01 序章
「ねぇ、未央。よく聞いて? あの山には、二度と入っちゃダメ。何があっても、絶対に」
病院のベッドにつきながら、母は真剣なまなざしで言った。強く、芯のこもった声だった。
「約束できる?」
「……うん、約束する」
「いい子ね」
それからしばらくして、母は亡くなった。わたしが十一歳のときだ。
死の直前に、母がくれた御守りがあった。わたしはそれを形見として、今も離さず身につけている。
※ ※ ※
由加里の行方がわからなくなって、三日が経つ。不安が胸につのっていた。
最初に異変に気づいたのは、昨日の朝だった。いつもの待ち合わせの場所に、由加里が来なかったのだ。わたしと由加里は、小学校のときからの親友で、いつも一緒に登下校をしていた。なのに、その日は携帯もつながらなかった。
変だなとは思いつつも、わたしは一人で登校した。けれど始業時間になっても、由加里は現れない。心配になったわたしは、担任の先生に彼女のことを聞いてみた。しかし高校にもなると、教師と生徒の関係は希薄で、さして興味はなさそうに、休みの理由は知らない、とだけ告げられた。
結局、午後になっても彼女の姿は見なかった。でも、さすがに連絡もつかないのはおかしいと思って、彼女の家、棚元家に電話を入れてみた。すると、
「実はあの子、昨日のお昼から戻ってないの」
心配そうな由加里の母――美津江おばさんの声。わたしは、胸に不安が広がっていくのを感じた。
「未央ちゃん、何か知らない?」
「いいえ……」
聞くとおばさんは、てっきり由加里がわたしの家に泊まっているものと思っていたらしい。だけどわたしは昨日、由加里を泊めてないし、そもそも外出していたことも知らない。
もしかして、由加里に何かあったのかもしれない。
その日、わたしは心配で夜も眠れなかった。探しに行くべきか、ひたすら悩んだ。でもひょっとしたら、いまごろ家に戻ってて、明日の朝には何事もなく登校してくるかもしれない。いつもの待ち合わせの場所にやってくるかもしれない。
そんな淡い期待が、わたしの胸にあった。けれど、その願いは打ち砕かれた。由加里は翌日になっても、待ち合わせの場所には現れなかった。
いよいよしびれを切らしたわたしは、由加里がいなくなって三日目に当たる今日、警察署の前に立っていた。
この警察署は村の入り口に位置し、案内所の役割もかねている。ここ数年で建造された、真新しい建物。
これも都市開発の波が浸透してきた証だろうか、とわたしは思う。この村も、もともとは母神村という名前だったが、ちょうど二年ほど前に隣町である茂上町に取り込まれ、現在では茂上町母神区となっている。もっとも制度上そうなっているだけで、今でも村の人は母神村の名称を使っているが。
緑の水田と、昔ながらの民家が見える、のどかな村。人口は二百人ばかりで、人の出入りはほとんどない。昨今、地方からの若者の流出が叫ばれてひさしいが、この村では、ほとんどの人が家業を継ぐ。閉鎖的とも言えるが、よそ者に対してはそこそこに寛容であったりする。自然と人の営みが調和した村。それが母神村だ。
そんな村においても、警察は駐屯している。わたしは母神警察署の玄関に立ち、ガラス戸を叩いた。
「すみません」
中で、デスクについていた警察官がこちらを向いた。
若い警官だ。わたしと十も変わらないかもしれない。
署内に通され、わたしは用件を尋ねられた。しつらえてあった丸椅子につき、由加里のこと、彼女の行方がわからないことなどを話す。ひととおり伝え終わると、警官がつぶやいた。
「行方不明ねぇ……」
彼は気だるげに、椅子の背にもたれかかった。
「あの、由加里を探してもらえませんか? 何かよくないことに巻き込まれてるかもしれませんし」
「うーん……」
彼は、デスクの中ほどに視線を落としたまま答えた。
「それは、難しいかもしれないね」
「どうしてですか?」
「事件性がないからだよ。君は失踪事件を疑ってるようだけど、家出の可能性もあるからねぇ」
警官の男は、むしろそのセンが濃厚じゃないかと言いたげだった。
「でも、何かあってからじゃ遅いですし……」
「警察はね、その"何か"が起こってからじゃないと動けないんだよねぇ。せめて事件性があることを、ちゃんと示してもらわないと」
わたしは胸に苛立ちが募るを感じた。
可能性とか、事件性とか、そういう問題だろうか。もしかしたら、人ひとりの身に危険が及んでいるかもしれないのに。
「それにまだ三日ですし、思い過ごしということも―――」
そのとき、背後のガラス戸が開いて、警官は口を止める。振り向くと、見知った顔があった。
「おばさん」
「未央ちゃん?」
おとずれたのは、由加里の母であった。
どうしてここに、などと聞くまでもない。彼女も、由加里の捜索を願い出に来たのだ。
「はぁ……今日は来客の多い日だ」
美津江おばさんを横目で見て、警官はさも面倒げにぼやいていた。
二人目の来訪者ということもあってか、おばさんはかなりぞんざいな扱いを受けた。最後には一応「わかりました。微力ですが、捜索してみます」と約束を取りつけたが、どこまで信用できたものかわからない。
警察署をあとにしたわたしたちは、田んぼに挟まれた道を歩いていた。日がかたむき、水田が赤く染まっている。吹きわたる四月の風。わたしはおばさんを見上げた。
「わたし、村の人に、由加里を見なかったか聞いてみます」
あの警察官は、はっきり言ってあてにならない。ならもう、自分で探すしかない。
おばさんも同じ心境だったのか、
「私も、親戚のほうを当たってみるわ」
と答えた。
さて、二人はいったんそこで別れ、わたしは村の民家をめぐった。二百人ばかりの村では、村人のほとんどは顔見知りだ。
けれど由加里を見かけた人も、居場所に心当たりがある人も、なかなか見つからない。わたしは落胆を繰り返すうちに、希望なんてどこにもないんじゃないかと思いそうになった。けれど、八百屋を経営しているおばちゃんに話を聞いたとき、はじめて有力な情報が飛び出した。
「棚元んとこの娘かい。おととい、うちの前を通りかかったよ」
「ほんとですか?」
「ああ」
「どこに行ったかわかります?」
「いや……それは……」
気の良いおばちゃんなのに、珍しく歯切れが悪くなった。おばちゃんは遠くを見つめていた。わたしはおばちゃんの視線を追って―――気づいた。
「母神山……」
村の背後に横たわる緑の大山。村人に畏怖の念をもって見つめられる巨大な連峰。
由加里は、あそこに行ったというのだろうか。
そのとき、八百屋の奥にいたおじいさんが言ってきた。
「あの子はもうダメじゃ。助からん」
しわがれた声である。わたしは聞いた。
「……どうしてですか?」
「山に誘われてしもうたでのう。ああなってしもうたら終わりじゃ」
わたしはその言葉に妙な説得力を感じて、とっさに否定した。
「そんなことありません!」
そしてショートカットの髪をひるがえすと、八百屋を去ろうとした。
その背中に、
「行かんほうがええ。おまえさんも、誘われるぞ」
と、不気味な言葉が投げかけられた。
わたしは、しばらく歩いたところで立ち止まり、山を見上げる。
母神山……。
夕日に染まる連山。名を口にしたり、長時間見つめたりすることもはばかられるような、禁断の山々。
かつて、この山には山岳信仰が根を下ろしていたらしいが、その指導者と幹部たちが、ある日とつぜん発狂し、信者を惨殺したとされる。村人はそれを「天罰が下った」「"山神さま"に祟られたのだ」として、山と、そこに住む山神さまを、ひどく恐れるようになったという。
またそれから神隠しが起こったり、祟りとしか言えない凄惨な事件が起こったりしたそうだが、はっきり言ってうさんくさい話だし、若者の大半は信じていない。けれど今も村人の一部、特に年配の人たちは、それをかたくなに信じ、山を病的に恐れている。
わたしのお母さんも……。
『ねぇ、未央。よく聞いて? あの山には、"二度と"入っちゃダメ。何があっても、絶対に』
母の言葉がよみがえる。
そう、わたしは一度この山に足を踏み入れたことがある。
でもそのときのことは、ほとんど覚えていない。ただ、とても恐ろしいことがあったという、ぼんやりした感情だけが残っている。
あのときのわたしに、何があったのか。そしてわたしは、何を見たのか。
わからないことは多い。けれど。
「由加里……」
わたしにとって、由加里はかけがえのない友人だ。見捨てることなんてできない。
意を決して、わたしは山の入り口へと向かった。
内容について、ちょこちょこっと修正している部分があります。
なお、ストーリーに全く変化はございませんので、引き続きお読みください。
(念のため、この通知は次章冒頭でも行います)