬぅん!」
高弟が弾かれたように飛び出し、大上段に斬りかかる。
二天一流の高弟だけあり、下手をすれば何もできずに頭を断ち割られてしまうに違いない。
「……」
景虎はその下手の一例になるつもりか、迫る刃に対して自らの刀の柄に手を当てたまま動かない。
高弟は、このまま景虎を斬り捨てるつもりであった。往年の武蔵は構える前の相手を木刀で叩き殺すような真似も平気でしていた訳だが、それに比べればなんと良心的な攻撃だろうか。
「……」
振り下ろされる最中の刃が景虎の頭上に迫るその時になって、景虎は小さく呟いた。
「『阿刀現世流』ゥ……」
すると、時間の流れがまるで融かした飴のようにゆるりと鈍くなったのを、その場にいた誰もが感じた。
振り下ろされる刃までもがもたもたと減速しているように感じられる。
だが、その中でも景虎は動かない。刃が景虎の額に差し迫り、いよいよ肌も斬り込もうとする瞬間まで、待った。
「『咢砕き』」
減速した感覚の中で尚目にも留まらない速さで、景虎の手が消えた。
一瞬の後、景虎の手が柄に戻っていた時には、振り下ろされた刀の切っ先が逸れて空を切り、少し遅れて骨が砕ける子気味良い音が響いていた。
少し遅れて、
「グワァッ!」
高弟の呻き声と共に時間の流れが取り戻された。高弟が数歩退くと、打撃によってひしゃげた彼の右手の甲が露わになる。
「何だ、何をした!?」
「妙な技を用いたのか!」
下位の門弟たちはそれを見て口々に罵った。
高弟より高位、武蔵に長年付き従ってきた古株の直弟子たちのみが何が起こったのかを見て取った。
景虎のしたことは、実のところは単純そのものであった。
抜刀し、柄によって迫る高弟の右手甲を打撃し、流れるように納刀する。
恐るべきはその速さと正確さであった。
「やれやれ、こんな事も見抜けんとは。遺した門弟たちがこの体たらくでは、武蔵殿も草葉の陰で何と嘆いておられる事やら」
ため息を吐いたのは、年老いた直弟子の一人である。
「しかし、あの狼藉者、近頃は見ない類の使い手だ」
「うむ、若かりし頃の武蔵殿を見ているかのようだ」
そんな話などには耳も貸さず、景虎は刀の柄から滴る血を拭い、再び居合を構えて高弟に迫る。
「刀を落とさなかったのは褒めてやる。だが、これ以上隠すと為にならんぞ」
景虎の構えには必殺の迫力があった。
「ぬぅ……っ」
高弟は死を覚悟した。自らの力量及ばず道理も通じない猛獣が牙を剥いて迫ってくる恐ろしさがあった。
だが、彼にも武蔵門弟としての意地がある。なおも食い下がろうとひしゃげた手で刀を握ろうとした。
その時である。
「何事ですか」
門の内より静かな、それでいてよく響く声がした。
現れたのは、三十代半ばと見える御家人の男である。
浪人の景虎とは打って変わって身なりは正しく、その眼付きは深く水を湛えた深海のように感じられる。
宮本伊織。武蔵の養子であり、小倉藩の次期家老とも目される重臣である。武蔵の創始した二天一流にも深く関わり、特に剣術と医術に長けていたと後世に伝わっている。
「ッ! 伊織殿、お下がりを! 狼藉者にござります」
高弟をはじめとした何人かの門弟が伊織を庇うが、伊織は景虎の姿を認めるとしばし瞑目し、やがて、静かに頭を下げた。
「阿刀景虎殿ですね。どうぞ、こちらへ」
「……おう」
景虎は無雑作に構えを解くと、驚く高弟たちには目もくれないで伊織の後に続いた。