この夜明けで最後にしよう
私の姿を、鏡の中ではあるが視界に収めた彼女は些か驚いていた。予期しない出来事に、若干表情が引き攣った様子だ。目を大きく見開いている。しかし彼女の動揺を微塵も気にせず、行動を開始した。台の上の、ヘアブラシ。彼女を想って、購入したもの。自分が置いた場所と少し位置がずれているのは、恐らく彼女が手に取ったからだろう。私の願望を叶えるべく用意したそれを。
片手にブラシを、もう片方には一束の黒髪を。ゆっくりと、ブラシをあてがう。「その子二十櫛にながるる黒髪の……」そんな一節が思い出されるほど、彼女の髪はうつくしい。
まだ少し水気を帯びた一本一本が、絡まることを知らないで柔らかい植毛の間を通る。滑らかな艶髪は、正に最高の美の結晶だ。色白で容貌の整ったうつくしいひとにはよく似合う。
何度も何度もブラシを動かす。その一連の動作を彼女は食い入るように鏡の中、目で追う。何を考えているのか解らない、といった風情だ。不安げに黒い瞳孔が、揺れる、揺れる。
嗚呼、そんなに怯えないで。もっとこころを開いてほしい。
ヘアブラシを握る手の動きを停止させた。
***
不意に男が髪を梳くのを止めた。何かされる、瞬時に予感が脳を掠めたが、手遅れだった。
骨張った指先が、私の髪を少しだけ掻き揚げる。後ろで立ったままの男の顔は、背が高いせいで鏡面の外。表情が伺えず、余計恐怖が増した。愛しむような手つきが私の混乱に追い打ちをかける。心臓を煩くさせながら、次の振る舞いを見落とさぬよう身構えて目を凝らす。
突然、腰を曲げた男の唇が摘ままれた髪に降ってきた。軽く、触れ合う。思考を奪われ、ただただ硬直するばかりだった。鏡の向こうの出来事だと一瞬現実逃避をしかける。しかし、男の優しい声がそれを許さない。心地よい低音が体中に鎖のように巻きつき私を拘束した。
――――The rose is red,
The violet's blue;
Pinks are sweet,
And so are you!――――
流暢な英語で、これ以上無い笑みで詩を吟じられては堪らない。くらり、とよろめきそうになるのを寸でのところで理性が防いだ。だって、こんな、犯罪者!
容姿が人並み以上に整っている分、余計性質が悪い。気障な行為に早鐘のように鼓動が脈打つ。嗚呼駄目よ駄目よ駄目よ。絆されてしまっては!
「伊織と申し上げます。私の、うつくしいひと」
放心状態の私に、なんとかその名は届いた。
余韻を残すのがなんて巧いのだろう。引き際を理解している。〝伊織〟はヘアブラシを丁寧に鏡台に置き、背を向けて。扉の傍で振り返ってから「また明日」、更に私のこころを掻き乱した。
鏡から消える姿。首を廻すことも出来ない。「うつくしいひと」その一言がずっと耳の奥で木霊した。完璧には程遠い判断力で、あの詩を反芻してみる。
あれは、私への告白、と自惚れてもいいの?
***
やっと云えた。私の本心、私の本音。「うつくしいひと」と、ただ一言。背を向け歩き出す刹那に盗み見た彼女のうろたえた姿を見る限り、あの詩の意味も通じただろう。聡明な方だ。
明日、彼女はどんな反応を見せてくれるのだろう?
嫌悪感を露わにするのだろうか。無視をされるのだろうか。どちらも現実になれば大層恐ろしい。そかしそれよりもずっと、自分に靡いてくれるだろう自信があった。明確な理由は無い。けれども何があっても、私と彼女は結ばれるべきなのだ。
此れ程までに長い夜は未だ嘗て体験したことは無かった。「また明日」と云った手前、廊下を引き戻し彼女に会いに行くのはあまりにも恰好がつかない。
だからせめて、早く朝よ来い。一刻も早く、彼女の瞳に映りたかった。
文中の「その子二十~」は与謝野晶子の短歌から。
英語の詩はマザーグースの「バラは赤い」より。この世の当然のごとく貴女は甘やかで素晴らしい~といったニュアンスで捉えて下さい。