幕間 〜軍神と慈愛の女神と天使の雛たち・中〜
「マアマ!」
肩の上で叫ぶ声はママと言ったのか、それともマンマと言ったのか。どちらだったのか分からないが、両肩のちびっ子どもは家の裏手に出てきたヘスティアをちゃっかりと見付けていた。駆け回っていた子供たちもすぐにそれに気が付き、一斉に彼女の下へと駆け寄って行く。両肩の二人も髪を強く握ってぐずりだすので、丘を下り家へと戻った。
大きなテーブルに4人がかりでクロスをかけ、また別の子供たちがキッチンから料理を運び、また別の子供たちはコップにミルクを注いで回り、また別の子供たちがどこからか椅子を運んでくる。そうしてあっという間にテーブルは整った。
「頂きます!」
大合唱の後の騒がしさは戦場の最前線にも引けを取らない。上品さは欠片もないが、同様に寂しさだって微塵もない。簡素な食卓は笑い声に彩られ、一斉に咲いた満開の花で埋め尽くされたかのような華やかさだ。人の噂に聞く、秘密の谷間の極小の楽園とはきっとこのようなものなのだろう。
フォークを握って止まったままだった手に、ヘスティアの目線が注がれているのに気が付く。
「それだけじゃマルスには足りなかったかしら?もし良かったら、私の分も食べて?」
横から勧められた皿には、半切りにされたパンケーキが一切れ。自分の目の前の皿にも、同じく。
「この家じゃ、出された料理は残さずに食べないと叱られると記憶しているんだが、この場合、誰が叱るんだ?」
「んふふ。そうね」
大人しく皿が引っ込められる辺り、手が止まっていることが気になっただけで、最初から本気で言っているわけではなかったようだ。
テーブルをぐるりと見渡して、視線が再び自分の皿に戻る直前に、彼女が心配そうに覗き込んでいるのが目に入った。
「どうかしたの?」
「ん。まぁ、食事中に話すことでもないな」
確かに気になっていることはあるが、それを口にしてこの賑やかな食卓に水を差すのも憚られる。
「そうね。お食事は楽しく頂くものよね」
一般的にはもう少しお行儀よく頂くものではないかとも思う。だが、一時のこととはいえ、自分の顔色が彼女の食卓を蔭らせてしまったことを思えば何も言えず、黙って彼女の流儀に従うのだった。
子供たちは無秩序のように見えて実のところ、恐ろしいほどに統制がとれている。よく訓練された軍団でもこうはいかないだろう。食後の後片付けも割って入る隙もなく、あっという間に終わっていた。
食事の後はお昼寝の時間だ。寝室ではあちこちから安らかな寝息が立っている。一回り年上のテクだけが起きていて本を読んでいた。
こうして改めて見ると、天使の雛たちの数は随分と減っていた。それがヘスティアにとっていいことなのかは分からないが、年長者ばかりが軒並みいなくなっているのは、あまりいいことのようには思えない。
リビングに戻ればヘスティアは刺繍をしていた。一針一針慈しむように動かす度、彼女の赤い髪が揺れて、窓から射し込む陽の光に煌めく。その穏やかな横顔はどれだけ眺めていても飽きが来ない。だが、そうやってただ眺め続けているわけにもいかない。声をかけようとして、しかし何と声をかけたものか、言葉を探してしまう。
「大変だな」
しばらくの逡巡ののち、口からこぼれたのは、先程テクの前でこぼしたものと何ら変わらなかった。結局、そんなありきたりの言葉しか出てこなかった。
「それは当たり前でしょう。子育ては何時だって戦場よ」
んふっ、と小さく笑うとヘスティアは針を留めた。
「戦をするなら、手は足りているんだろうな?」
訊いてみればヘスティアは口元を押さえて可笑しそうに笑う。
「ありがと、マルス。心配してくれて。でも大丈夫よ。皆が手伝ってくれるもの」
「リコもモナも卒業していったと聞いたぞ?今、他の子供たちの面倒をみれるのはテクくらいしかいないのだろう?」
更に尋ねてみてもヘスティアは、人の心配をよそに笑うばかりだ。まるで心配無用とでも言いたそうだ。或いは、心配すること自体がそもそもおかしいとでも言いたいのか。
「大丈夫。皆が、って言ったでしょ?それに、私が好きでやっていることなんだから、そんなに心配されても困るわ」
そうは言っても。彼女の神性の本質は“慈愛”、無償の愛だ。ともすれば己を顧みない危うさを孕んでいる。度を越さないよう、誰かが見守り、時には制止せねばなるまい。
膝の上に置いた縫い針よりも細い目が、こちらに向けられていた。
「マルスも、いつもありがと」
「俺は……そんな大したことはしていない」
小さく首を振って応える。
優しい微笑みと共に真っ直ぐに感謝の念を向けられても、俄かには受け取り方が分からなくて困ってしまった。
「えぇ。誰だって、みんなそうよ。誰だって出来るのは小さなことだけ。でもその小さな力を持ち寄って、積み重ねていくことで、大抵のことは乗り越えていけるの。あの子たちもそうしていたでしょ?一人で全部やる必要はない。各々が少しづつ自分に出来ることをやっていけば、自ずと道は切り開けるし、困難も乗り越えてゆけるの。
――マルスは、乗り越えられそう?」
「乗り越えるって、何を……?」
ヘスティアの言葉に戸惑う。その言葉の意味するところを察して、そして自分が見透かされていることに気が付いてさらに戸惑う。二の句が継げずにいたら、ヘスティアが静かに笑った。
「随分と長いこと、マルスのことを見てきたんですもの。そのくらい分かるわ。また、一人で抱えこんで、行き詰っている。私でよかったら、話を聞くことくらいは出来るわよ?さぁ、天下無双の軍神様は何にお困りなのかしら?」
「……どう足掻いても貴女には敵わないらしいな」
茶化すヘスティアはご機嫌な様子で居住まいを正した。この分では、悩みの種が何かまで全部筒抜けなのだろう。そうは思っていても、これで自分で言葉にできなければいささかみじめだ。
思い切って、今自分が抱えている悩みを打ち明ける。
「神の賜物の娘たちは、何とかならないのか?」




