君をシアンに溶かす
名も知らぬ彼女は目を覚ましただろうか。
そんな期待を胸に扉を前に引いた。望み通り起き上がっていた彼女は音に反応してこちらを振り向く。その大きな黒い瞳は明かりの少ない夜の中、はっきりと見開かれていた。腰まで下ろした長髪と双眸は闇よりも重く濃い色をしていると遠目からでも伺える。何から何まで自分好みのうつくしいひとだ。後ろ手に扉を閉め、ぎこちなさを自覚しながらも微笑んでみせた。警戒心を隠そうとしない彼女を、少しでも安心させるために。
「お早うございます……でいいのかな? 初めまして。あなたをここに連れてきた者です。今日から一緒に暮らしていただきます。よろしくお願いしますね」
努めて丁寧に伝えたつもりだが、それでも彼女の顔には怯えの色が広がる。
「つまり、それは」彼女は声帯を震わせ、希望に違わぬうつくしい声を奏でた。
***
「誘拐された、と云うこと?」
喉の奥を振り絞り何とか音となった言葉は、緊張のあまり無様にも掠れていた。月明かりがうっすらと男の色白の肌を照らす。青白い月光の中ぼんやりと輪郭が浮かび上がる男は意味深に口角を上げた。肯定の意味なのだろうか。信じたくはないけれど、状況が抗いようのない現実を形成する。
「正しくは誘拐……さらには監禁、と云ったところです」
穏やかで、物静か。万人に好かれそうな雰囲気だけれども、きっとこれは嘘。私は心底ぞっとしたのだから。
だって、異常過ぎる。口調こそ表現に当てはまらないが、正に「意気揚々」と犯罪行為を告白するなんて。
防衛本能が働いて無意識にシーツを胸に手繰り奇せる。かたかたと躰が慄き始めた。正真正銘の恐怖が、全身を駆け巡る。
「大丈夫。手酷くするつもりは毛頭ないですよ」
下手をすればうっかり見惚れてしまいそうなほど柔和で人当たりの良い笑みが、更に私の肌を冷たくなぞる。恐ろしいのに、うつくしい。いいえ、恐ろしいから、うつくしい。きっと、神話に登場するようなうつくしい魔物はこんな「魅」を備えているのだろう。
見入っていたのか、怯えていたのか。視線を逸らせないままでいれば、もう一度男は私に優しく笑いかけ、その長身を室外へと消した。
ボーイミーツガール(違