溶け出すのを待って
二度目の目覚めは空腹からだった。
あれから混乱に身は疲弊し、抗いがたい睡眠欲に負けてしまった。本当は、知らない場所で無防備になんてなりたくなかったのに。
今は何時なのだろう。寝たまま顔だけを動かし、窓の向こうの空に目を向ける。日が高いから、昼頃か。当たり前だが、丸一日何も口にしていない。拉致監禁されている身分だから仕方ないと腹を括ることにした。
期待をしないでいれば、横になったままの躰に急速に不安が押しかけてくる。これから一体、私はあの男に何をされる? 金も権力もない女を連れ去って、どうするつもりなのだろう。動機が見えないというのは恐ろしいものだ。身代金目当てなら金を払えばいい。だが現状、それを生かした逃げ道も用意できない。最悪、殺されるのかもしれない。頭によぎった考えを振り払うごとく、がばりとベッドから勢いよく起き上がる。見計らったようにこの豪勢な部屋に引けを取らない扉がノックされた。心臓が嫌でも跳ねる。
どうか、来ないで。
***
逸る気持ちを抑え自由な片手で扉を開けば、シーツの上で彼女は深刻な顔をしていた。曇り一つなく磨きあげた窓ガラスから高い昼の光が差し込み、神聖に彼女を照らす。聖母のようだ。私のマリア。その響きがなんとなしに気に入った。
「食べるものを持ってきました。昨日から何も口にしていないでしょう? さぁ、遠慮せず」
毛の長い絨毯に足音は吸われる。無音で近づけば、うつくしい人は脅え一色に染まった。釘づけになった視線が心地よい。いま、この人の脳内は私で占めているのだから。私だけを見ていてくれるその至上の心酔。何物にも代えがたい。
こちらも一心に相手を見つめつつ、手の上の銀のトレイをサイドテーブルに乗せた。四角い枠の中には、白い皿がそれぞれ並ぶ。フレンチトーストに丁寧に切り分け皮を剥いた林檎、黄色いスクランブルエッグ。鮮やかな赤いトマトが映える、緑のサラダ。それからコップ一杯のミルク。絵に描いたように健康的な朝食だ(いや、もう昼食か)これら全て、彼女の為だけに私自らが用意したものだ。
「要らない、です」
強張った表情で、それでも明確に彼女は拒む。如何にも怒らせないようにと気を張っているのが丸解りの話し方だ。「毒なんぞ混ぜてませんよ」そうは言ってみるものの、彼女は顔を俯かせ膝の上で白くなるまで強く拳を握るだけ。視線を下げたその瞬間、はらり、と黒髪が肩から流れた。無意識にその一連のうつくしい動きに魅入る。そうじゃない、思い返し、気付かれないように溜息を零した。中々に彼女と云う砦は手強そうだ。疑いが強いのだろう。当たり前といえば当たり前か。私は彼女を知っているけれど、向こうには赤の他人同然なのだから。一先ず、私がここにいては決して食事を口にしてはくれまい。うつくしい人の食事する姿を見られないのは残念だが、今日は諦めることにしよう。でも、いつかは必ず。
腕を伸ばし、項垂れた頭に被せる。「是非、食べてください」たった一言、優しく云い残して。掌を肩まで滑らせてから、背を向けた。
***
一瞬、影が顔にかかったかと思うと、低体温が頭皮に触れた。思わず顔を上げそうになったが、大人しくしていなければ何をされるかなんて分からない。肩を小さく揺らす程度に抑えた。そのままするすると掌は慈愛に満ちた手つきで降下し、最終的には髪を撫で肩に到着した。暫く其処にあったが、それ以上何をするでもなく男の手は離れていった。
ほ、と胸を撫でおろす。ほんの少し躰を弛緩させ、男の目がもう此方に向いないことを確認すると、無骨な指先が触れた位置に、そっと自分の手のひらを重ねてみた。全身で警鐘が鳴り響く。
駄目だ、惑わされるな。少し優しくされたからって。
あの男は、犯罪者、なのだから。
***
本能のままに目の前のうつくしさの典型に触れていた。
跳ねた華奢な肩に、丁重に扱わなくては、という使命感が湧く。この人のうつくしさは、硝子細工のように脆く、儚いのだろう。
廊下の真ん中で、動かしていた足を止める。じっと指先に目を凝らす。
確かにあの時、そこには手放したくない温もりが皮膚を通じて存在を示していた。
私自ら用意した~なんて得意気だけど、別に大したもの作ってないっていう。