カスタネットの時間
サンドイッチを買おうとコンビニへ行くと、売り場に見慣れないものがあった。丸くて色とりどりで、端に紐がついている。ひとつ手に取ってみると、つるつるした二枚の木でできている。
「これって、カスタネットじゃ……?」
ミウは頭をひねった。どうしてこんなものが並んでいるんだろう。
サンドイッチを探して歩き、隅の小さなスペースでようやく見つけた。しかし、普通のサンドイッチではない。半開きのカスタネットに、ハムやレタスがはさんである。これも色とりどりだ。ピンクや紫はどんな味だろうと思ったが、結局無難なこげ茶色を選んだ。
買ってからレシートを見ると、ハンバーガー1点、と印字されていた。そういえばこれはハンバーガーだわ、とミウは納得する。木のように見えたけれど、よく触ってみると柔らかい。ピンクや紫を選んでいたらどうだったんだろう、とまた思う。
店を出ると、みかべや社長が立っていた。
「やあ、ミウちゃん。カスタネットを買ったのかい?」
「いえ、ハンバーガーです」
「そうか。カスタネットはいいよ。叩くと気が晴れるし、防犯にもなるからね。うちの社でも、これからは毎日カスタネットの時間を設けようと思うんだ」
みかべや社長の会社は、ミウがバイトをしている書店の隣にある。全国のチラシ配りを請け負う会社で、社員は五人だけだ。
「これから仕事? よかったら乗せてってあげるよ」
みかべや社長はそのずんぐりとした体に似合う、可愛らしい車を持っている。角のとれたデザインの小型バンで、ヘッドライトも丸い。前から見た時の顔が、社長に似ている。
しかし、その車が見当たらない。
「あそこだよ」
道の脇に、半透明の円盤のようなものがある。ライムグリーンで、中には座席が四つ、ハンドルとギアもついている。
近づくと、円盤がぱかっと開いて、小柄な女性が出てきた。社長夫人のふじ子さんだ。
「遅かったわね。渋滞に巻き込まれないうちに行きましょう」
ふじ子さんは白いタイトなワンピースにベレー帽をかぶり、つやつやしたブーツを履いている。ミウを見ると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ミウちゃん! ねえ見て、私のカスタネット素敵でしょ?」
「カスタネット?」
「座り心地もいいし安全なのよ。乗ってくわよね、ね?」
どうやらそこにある円盤のことを言っているらしい。確かに上下がぴったり合わずに半開きで、下側には丸い突起がある。端のほうには、紐もちゃんとついていた。
突起の部分を押すと、蓋が大きく開いた。ふじ子さんは運転席に乗り込む。みかべや社長はミウを助手席に促し、自分は後ろに座った。
「ふじ子さんが運転するんですね」
そうなんだよ、とみかべや社長が言った。
「試しに買ったら、えらく気に入ってね。今じゃ私より上手に操るよ」
座席はゼリーのようにぷるぷるとして柔らかかった。おまけに冷たい。ミウは膝の裏側が寒くなり、スカートを引っ張って包み込むようにした。
ふじ子さんがスイッチを押し、蓋が閉まった。といっても、カスタネットなのでやっぱり閉まりきらない。本当に安全なんですよね、と念を押そうとしたが、すき間から風が吹き込み、声が出なかった。
「ガソリンがいらないから、車よりずっと経済的なの」
「じゃあどうやって走るんですか?」
はははは、とみかべや社長が笑った。
「走るんじゃないよ、跳ぶんだ」
突然、ぶわっとお尻が浮き上がった。透明な機体越しに見える景色が、激しく上下に揺れる。蓋が開いてはまた閉じ、風が吹き込んだ。ミウは前髪とスカートを押さえ、でも、と言った。
「カスタネットって、普通は木でできてますよね。栗とかカエデとか」
「そうとも限らないわよ。ミウちゃんのだってパンでできてるじゃない」
「これはハンバーガーです」
「ほら見て、柔らかいとよく弾むのよ」
ふじ子さんはハンドルから片手を離し、座席をぷにょぷにょと押した。前向いてください、とミウは言った。大丈夫大丈夫、と社長が笑った。
カエルのような動きを繰り返し、カスタネットは進んでいく。ミウは何度も座席の上で滑り、危うくすき間から放り出されそうになった。それでも、跳んで着地するたびにぷるん、ぷるんと音がするのが、だんだん楽しくなってきた。
「上下が触れ合う時に音がするのよ。片側だけじゃ鳴らないの。カスタネットだから」
ふじ子さんはハンドルを切り、器用に角を曲がりながら言った。カスタネットだからね、と社長も繰り返した。
あの社長は誰にでも手を出すから気をつけたほうがいい、とバイト先の先輩が言っていたのを思い出す。
ミウは社長の家を見たことがなかったが、ものすごく大きなお屋敷で、ふじ子さんのほかにもたくさんの女の人を住まわせているという。お手伝いさんじゃないの、とミウが言うと、みんなそろってかぶりを振るのだ。
「きゃ!」
ふじ子さんが悲鳴を上げた。赤いジャージを着た少年が、走って道に飛び出してきたのだ。ふじ子さんはブレーキを踏んだが、間に合わなかった。カスタネットが跳ねた瞬間、ちょうど少年にぶち当たる。ミウは振動で飛び上がった。
カスタネットは大きく揺れて止まった。上蓋の前面に、少年がめり込んでいる。体は横向きで、顔だけこちらを見て、硬直している。目を血走らせ、眉はつり上がって鼻の穴は広がり、さんざんな姿だ。
「あーあ、やっちゃったね」
みかべや社長は中腰になり、歪んだ天井を直した。ミウも壁をこねるように整えたが、少年がめり込んだ部分だけはどうしようもなかった。中から押し返せばいいような気もしたが、何となくためらわれた。
「修理に出せば取ってもらえるわよ、きっと」
ふじ子さんは元気よく言い、ハンドルを握った。ライムグリーンに染まった少年を乗せて、カスタネットは再び動き出す。少年の周りにできていた気泡が、跳ねるたびに拡散していく。
「あの、視界が悪いんじゃ……」
「大丈夫大丈夫。もうすぐ着くわよ」
ふじ子さんはアクセルを踏み込み、スピードを上げた。少年は硬直したまま、壁ごと揺れた。
「それにしても良かったね」
みかべや社長が言った。
「良かった?」
「カスタネットに乗ってなかったら、この子、ミウちゃんにぶち当たってたよ」
なるほど、とミウは思った。カスタネットが防犯になるというのは、こういうことだったのか。
ハンバーガーの包みを膝の上に抱き、前方を眺めた。少年の腕と体の間から見る街並みは、まったくいつも通りだった。
「ミウちゃん、うちの会社で働かない? カスタネットは楽しいよ」
カスタネットじゃなくてチラシ配りでしょう、と心の中でつぶやく。
今日は昼から晴れて気温が上がるらしい。ライムグリーンに慣れてしまったから、外の景色に目がくらみそうだ。いっそこのまま、どこまでも跳ねていけたら楽しいのに、とミウは思った。