邂逅
肺が潰れそうだ。足にも踏ん張りが利かず、何度も膝が崩れそうになる。足の裏は既に皮膚が破れていた。それでも逃げなければいけなかった。
生きるために。
ガタガタと揺れる心地の悪さに意識が浮上した。眠っていたのか気絶をしていたのかは分からないが、深い水底から水面を目指している、そんな感覚だった。鼻を突く異臭、身動ぎひとつするのが困難なほどに窮屈な態勢と張り付く不快な体温、そして両手首と両足首にある冷ややかな重量感。瞼が震え、目が開く。視界に入ったのは、手枷とぼろ布。
「……っ!?」
息を詰まらせるだけで声が出なかった。それはそれで今の状況からすれば幸運であったのだが、本人にしてみれば混乱状態に拍車をかけるだけだった。
訳が分からない。当人は忙しなく首を振ろうとする。周囲を見渡そうというのだろう。だが、それすら制限される人の多さに心臓が早鐘を打つ。見える範囲の情報だけでも、と視線を動かすが、誰一人として言葉を交わす者もいない。むしろ、表情、いや瞳と言うべきか、それとも発する空気か。とにかく、彼らからは生気が感じられないのだ。
途端に恐ろしくなった。自身の置かれた状況下を理解出来ないことも要因ではあるが、枷を嵌められ、まるで獰猛な動物を入れておく鉄柵の檻のような入れ物に入れられ、周りには土人形と言っても差し支えない顔色をした存在たち。
状況把握に努めようとするも、纏まらない。混乱した頭で分かることは、不快な揺れが自分たちが何かに乗せられ、移動している、もしくは移動させられていることのこの二点だけしかわからない。枷がある時点で自発的ではないため、”させられている”後者だろうと検討はつく。
だとすれば。
一体何だというのだ。
ここは何処なのか。
どうして押し込められたようにしているのか。
何故枷を付けられているのか。
何処へ向かっているのか。
周りの人間の様子がおかしいのは何故。
分からない、理解出来ない、怖い!
イヴァヤダール帝国から東へ。サリュー山脈と言われる標高の高い山々が連なる地帯を馬車は歩みを進めていた。もう半日もすれば国境。そうすれば、後ろの『荷物』を無事に引き渡すという仕事が済み、たんまりと金が入るのだ。それに運も良い、と御者の男は卑下た笑みを浮かべ、丸まった背中を引き攣った笑いと共に揺らす。天候にも恵まれ、誰とも擦れ違わない。
もう少しだ。もう少しで金が入る。
山の天気は気紛れ、それはサリュー山脈も例外ではない。それは御者の男も知っていた。だが、麓の集落の人間からは『神々の寄り山』と称され、敬い畏れられるこの山は甘くはない。だからこそ、この仕事の順調さに笑いが止まらなかった。
「おいおい、聞いてるか!? オレァ今日から金持ちだ! 大金が手に入るんだぜェ? 借金だって明日にゃチャラだ、チャラ! しかも返しても有り余る金だァ、どうすっか……酒、博打、女、ひひっ。俺をゴミみてェに扱いやがったアイツらを這い蹲らせてやるッ!! ぐひっ、ひひっ、ひひひ」
誰に向けるともない大きな独り言を叫び、懐にしまっていた携帯用の酒入れを取り出し呷る。
背の高い木々が少なくなり、鬱蒼としていた緑が随分と減った。森が終わる。剥き出しの山肌が目視出来ることは、いよいよ仕事の終盤を迎えたと知らせるもので。崖沿いに造られた迂回路を通り、国境を越えた先の小さな森に引き渡し相手がいる手筈になっている。いや、己の人生をやり直せるほどの報酬が待っているのだ。手綱を今一度握り直し、男は二頭の馬に先へ行くように指示する。慣れた手綱捌きはかつて貴族の専属御者をしていたからなのだが、その頃の面影は、既になかった。
辺りが薄暗くなる頃、男は小さな森にある巨木から離れた所にいた。馬車はなく、男一人。国境を越えて半刻した頃だろうか、馬が踏鞴を踏み、先へ進むのをどうしても嫌がったためなのだが、理由は目の先に広がる光景にあった。
取り引き場所に近付くほどに感じた違和感が不安へと変わり、悪態が止まる。嗅ぎ慣れない異臭が濃度を増すと共に、男の足運びが遅くなっていく。漠然とした不安感に絡め取られつつも木々に隠れ、様子を窺いながら進んだ先は、澱み充満する鉄錆の濃い臭いと、一面の緑を黒が飛び散り覆っていた。かすかに差す光に照らされた箇所には、滴る赤。途端、脂汗なのか冷や汗なのか、その両方か、全身の汗腺が開き、汗が噴き出る。暑くはない、むしろ血の気が下がった今は寒い。心臓はそのまま破裂してしまうのでは、というほどに脈打ち、胃からせり上がるものを押さえられない。力が入らず、尻餅をついた。取り引き場所を間違えるはずはない。小さな森の中の開けた一角、そこにある空が三つある特徴的な大木が目印と指定を受けたのだから。
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初めまして、小畑おはぎと申します。
こちらで読ませて頂いた作品に影響を受け、自分のイメージや言葉を文章化するという慣れないことを始めました。不束者ですが、楽しんで頂けたらと思います。更新速度は……遅筆だと自負しております!
一週間に一回は更新していく所存です。その間に手直しやら加筆やらがしがしやっていきます!た、楽しみながら更新が目標。
それでは、お楽しみ下さい!(2014.9.5 小畑おはぎ)