邂逅2
置いてきた馬車へ戻るため、足を縺れさせ、何度も転びながらも木々の間を走る。あの惨状を作り出した元凶が何かなどは考えたくもないし、いつ何がきっかけで肉塊と化した人間の仲間入りをするか分かったものではない。とにかく身の安全を確保することが先決だという判断を下すとともに、『荷物』の安否の確認が取れるならば、それで良かった。あれは雇用側への交渉材料にもなるのだから。
一度ならず二度までも、山を無事に越えた男は己が幸運に身を震わせ、街へと戻ると息を潜めた。いつかかならず大金を手にするのだと。
そうして、三月と少しの時が過ぎた頃、街の片隅で身元不明の死体が見つかった。
首と胴体が突如分断され、四肢が無い肉塊。この猟奇的な事件を憲兵らが神経を擦り減らしつつ捜査をするも、実態は掴めず、成果といえば無惨な姿になった人物を特定出来たことだけだった。そして、目撃談で浮上したはずの馬車はどこにもなかった。
木漏れ日の心地よい昼下がり、鮮やかな赤色をした瑞々しい果実が一つ、ぼとり、と落ちた。落下の衝撃でも実がひしゃげなかったのは、ある程度の固さを保有していたからだろう。
「……雛鳥よ、そろそろ降りて来てはどうだ」
溜息混じり、そんな声が響いた一拍後、生い茂る緑の葉を数枚散らせ、『ヒト』が落下した。それは見事に顔面からべしゃり、と。憐れにも無様な姿に声の主は今度こそ深い深い溜息をついた。
「痛い」
「そうだろうな」
「痛いよ、主」
「そうだろうな」
「いた……」
「良い加減その無様な姿を晒し続けるお前の図太い精神を心配しても罰は当たるまいよ。早くめり込んだ顔を上げろ、雛鳥」
ばっさりと訴えを遮り、呆れた声音の持ち主の言葉通り、と言うには些か疑問が残る姿ーー尻をずりずりと上げながらーーようやく地面から顔を上げた『ヒト』の鼻と額は、強打した為に赤くなっている。白い髪と白い肌が一層赤色を強調し、澄んだ黒曜石の瞳は打ち上げた痛みに涙を湛え、煌めいていた。ボロ布から覗く手足は今にも折れそうだが、決して非力ではないことを主と呼ばれたものは知っている。
「雛鳥、こちらにおいで」
女性的でもあり男性的でもある不思議な響きに求められ、ぐずぐず鼻を鳴らしていた『ヒト』が立ち上がり、声の元へと足先を向けた。
そこに存在したのは、毛足の長い白い虎だった。悠然、威厳、神秘的、讃える言葉は数多くあるだろうが、その姿を見た者はそう多くはない。森の主であり、人が精霊と呼ぶ不可視のものを統べる主、精霊王、それが彼の存在を指し示す固有名詞。
この森は精霊の住処であった。遥か昔からそうであり、今もまた変わらない。時に旅人や商人が、時には知識欲を満たそうとする学者や研究者が、またある時は冒険者や好奇心に駆られた人間が、森に入ろうとする。しかし、人の臭いが深緑の香りを侵すことを良しとしない精霊王による強力な結界が張られているために、森の奥深くまでは到達出来ず、迷いに迷って森から吐き出されるのだ。
ならば何故、『ヒト』の形をする雛鳥は森の深部、あまつさえ精霊王の目の前にあることを許されているのか。それはただ、絶対の存在である王が赦しているからに他ならない。
「主、今日は出掛けるんじゃなかった?」
敬うべき相手の前にしゃがみ込むと、膝を抱えて問うた。不敬、とも取れる姿にも王は何も言わない。そればかりか、目の前の雛鳥の打ち付けた顔面を大きな舌でべろりと一舐めする。
「そのつもりではあったよ。しかしな、呑気に出掛けることもままならぬ客が来た」
客? 首を傾げる雛鳥の正面、やれやれ、とまたしても溜息をつく精霊王の背後の空間に突如とヒビが入った。徐々に亀裂が大きくなり、瞬く間に硬質な音を響かせて弾けた。雛鳥は声も出せず、ただ目を見開いて展開される光景を見た。
「結界を無理矢理壊すなどと無粋なことを」
「黙れ! 貴様、我等が兄弟を舐めるとは何たる……ッ!」
「げ。魂の癒着が完了してやがる」
「あーもー、やっと見つけたー」
現れた三者は各自好き勝手なことを口にした。