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愛が呼吸する

 生理的欲求には逆らうことは不可能だった。そろそろと皿に手を伸ばし、フレンチトーストを摘まむ。食べたいような、食べたくないような。葛藤と云えば大袈裟だが、似たものを抱えながら一切れ口へと運んだ。ほのかに甘く、空腹が癒される。

 そのまま促されたように、止まることを知らないように食事を次々と咀嚼し呑みこむ。食べ終えてから、ばたりと後ろのベッドに倒れた。餌付けされたようで、気分が悪い。犯罪者の作ったものをどうして口にしたのか。さっそく後悔しそうだ。

 真上の天蓋をぼぅっと見つめる。どうやら、向こうに敵意はなさそうだ。見かけ上の話だけれども。手荒な真似はしないと云っていた。一体どこまでこの科白を信じればいいのだろう。今はそうだとしても、明日は違うのでは? そもそも、信じるという前提が狂っているのだ。ぐるぐると、一人考えを巡らす。

 二度とも男が出た後には、鍵をかける音が微かにだが耳に届いた。やはり、私は閉じこめられているのだろう。文字通り、監禁されている。

 眩暈と心労がどっと津波のように気だるい躰に押し寄せてきた。腕で両目を隠す。長い溜息がついて出た。窓は嵌め殺し。扉は施錠。外と完全に謝絶された煌びやかな部屋から逃げ出せる手段はどう見積もっても皆無だ。

 そう云えば結局一日ベッドの上にしかいなかった。沈めた背中を柔らかなベッドから起こし静かに立ち上がる。素足が絨毯に少し埋まる。触り心地がよく、きっと高価なのだろう。

 何か相手の素性を知る手がかりがあるのでは、と首を廻す。昨日確認した鏡台の他に、クロゼットにチェスト、本棚とデスクが置いてあった。上質な材木……恐らく、マホガニー製。サイドテーブルを過ぎて、まずは真向いの壁際、鏡台へと進んだ。三面鏡で、背凭れのない引き椅子がセットされている。引き出しの中は空っぽで、台の上には毛質の良いブラシのみ。男性用とはとても思えない。まさか、私のために……? そこまで思い至って、思わず手にしたブラシを投げ捨ててしまった。そんな訳の分からない気遣い、不気味なだけだ。

 今度は隣のクロゼットに近づく。閉じられたドアの中身は見当もつかない。それ故、ドアを開いてみるのが恐ろしく、また、躊躇われる。意を決してみれば、そこには空間一杯の服。見事に女性用の衣装ばかりがハンガーに掛けられ、きちんと並んでいた。清楚なイメージが漂うワンピースタイプの白い洋服。どれも新品らしく、皺一つ無い。いずれも私好みだ。今着ている私服も同じような趣旨なので、攫った当時に私の趣味を把握して、それから買い揃えたのかもしれない。途端に、云いようのない悪寒が走る。猛烈な嫌悪感がこみ上げ、これ以上は無理だった。クロゼットに倣いチェストにも白を基調としたアクセサリーが収納されていた。色とりどりの宝石も、不用心に収められている。

 本当に一体、あの男は何をしたいの? 着せ替え人形でも欲しいのだろうか。それで、誘拐までしたの? いくらなんでも、突飛すぎただろうか。自分の思考回路のおぞましさに多少震える。

 踵を返せば、今度は本棚。整頓された背表紙を右から左へと指先で順々になぞってみる。私より背丈の有る本棚は、全部で五段に分けられていた。上二段には日本の近代文学作品が所狭しと並んでいる。森鴎外、泉鏡花。谷崎潤一郎に夏目漱石。太宰治に坂口安吾、それから芥川龍之介。著名な作家は一通り集められており、著者名であいうえお順に陳列している。作品を幾つか収録した短編・中編集にふさわしい厚さで、しかも年季の入ったハードカバータイプとなれば壮観だ。

 残り三段は外国の作品で埋め尽くされている。横も縦もある本棚の隅から隅まで本を仕舞ってあるとは。蔵書量に舌を巻く。

 しかもどうやら背表紙を見る限り、原文のようだ。異国語を読めるほどの知識が誘拐犯に有るのだろうか。英語ではないアルファベットの綴りや、最早アルファベットでもない文字の羅列を。部屋の装飾からして生まれは良さそうだ。垣間見せる品の良さからしても、それなりの教育を受けてきたのかもしれない。しかしそれなりの教育を受けてきた者が人攫いなんてするのだろうか。しゃがみこみ下段の文字を目で追いつつ考える。すると、見知ったスペルで好きな名前が視界に飛びこんできた。マザーグース。躊躇い無く、と云うより思わず反射で比較的薄い一冊を抜き取る。なんとも言えない匂いが鼻をついた。今の時代にそぐわない古さのそれには読みこんだ痕がしっかり残されている。埃を被って黄ばんだ本の天に息を吹く。ページを開けば、まるで見知らぬ土地にいて心細い私の目の前に頼れる知り合いががふと現れたような安心感が訪れた。

 英語を少し齧った身なので、横文字を目で追い理解するのは難しいことじゃあない。腰を落ち着かせようと本を片手にベッドに戻る。大まかに和訳しながら読み耽っていれば、日が暮れかけていた。夕陽が部屋中に広がる。それから、鍵を廻す音を拾った。思った以上にこの耳は過敏になっているらしい。解錠の音が一種のトラウマになりつつある印だ。

 私は逆らう術を知らないで、定められた事項のように扉へ目を向けた。


***


 相変わらず彼女はベッドの上に佇んでいた。しかし、部屋の中を行き来したのだろう。ベッドの淵から零れた裸足が辿る膝の上には、一冊の本が広げられていた。


「何をお読みで?」


 問いかければ、少しの沈黙。まだ彼女には敵意が残されているようだ。しかし、不利な立場で反抗的な態度をとるのも憚れたのだろう。ページに意識を向けているように装い、明らかに顔を見るのを避け答えた。「マザーグース」短く、素っ気無く。成程、彼女は私と嗜好が似ているのかもしれない。数ある書籍の中から其れを選ぶなんて。運命的だ。


「読書中に失礼ですが、風呂を用意しました。身なりの方は女中に任せてあります。宜しければ」


 私の言葉を皮切りに、二人の女中が背後から現れる。彼女が幾分驚いた表情を見せた、気がした。女中が並んで歩き、彼女に近付く。歩幅の揃った歩きは眺めていて見事なものだ。戸惑うように大きな黒眼を泳がす。やがては意を決したかのように唇を引き締め、緩慢な動作で彼女は腰を上げた。本はそっと、自分と入れ替わるようにベッドの上に置く。

 やはり女性にとって、不潔の二文字は許せないのだろう。私としてはどんな彼女でもうつくしいと愛でる所存だが、そこら辺は男女の違いだ。口を挟むまい。

 揺れる黒髪に見蕩れながら、女中に挟まれ移動する彼女を見送った。


***


 シャワーを浴び、湯船に浸かり。此処に来て初めて私は落ち着けたかもしれない。安堵の息を吐けば、益々無防備な裸体はリラックスする。 

 ある程度予想はしていたが、浴室もやはり広いの一言に尽きた。

 汗をかくような二日間では無かったが、垢は溜まる。不快感を綺麗さっぱり排水溝に洗い流して脱衣所へと出た。目につく所に、タオルと着替えが用意されていた。明らかに先刻脱いだものでは無いワンピースを含む着替え一式。どこの馬の骨とも解らない男が手配したのかと思うと、自然身につけるのに抵抗がある。しかし丸裸で何時までも此処に居るわけにはいかない。無口な女中二人が用意したのだ、と信じて手足を通すことに決めた。

 一人で戻れる、と廊下で待ち構えていた女中に断って歩き出した。向こうも作り勝手が分からないこの館(出回ってみてそう表現するのが相応しいと実感した)から逃げ出せまいと踏んだのかどうかは知らないが、ただ頷くだけでそれ以上の言及はしなかった。

 夜を伝える窓と、幾つもの絵画が飾られた長い廊下を進む。ほぼ一本道だったので迷うことは無かった。どれも同じような扉が並ぶ中、記憶を頼りに目星をつけたドアノブに手をかける。大人しく部屋に戻ってきた自分に軽く呆れる。しかしどうしようもない。諦めてがちゃりとノブを廻し一歩室内に踏み入れば、湯で温まった躰は急速に冷めきった。

 窓辺に例の男が佇んでいたのだ。部屋を出る直前まで私が読みこんでいた詩集を広げながら。

 後ずさる私に気付いた男は、にこり、と微笑む。不覚にも、心臓が跳ねてしまった。闇夜を背景に窓辺に寄りかかる男の立ち姿は素直に「うつくしい」と思わせる魔力を潜めている。

 一言で表すのなら中性的、とでも云うのだろうか。長身で細身の男の髪は一般的に考えると世の常より少し長い。ここが一番、所謂女らしさを醸し出している。目は知性を携えた涼やかな黒色。線の細い端正さで顔のパーツが構成されていた。油断すれば、意識の全てが目となり相手を見つめてしまう。


「お掛け下さい」


 笑顔のままの男に、何処へ。そう咄嗟に言葉を紡ぎそうになったが、指先で場所を示されたため口を噤んだ。男が指したのはは、鏡台の椅子だった。

 逆らわない方が身のため。従順に指示を仰ぐ。

 何をされるのだろう。躰を強張らせていると、さも当然と云う確かな足取りで背後に男がやって来た。

フレンチトーストをフレンチートストと打って原稿を提出してました。しかし誰も変換ミスに気付かないっていう。

カタカナは苦手です。

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