ずっとひとり。そして最後も。
24歳の時、相沢真治は神様に会った。
ふつうの日常。会社の帰り道。
いつもと少し違ったのは電柱の街灯に影になっては落ちていく雪の降る日だった。
アパートまでのコンビニの近くにある、普段なら気にも留めない古い小さな神社に和服のおじいさんが立っていた。
その立ち姿は力は全く年齢に見合わない、威厳と力強さがある。
そしてこちらを見ていた。なにかを観察するように、何かを覗くように。
だけど俺の第一印象は寒そうだな、だった。
「おじいさん、何してるんです?雪も降ってるし、帰ったらどうです?」
すっとこちらに顔を向け、一息と少しいれた後、少し微笑みながら俺の目を見てこう言った。
「久しぶりにワシが見える人と会えた。気分がいい。何かかなえてやろう。望みを言ってみるがいい」
変なおっさんだな、と思いつつ、少しふざけた気持ちが湧き上がってきた。悪ノリというやつだ。
多分、いやな笑い方をしてたかもしれない。
「そうですね、お金は長く生きればなんとかなると思うので、不老不死にしてください。でも、最後の日本人がいなくなるまででいいです」
いいです、というのは変な注文だと思いながらもそう伝える。
昔、なにかの映画かアニメかを観ていたときに、ただ不老不死になると、ずっと生きなければならない。
だったら条件があればよくないか、と友達と話していたのを思い出したからだ。
「わかった。それでは、明日からお前は不老不死じゃ。人として最後の夜を過ごしたらいい。」
そういったとたん、すう・・・と消えた。
「えっ」
普段声に出さない驚きの声を上げてしまった。当然、消えたことに。
改めて見れば誰もいない。その雰囲気もなかった。たまたまなのか周りに人もおらず、自分の声も目立ったこともなかった。
2、3分もするとその時の自分を疑い始めていた。
「休みを取ったほうがいいかもなあ」
ただの願望。いつもの愚痴。そう思いつつ、アパートに帰ってコンビニの弁当を食べて、ベットにもぐりこんだ。
―3年後
普通に働き、普通に会社に認められ、普通に恋愛をして。
どこにでもあるような、誰もが経験するような生活だった。
ただ、毎年冬になると小指にアカギレができていたが、あれ以来できていなかった。
当然、あの日のことも、アカギレのことも、気にしていなかった。
―5年後
結婚して2年が経った。
名前がイズミという、ちょっと美人というより、かわいい感じの女性。
2歳も違わないのだが、知り合ったときは、お互い童顔だということでとにかくセットにされた。
それが理由かわからないが、そのまま付き合いが深まり、結婚という選択をする。
埼玉のアパートから川崎の川沿いのマンションに引っ越した。
2人で決めた物件。休みの日には川辺を歩き、夏には空を仰いで花火を見る日常。
冬にはたまにちらつく雪を窓から覗き、テレビを観て2人で笑いながら食事をする毎日。
あれから風邪らしい風邪もひかず、集団インフルエンザでも課内で一人大丈夫だったことも、運がよかったくらいしか思っていなかった。
―12年後
イズミが不自然になったのは、アネさん女房に見える、と言われた時からかもしれない。
自然と一緒に並ぼうとしないようになった。
薄々気がついていたが、いたずらっぽく冷やかしながら大丈夫、気にならないし、素敵な奥さんですよ、とからかう事でごまかす。
内心、俺は最近若い若いと言われていて、悪い気はしてなかった。
ただ、よく独身と間違われるし、転属してきた社員には後輩とみられてたまに不快になることが増えても。
俺たちの間にはマナミという娘がいた。生まれてもう6歳になっていた。
この前入学式、担任の先生はベテランの女性だったので安心していたが、俺を見るなりお若いわね、結構早くに結婚されたの?と言われた。
隣にいたイズミは急に割って入り、もうそれなりの年齢なんです、得なのか損なのかわからないですよね、って笑って言う姿は、少しつらそうだった。
―22年後
46歳。もう6年ほど前から髭を伸ばしている。剃ってしまうと20代半ばにしか見えないことが経験からわかっているから。無駄なあがきなんだが。
娘のマナミは14歳。
でも、もう2年はあっていない。
30代後半から、イズミとの関係が悪化していった。心で必死に追いかけたが、追いつけなかった。
あなたは外見だけでなく、感性も若い。気力も年齢に合わないほどある。そしてあなたの体を見ると、無性につらい・・・と。
それなりに老けた男性と浮気をし、いつの間にか気持ちも離れていた。
「あなたは悪くない。私が弱いんです。そういう人はいると思う。だけど一緒に年を取っている感覚がないんです。耐えられないほど、さみしい」
そう言って出て行った。
マナミは若いお父さん、なんでも付き合ってくれる、遊んでくれるお父さんが大好きだった。でも悲しむお母さんの傍にいることを選んだ。
俺もそれがいいと思った。何故か他人事のように感じた事が自分でも不思議だった。愛してなかったわけじゃない。しかしイズミが時々見せた辛い顔が全てを受け入れてしまわせる。
マナミに会いたいときは会えるということだったが、ここしばらくはメールだけにしている。
母親同席が条件になっており、会うたびに目を合わせなくなったイズミが辛かった。
1年もしないうちに、疎遠になっていった。
こういう歪みは少しずつ、他にも起きていた。
近所の人、同僚、部下、取引先。
はじめは冷やかしだったものが、触れてはいけない話題になっていった。
決定的だったのは中学の同窓会。
1人、浮いている気がした。話せば懐かしむ、笑いあう。だけど最後に撮った集合写真は明らかに違和感しかない。
なにかおかしい。イズミの言葉に縛られるように思いが走り始めていた。
-24年後
会社を辞めた。
認められて管理職の地位におり、仕事には問題ないと自負していた。
しかし、イズミと別れてから、加速度的に歪んでいった。いや、気がついていった、が近い。同僚と飲んでも、もうバカみたいな話すら進まなかった。
昔から世話になっていた部長も、特に慰留もなかった。この状況で俺も何を期待するのか。
すこし色がついた退職金も含めると、一人で暮らしていくにはしばらくなんとかなる金が手に入った。
すぐにハローワークに登録をしようとしたが、やたら億劫に感じた。
1人になり、何もしない日が増えていく。
時間がとても、とても長く感じた。
1日何も食べず、目的もなくいろいろな街を歩いた。空腹も疲れもない。
足が、気持ちが自然とイズミと昔並んで歩いた場所を選んでいくようになっていく。
イズミはいない。少なくとも、おれの記憶にいるイズミは絶対。
後ろ向きな自分に嫌悪ばかり。
数か月過ぎ、冬になり、雪が降っていたある日。
気が付くと昔住んでいた街に来ていた。あのアパートはもうなかった。よく通ったコンビニも。
雪影を作って街灯から落ちてきた。
そして俺はあの神社を見た。見てしまっていた。
引き寄せられるように目と心が動いたのがわかる。
記憶がフラッシュバックした。
雪が記憶を、記憶が絶望的な痛みと不安と共に辻褄をつなぎ始める。
雪の日。
-神社
--おじいさん
---そしてあの言葉。
いやまさか。
いや・・・まさか。
何月かも覚えていない。ただ寒い雪の日。すぐ積もりそうな雪。
ただ一言自然に声に出る。
「・・・不老不死」
否定できない非現実的な確信があった。
―36年後
60歳。明らかに違うとわかっている、いやもうずっと知っていた。
鏡を見ても20代を否定できない。
そして、2週間食べなくても、大丈夫なことも知っていた。そして慣れていた。
もっと大丈夫かもしれない。
届く郵便に、喪中のはがきが見られるようになる。
親戚の人、学校の先生、そして俺の父親、母親。宛名はイズミからだった。
40を過ぎ、イズミと離婚してからは自分の親にすら会いに行かなかった。はじめは連絡が頻繁にあったが、段々減っていった。
秋も終わる頃、母親から直筆の手紙で一文
「真治。会いに来たいと思ったらいつでも帰ってきて下さいね。大丈夫。私達はずっと待っています。」
この一行だけの手紙が届いた。
涙より、イズミの言葉を思い出す。
「耐えられないほど、さみしい。」
この言葉が重い。
新築で入居したマンション、もう築数十年・・・を引き払い、郊外の寂れた山奥へ引っ越した。
平屋の中古を手に入れ、逃げるように暮らす。
もう、人と会うのも怖い。
―47年後
「・・・お父さん?」
誰かに、自分に声をかけてもらったのはいつくらい振りだろうか。
振り向けば、玄関に30代後半に見える女性が立っていた。
雪が降っていたのに、歩いてここまで来たのか。相当深かったはずだ。
頭に、肩に白く残った雪がある。
「・・・マナミか?」
その一言でマナミは驚きと恐怖が混ざったような顔した。心が痛い。
この家を買うとき、勝手に相続人にマナミの名前を使ったことを思い出した。
調べれば、これたのか。
「本当に、年を取らないの・・・?」
恐る恐る聞いてくる。
「たぶん、もしかしたら・・・マナミは元気そうだな。いや、イズミは、お母さんは元気か」
年齢の話題はしたくない。これ以上話したくない。
「お久しぶりです。おと・・・おとう、さん。お母さん、もうそんなに長くないんです。それで・・・」
何を言いたいのか。
「お母さん、今になってお父さんのこと、ごめん、ごめんなさいって・・・。今のお父さんもいなくなってから、しばらくして、今になって、もしかしたら、私は取り返しのつかないことを、って」
実の親といっても。何十年と会っていない。言葉の使い方も、言い方もたどたどしい。
ましてやこんなナリだ。違和感しかないだろう。
自分の思い出の父親そのままなんだから。
「もうわかっただろう。お父さんも、会えない、会わないほうがいいと思う。この顔で会って、やっぱり変わらないね、とはならないし、笑って会うこともできない。」
何度も考えてきたこと。
知人と、そして家族と会う時のことを。そしてどう考えても会うわけにはいかないこと。
「お父さんも、お母さんのあの時の気持ちは、もう、わかっているんだ・・・」
久しぶりに話したせいか、それが娘が目の前にいるのか、気がつくと泣いていた。
「あの、上がっても・・・いいですか」
マナミの今までの話を聞いた。
別れた後、中学、高校、大学、結婚。今は2人の子供がいるらしい。スマホの写真を見た。
孫がいる。まったく実感がないが。
今でも目の当たりや口元はお父さんに、あの人の面影があるって話し合ってたこと。
そしてイズミのこと。
それなりに幸せだったこと、たまにふと俺の話をしたこと。そして本当によかったのかと後悔していること。
正直、他人事のように聞こえた。
本当なら、こんなことがなければ、一緒に年を取り、喧嘩をし、マナミの幸せを一緒に喜び、願ったはずだった。
どうしてこんなことになったのか。
話を聞きながらそれしか頭に残らなかった。
喜んであげる、悲しんであげることができない。
感情も死んでいる気がした。
どうして”こんなことに”なったのか。
「ありがとう、だけどもう、来ないほうがいい」
夕方、帰り際のマナミにそうい言った。努めて優しく、穏やかに。
「・・・わかりました。お父さんもお元気で。お母さんにはいなかった、と伝えておきます。」
大人になった。頭を下げる娘を見てそう思った。
震えている肩に、頭に手を伸ばしたかった。父親らしいことはなにもできなかったくせに。
「体だけは、丈夫だと思うから」
笑いながら言ったつもりが、泣き笑いになった。
もう駄目だ。俺はもう、人ではない。
―48年後
イズミに会いに行こう、と思った。
もう、間に合わないかもしれないが。
後になって気が付いたが、マナミは、イズミの病院のメモを残していた。
会わないと言った手前もあるが、相当悩んで決めた。
今のうちかもしれない、と思った。
自分が普通に生活をしていた、できていた時代にともに過ごしたイズミに。人の繋がりのあった時に。
街は、変わっているようであまり変わっていなかった。
商店街では歌が流れている。
服装もそれほど違和感がなかったことが救いだった。目立っていない。
病院もすぐに見つかった。
昔、マナミが盲腸で入院した総合病院。
恐る恐る入る。ほとんど人と合わなくなって数十年、人が怖い。
病棟に入り、5階を目指す。
「503・・・503」
ふと普通に病室探してる自分が、普通に生活している雰囲気を懐かしんだ。
「・・・お父さん?」
振り向くとマナミがいる。ちょっと疲れているようだった。
「来て・・・くれたんですね。でも、お母さん、目を覚まさなくて」
周りからみればおかしな会話だ。若造におばさんがお父さんなんて。
ぼんやり思いながら聞いていた。
「会っても・・・いいかな」
「・・・お願いします」
頭を下げた娘はもう何か遠い人にみえた。
503号室は、向い合せの病棟側に窓があり、少し暗い感じの個室。
つきっぱなしのテレビは歌番組が流れ、観ている雰囲気がない。
歌はさっき流れていた曲。流行っているかさえ分からないが、耳に優しい。
少し萎れた花が差された花瓶、しばらく使っていないような洗面器。並べてある調味料。
彼女がもうあまり動いていないことがわかる。
イズミの年相応の顔は、自分が知らない人生を歩んだ顔だった。
残っているのは目元に少し面影があるくらい。
自分がどこかに取り残されているように感じた。
まるで夢か、テレビを観ているような。
この皺を刻んだのは俺とじゃない。
申し訳ない、と思った。
「おととい、薬で負担を軽くするって、それで眠る事になるって先生が」
後ろからマナミが話す。
「そうか。辛そうだったか」
「少し・・・それで、先生と相談して」
「そうか」
何を気にしてたか聞きたい。
自然にイズミに触れていた。暖かい額、柔らかい頬。面影はなくても確かに知っていた感触。
そっと両手でイズミの手を握った。
川沿いで、買い物で手を繋いで歩いたあの日。
マナミが間に入って歩いたあの日。
俺には昨日のようでも、彼女には違っているだろう。
「お母さんに、イズミに、もし目を覚ましたら、君は間違っていない。そして俺は今もあの生活があった事を感謝している。そう伝えてもらえるかな」
「わかりました。ありがとうございます。お父さん」
しばらく髪を撫でていたが、イズミは俺が帰るまで目を開けることはなかった。
次の週になって、イズミはいなくなったことを後の手紙で知った。一度もマナミとは話せなかったことも。
―68年後
92歳。
俺はなにも変わっていなかった。
定期的な食事はもう摂っていない。山になっている山草や柿を見つけた時にまたに食べるくらいだ。
電気もガスも止まっているが、必要もなかった。
何をしても、何もしなくても、変わらないことが分かったからだ。
そもそも、ここ5年ほど、人に会っていない。
先日手に入れた古新聞から、日本がどこかの国と戦争しているらしいことはわかった。
かなりまずい状況らしく既に世界的規模のようだ。第三次世界大戦、と名付けてもおかしくないようだが、各国が認めたくないようで、紛争という言葉が飛び交っている。
「なにをしているんだか」
久しぶりに声に出していた。
あの後、マナミからしばらく手紙が来ていたが、引っ越すことになるのでまた、という手紙から来ていなかった。
心配な気持ちもあるが、彼女の人生、俺に入る余地はもうないと思っている。
さみしさに慣れたのではなく、逃げていることも知っていた。
―70年後
飛行機の音、爆撃の音で目が覚めた。
小学校だったか中学校だったかで、戦争の悲惨さ、というテーマで被災者の経験を語る授業があった、それを思い出す。
つまり、日本はそういう状況なんだと思った。
そう思ってしばらく過ごしていると、夏も始まろうとしている午後に、日陰ができた玄関に立つ人が見えた。
「相沢真治さんですか」
小学生、高学年くらいだろうか。
「誰?」
ちょっとぶっきらぼうに答えた。ちょっかいを出してきた子供がいた時代に、そうやってあしらったことを思い出した。
「僕、ゴロウっていいます。マナミおばあちゃんがこれを」
くしゃくしゃになった手紙を渡された。
「・・・マナミおばあちゃんね」
マナミはもうそんな年か、確かにそうか、と小さくつぶやきながら手紙を開く。
内容は、お父さんにお願いがある、この子を少しの間だけ預かってほしいと。
「おばあちゃん、私のお父さんなら、大丈夫だろう、って。はじめは何を言っているかわからなかったけど、真剣だったから・・・それと」
吾郎はそういったとたん泣き始めた。嗚咽。こんな子供がここまでの悲しみを。
「おばあちゃん、爆弾で・・・病院で・・・これ書いて・・・もう行ってって、お願いって・・・」
そうか、マナミもいないのか。
「お父さんとお母さんはどうした。マナミおばあちゃんの子供は」
自分の娘をおばあちゃん呼ばわりだ。
なんだか学芸会の芝居のようだ。
マナミの死も芝居のワンシーンなら。
「お父さんもお母さんも戦場に向かわされて。もう3年もなにもなくて」
つまり頼るところがない、か。
しかしなにもしてやれない。が、放り出すことはマナミにも悪い。
「俺は・・・あまり最近の生活も知らない。お前のことも知らない。子供とロクに暮らしたこともない。色々我慢ばかりするだろう。いいのか」
「もう行くとこない。ここにいて、も、いいですか」
小さく泣きながら呟いていた。
辛いな、お互いに。声に出してしまったかもしれないが、ゴロウは何も言わなかった。
ゴロウとの生活は試行錯誤だった。
マナミからはある程度聞いたらしい。
年を取っていないように見える事。おそらくいない事。
電気もガスもない、美味しいものもない。そもそもそんな生活が不要になっていた俺が用意した食事に、ゴロウは文句も言わず食べ、過ごした。
時々見せる話し方、遠慮がちな笑顔にイズミの、マナミの面影があった。きっと俺に似ている所もあるんだろう。
暮らしていくうちに頭のツムジが2つある事に気がついた。俺にもある。
何も言わず、すっとゴロウの頭を撫でた。
なかなか会話が続かない2人だったが、不思議そうに見つめるゴロウに微笑んだ。
まだ、俺も1人でないかもしれない。
ゴロウにも笑顔が増えてきた。
クリスマスに使ってなかった金を引っ張り出してきて、中古のポータブルCDプレーヤーを買ってやった。わからなかったのでそのまま店に置いてあるCDも適当に数枚つけた。
ゴロウも小さくありがとう、と呟いてイヤホンを耳にした。気に入ってくれるといいが。
ー71年後
家に爆弾が落ちた。
下半身のないゴロウと、同じく下半身が”なかったようだった”俺の体。
ゴロウの耳にはイヤホンが付いていた。
イヤホンを取って耳に入れた。
少しだけ、ゴロウの体温を感じたようにおもえた。
電池なんてとっくになかった。
確か寝る前に少し楽しそうにつけていたはずだ。
ゴロウの気遣いか、優しさか。
もうわからなかった。
入っていたアルバムの名前は
”いつか”
ゴロウにとっていつか、なんだったろうか。
ゴロウにとっていつか。
確か、買った時に一緒に聞いた。
イズミとマナミと最後に会った時に聞いた、あの曲。
いつか、と歌い繰り返しつぶやきながら、その次がわからないまま、ゴロウが干からびるまでそばにいた。
「すまんなぁゴロウ。幸せだったか?なあ」
答えなんてあるのか。
とっくにCDプレーヤーは壊れていた。
ゴロウ、マナミ。イズミ。
俺はもう、死ねないこともわかったよ。
―102年後。
爆弾の音はずいぶん前からしなくなっていた。飛行機も飛んでこない。
かと言って誰かどこかの軍隊が来る気配もない。
以前いた街の近くまで行こうとしたが、交通機関が止まっていた。数年レベルではないかも。
一晩かけて歩き、街に入ったが人の気配はなかった。
爆撃されたわけではない、街並みは残っている。しかし不自然なほど人がいなさすぎる。
俺の記憶では、このあたりは60万人ほどの規模だったはずなのに。
適当に街を歩いていると、ボロボロの本屋があった。
中に入り、適当にゴワゴワになった週刊誌を開いてみる。もう、10年前。
戦争は終わっていた。各国、国交が結べないほど疲弊し、インフラが崩壊しているようだった。
記事には原因不明の病気が流行っているようらしい。
細菌兵器なのか、新種の病気なのか、謎のまま、憶測だけの曖昧な記事が並んでいる。
「どうなってる」
何年ぶりかの独り言。
今回はもっと一人きりだ。
ふっと思い出した。
「・・・最後の日本人がいなくなるまで」
俺が神様に頼んだ条件。
まだいる。日本人が。
―103年後。
人に会おう。会いたい。
俺が生きているという事は人が、日本人が生きている。
とにかく誰かに会いたい。
あれだけ人を避けていたのに、今更なんで、そんな事を笑う自分がいる。
もともと住んでいた場所にも未練もない。
ゴロウの墓は作っていない。
1番丈夫な服を着込んで手ぶらで歩き出した。
北関東から出発。可能性の高い都心を目指して。
東京の都心には誰もいなかった。
それ以前に建物も何もない、平坦な土地しかなかった。
「そりゃ中枢狙うか」
人が1番いる所に生存者がいると思ったが、逆に狙われている事にもなっていた。
隠れているか、遠くにいるのか。
―105年後。
やみくもに歩く事は得策ではなかったので、東京から南に海沿いに歩いた。
川沿いでは少し上流に上ってみる。
都市機能が後退している事は明らかすぎた。
つまり生活レベルも後退しているはずで、食生活が成立しやすい所にあるはず。とにかく水のある地域に集中するはずだと踏んだ。
実際、戦後にできたような集落があった。
そこはもう骨しかなかったが、間違いでない事に確信を持つ。
まだ諦める事はない。
もう一度。もう一周する。
俺は歩き始めた。
ー※208年後
ワクチンができた。
もう遅いかもしれない。
だけど。
密閉された研究棟で、親子3代に渡って調べ続けた成果。
ずいぶん前から死期を遅らせる事には成功していた。その薬を研究チームのメンバーに回した。
戦後の政府最後の援助で作られた研究施設。元々は違う目的のようだったが、あの病気が蔓延してきて残っている国内の医療研究者が、全て集められた。
この施設は300年は単独で活動可能と言われていた。事実、まだ使っている。
1400名ほどいたプロジェクトメンバーは次世代を作る事も視野に入れる必要性を認識し、結婚ではなく妊娠可能な女性研究者を中心とした交配を選ぶ。
納得できず、いなくなる人、心が壊れてしまった人もいたが、その時でもまだ500名ほど残っていた。ただ、あの病気で少しずつ、減っていく。
私達はワクチンの完成は目の前だと信じて。
私達が最後の希望だと信じて疑わなかった。
その時はまだ、たまに聞こえるラジオから歌が流れていた。
たしか、"いつか"。懐メロ。
母が口ずさむ。
私たちのいつか、はもうすぐ届く。
私が28の時に作ったワクチンで完治を確認した。実証は自分だった。母にも打ったが、2ヶ月後に亡くなった。効果はあった。しかし体力的に難しかった。
しかしそのワクチンは生成しても2時間で劣化し外に持ち出す事はできなかった。
次の課題は常温での保存と長期的な効果の持続。
残された30名のメンバーで必死になって調べた。
毎年1人ずつ、色々な理由でいなくなっていく。
そして今、私は60を超えた。
すでに2年経過のワクチンでも劣化が認められなかった。
今、ここに手紙とワクチンを保管した箱を作った。なぜならもう、ここには私1人しかおらず、外に出る事は難しいから。
誰かに、この箱が見つかりますように。
この箱はパンドラ。小さく震えている希望。
ー209年後
ある夜、明かりを見た。
山の上の方に。窓からの明かりを。
次の朝ふもとに行くと、人が越えられない壁に囲まれている事がわかる。
しかし崩落している箇所があったため、そこから入った。
「人がいる」
嬉しくてしょうがなかった。
無人で電気がつき続けることは難しい。
無人の施設はそれほど頑丈でなく、脆いことは回った先の状態から推測できていた。
人がいるから、明かりがある。
施設に入った。
花が、花壇がある。
生活臭がする。鼓動が高鳴る。
「あのう、誰か」
久しぶりの自分の言葉が間抜けに聞こえる。
「誰か、いませんか。返事を。返事をして下さい」
泣きそうだ。
「もうずっと、誰とも会っていない。お願いだから誰か、誰かいてください」
心から叫んだ。
「待って。私も、私も同じ気持ちです」
車椅子の女性が姿を現した。
彼女はノゾミと言った。
知性が先に来るように見えるタイプだが、凛とした姿は安心させた。
聞けば、若い時の事故で車椅子の生活が続いているらしい。
「こんな若い人がまだいたなんて」
この言葉に俺は戸惑う。
「どこから来たの。他の人は。日本はどうなっているの」
似た感覚だった。彼女も、1人が長いようだ。
「すみません。私も誰とも会えていませんでした。ノゾミさんに会うまでは。ずっと1人でした」
「そう・・・でも、嬉しいわ。一緒に食事でもどうかしら。しばらくはいたらいいわ」
年甲斐もなくはしゃいでいる姿は、不自然だった。おそらく社会性はあまりなくて、1人が長いのだろう。自分もだが。
数十年ぶりに採った食事は味がわからなかった。
自分にとって価値が失われている。
しかしノゾミのために元気に振舞って見せた。
彼女も久しぶりの2人の食事に喜んだ。
「いつまでいられるのかしら」
ノゾミさんは屈託のない顔で聞いてきた。
ずっと、と言いたかった。彼女の年齢なら不思議に思う前にいなくなるかもしれない。そんな考えもよぎる。
「春になったら、また出ます。もう少し探してみたいのです」
半分本当。半分嘘。
人に会った事で、目的は達成していた。
しかし、自分が200を超えている事に自分自身が恐怖を感じていた。知られるのが怖い。
「そう、寂しいけど、こんなおばあさんじゃね」
冗談ぽく笑った後、真剣な、切実な声で言葉を繋げた。
「あなたにお願いがあるの」
ー210年後
この半年はワクチンの説明を受ける日々。
このワクチンは希望、そして人間の日本人の存続がかかっている。
ノゾミさんは注射の練習台となり、痛い、下手くそと何度も俺を叱った。
全く経験のない事、だけど学ぶ事は楽しかった。
その間にお互いの事を話した。
研究施設の事。家族の事。少し普通ではなかったが、ノゾミさんは懐しむように話す。
俺も聞く事の喜びがあった。退屈はしなかった。むしろ人との繋がりの大切さを肌で感じて。
自分の事を話す事は抵抗があったが、離婚までの事を話した。時代と年齢は誤魔化しながら。
「その人も見る目がないわね。私も後30年早ければねえ」
そう言って笑うノゾミさんは寂しそうだったが、見ないふりをした。
この半年、正直悩み苦しんだ。
このワクチンは人類の救世主。
しかしこのワクチンは俺の地獄の始まり。
この葛藤は日増しに強くなる。
あの箱はパンドラ。開けてから絶望が始まる。
このまま逃げれば。何度も思った。
だけど、ノゾミさんの自分を疑わない笑顔が、それを止める。
とりあえず、打つだけ打ったら、ここに帰ろう。
そう思った。
「それでは行ってきます。もし会えたら、みんなで迎えに来ます」
「期待してないわ。それより早く誰かと幸せになって」
やっぱり寂しそうに笑うノゾミさんだったが、目は真剣だった。
「ありがとうございました。楽しかったです。ではまた」
「そうね、そう言う事にしましょう。それではまた」
ノゾミさんは見えなくなるまで見送ってくれた。
ー※210年後
「さようなら。ご先祖様」
ノゾミは彼が向かって行った方角に向かってつぶやく。
半年前、自分の目を疑った。
政府のデータベースに彼の名前があった。
既に200年以上前の個人データ。
同姓同名、それで片付けようと、思ったら、イズミ、マナミが偶然では済まされなかった。
マナミの孫にあたる研究者がここにいた事はわかっている。
研究者は、ここに来る前に先祖を遡って危険思想の持ち主がいないか調査されているからだ。
逆に言えば、だからこのデータがあったとも言える。
ただし、私が彼の子孫かはもうわからない。
2代前の婚姻制度の破棄は、子供の親を特定する事を困難にさせていたから。
だけど、でも。
ノゾミはその名の通り、そうであってほしいと望んだ。
彼女も、繋がりが必要だったから。
ー※212年後
お父さんが死んだ。
最後まで謝ってばかりだった。
「イズミ。お父さんがいなくなったら、ここを出るんだ」
嫌だ、ずっといる、何度泣き叫んだか。
お父さんがいなくなっても気持ちは変わらない。
ここには300人ほどいたと聞いていた。
ある年齢になると、熱が出てみんな倒れた。
40まで生きる人は稀。
子供を産み、かろうじて繋いでいたコミュニティもイズミが16歳になる頃には100人に満たなかった。
半数は他に人を探すと書き置いていなくなった。
しばらくして何体か死体が見つかっただけで。
残りは無気力に生きていただけだった。
将来を約束した男性は急に血を吐いて倒れたきり、起きてこなかった。
あの病気でない、別の普通の病気で旅立つ。
18になった時、40に近くなっていたお父さんが熱で倒れた。もう1人いた最後の人はその夜自殺してしまう。
「ここにいてはダメだ」
イズミは荷物をまとめ始めた。
少し熱っぽいのは、泣いているせいだと思っていた。
誰かに会う。絶対に誰かと会うまでは。
―212年後。
秋に入り、急に疲れてくるようになった。
毎日休むようになり、最近は夜は必ず寝ている。
おかしい、と思ったが、寝ないで歩いた事が異常、ノゾミさんとの生活リズムが普通なんだと、割り切るようにしていた。
雨風がしのげれば、と廃病院に入ったが、ドアが密閉されていたためか、病室にマットがあった。
早速寝そべる。
いつ振りだろうか。
ああ、ノゾミさんの施設ぶりか。
あの時の生活を感じた。
懐かしい。
ゴロウと、布団を、並べた日を思い出した。上に手を上げて、もう寝るぞ、と言ったあの日。それも思い出した。
マナミが暗いの怖い、と言うのを手を繋いで寝かせた。
なんだ、結構思い出すじゃないか。
ふと手を見ると手の甲に皺とシミがあった。
病院でイズミの手を取った時に見た、あの手だ。
おかしい、と思うより、ああやっとか、と思った。
そうか、もう、いなくなったのか。
最後は誰だろう。ノゾミさんかな。
それとも。
傍らのワクチンセットを眺めた。
カバンには穴が開き、中身が割れてなくなっていた。
「なんだ、どっちにしても」
そう言いかけて、止めた。
「ごめん。ごめんなさい。でも、ありがとう」
目を閉じて、ゴロウを、マナミを、イズミを思った。
消えゆく意識の中で曲が流れる。
ーーいつか。
初めて書きました。
あとがきまで読んでくれて、奇特な方でしょうか。