怨憎魔王。の巻 一
一行は、巌流島から伸びた世界の抜け穴を進んでいた。
洞穴は地面も壁も天井も木のような材質でできている。それらは滑らかかつ生体的な曲面をしており、板を張り合わせているのではなく、まるで一本の大樹を横倒しにして、その虚の中を歩いているような気にさせる。
時折上っているのか下っているのか分からなくなるような感覚に陥ることもあるが、微妙な傾斜でそのような錯覚に陥ることはままある。誰もその事で騒ぎ立てるようなことはしなかった。元より超常の場所である。
「ああそうだ。一つ、前準備をしておこうか」
景虎たちを振り返り、異界の自称『探索者』ハルトロン=ミーダは微笑みを浮かべた。
彼は左手に淡緑色の炎を灯し、洞穴を照らして一行を先導している。もはやこれくらいのことでは誰も驚かなかった。
景虎からしてみると、妖怪狐狸の術と一度納得すれば、後はただの便利な提灯でしかない。
景虎はちらと魂魄となった無表情の武蔵に目をやりつつも、改めてハルトロンの顔を見た。顔立ちが日本人とは異なっており、特に白い肌や銀色の瞳と髪、それに三角に折った布巾を丸めたようにツンと伸びる長い耳が特徴的であった。
「準備とは?」
巌流佐々木ツバメが訊ねる。暗闇には慣れているようで、足元を見ずともひょいひょいと進む。最初は武蔵や景虎と比べてやや気おくれをしていたようだったが、今では落ち着き払っていた。
「君たちが向かうのは日本人にはまるで馴染みの無い世界。常識も法則も異なる。
君たちが僕たちの国に順応するにはいくつもの準備が必要だ」
ハルトロンは頭の中の項目を指折り数えると、一番目と言って人差し指を立てた。
「まず、『言葉』は大事だよね。だけど、これについてはあまり気にしなくていい」
歩みを止めぬまま、小さな木製の呪符を二人に投げてよこした。
「噛まずに、呑みこみたまえ。君たちに『言葉』を授ける」
呪符には無数の円と文字記号が組み合わされた複雑な文様が描かれており、僅かに鼻を突くような匂いがした。山葵や辛子のようでありながら、どこか甘い匂いである。
「ミントを煮詰めて作ったインクで霊木の樹皮にしたためたものだ。
食べても大丈夫。
僕たちの国では母親が子供の身体から邪精を追い出すのに、こうしてまじないをかけてやるもなのさ」
符を飲み込むという行為は、日本的まじない観からすると親しみが無いが、どことなく理屈は分かる。描かれたものを飲み込むことで、文字通り体内にその効果を取り入れる。道理には適っていた。
「……」
景虎とツバメは一瞬目を見合わせた。
「どうした、呑まねぇのかよ」
景虎が牽制すると、ツバメは誤魔化すように景虎を睨み付けた。
「貴様こそ、まだ呑んでないくせに」
「呑みこむために唾溜めてんだよ。ほれ」
口を開いて唾がたまっているのを見せようとすると、ツバメは眉をしかめて目を逸らした。
「ち、野人め」
「野人で結構、ぺっぺっ」
「何をする!」
溜めた唾を吐き散らす景虎にツバメは激高。互いに刀に手を伸ばすが、その間にゆらりと武蔵の魂魄が割って入る。すると、揃いも揃って間を外されてしまうのであった。
「……」
「……」
武蔵の無表情には、戦意を喪失させる効果が少なからずあった。
二人は気まずそうに柄から手を離す。
「そもそもは、この男が悪い」
ツバメが言葉を吐き捨てると、
「同感だ」
二人は殺意をもって武蔵の魂魄を睨み付けた。
すると、武蔵はゆらりと宙を漂ってハルトロンの傍らに戻った。
「楽しそうだねぇ武蔵」
武蔵は無表情のままである。ハルトロンは、まるで能面か岩とでも会話しているかのようである。武蔵はハルトロンの言葉に応えるそぶりも見せないが、ハルトロンは会話が成立しているかのように一方的に話し続けていた。
常人の二人からしてみれば、気味が悪い。
すっかり毒気を抜かれてしまった景虎とツバメは、今更こんな物に怖気づいても仕方ないと、さっさと呪符を呑みこんだ。




