僕と、猫と、彼女と。
嫌な夢を見るようになってから、もう一週間も経つ。理由は分かっている。それでも、僕にはどうしようもない。だから、僕はこの一週間、出来るだけ考えないために、必死になって働いた。そして、家に帰ると死んだように眠った。それが僕の生活のすべてで、そうすることで胸の痛みは少しだけ軽くなった。でも、僕はそのせいでとても疲れていたし、精神的にもとても参っていた。僕の生活は、ゆっくり死んでいくことに似ていた。望んだ忙しさの中で、心がだんだんと何も感じなくなって、無感覚の中でユラユラと漂って、僕は死体なる。自分で選んだゆっくりとした自殺。死は今の状況より、幾分ましなものに僕には思えた。
昨日も夜遅くまで働いていたから体がだるくて、休日の今日は昼ごろまで寝ているつもりだった。目が覚めるのが怖かった。自由な時間になると、彼女が出て行ったことを僕は思い出してしまう。彼女との思い出の品は、みんな一週間前に捨ててしまった。そうすることで、少しでも早く忘れてしまいたかった。写真はみんな灰皿の上で燃やした。写真の中の彼女は、僕に微笑みかけていた。僕らは写真の中で二人して笑っていた。彼女は僕がカメラを向けると照れてそっぽを向いてしまうから、僕は彼女に気付かれないようにシャッターをきらなければならなかった。髪が風で吹かれて、均整のとれた耳がのぞくその写真を現像してから彼女に見せると、「こんなのいつ撮ったのよ」と言って子供のようにすこしふくれた。そんなしぐさがとてもかわいらしくて、僕は思わず抱きしめた。もう、過去のできごとだった。
火をつけると写真はクシャっとまるまり、彼女の顔も僕の顔もゆがんだ。僕はそれを眺めていた。不思議と涙は流れなかった。かわりに、僕の胸の奥の方に、燃えた灰はまるでヘドロのようにその姿を変えて、悪臭を放ちながら積もっていった。ほかのものはゴミに出した。燃えるゴミの日でもないのに、山のように詰まれたゴミの山はすべてが二人の思い出だった。二人で海に行ったときに買った魚のぬいぐるみや、棚の上に置いていた彼女のくれた小さなお姫様の人形はビニール袋の中で苦しそうに見えた。
思い出を捨てるたびに、一生忘れることはできないだろうという確信だけが、僕の中で膨らんでいった。モノをみんな捨ててしまうと、僕の部屋は別の場所みたいに見えた。この部屋にあるもののほとんどに、思い出が染み込んでいて、あれもこれも捨てなければならなかったからだ。そして、僕の部屋にはたった一つの思い出だけが残った。
ざらざらとした舌で舐められて、目が覚めた。顔の横に頼子の足がある。もうちょっと寝かせておいてくれよ。僕は寝返りをうって、どうにか逃れようとする。それでも頼子は、僕を寝かせてはくれない。また、僕の顔を舐める。僕がしばらく渋っていると、仕舞いには、爪を立てられた。僕はたまらず起き上がる。
「イッテーな、みみずばれになったらどうするんだよ、もう頼子、わかったよ。あぁ、ご飯の時間だったんだね。ごめんね。昨日、ちょっと遅くてさ。」頼子は少しご機嫌斜めようだった。心なしか僕を見る目が不機嫌だった。怒っているというよりも、あきれているという感じの顔だった。
頼子の不機嫌な顔もかわいらしいんだよって話しかける相手は、もういなくなってしまった。
僕は頼子の頭を撫でて、ベッドから立ち上がる。頼子の食器にご飯と水を入れて、頼子を呼ぶ。頼子はとてもおいしそうにご飯を食べる。見ている僕は、ちょっと幸せになる。頼子は、僕に幸せを運んでくれる。食べ終わると満足そうな顔で、顔を洗い始める。僕は自分のマグカップにコーヒーを注いで、テレビをつける。僕の膝の上にチョコンと頼子が座る。テレビでアナウンサーが高速道路での交通事故を告げていた。僕は頼子を見る。
頼子がうちに来てから、もう四年くらい経つ。この家に越してきて数日したときに、ベランダにやってきたのが頼子だった。僕の部屋はアパートの一階で、頼子はベランダに簡単に入ることが出来るみたいだった。夜はわりと静かな場所だったから、頼子の声は僕の耳によく響いた。絶対に僕を呼んでいるのだと、不思議と僕は確信していた。それで、ベランダに出ると、もうすでになれなれしく身体をこすり付ける頼子。僕は独り暮らしで、少しさびしくて、あたたかい頼子が、とてもいとおしく見えた。それから、僕は頼子にご飯をあげるようになった。それ以来の付き合いだった。僕は頼子にいろんなことを話して聞かせたから、僕のほとんどを頼子は知っているに違いない。僕の悩みも、喜びも、悲しみも、ひょっとしたら彼女のことも、知っている。頼子は口に出したりしないけれど。
頼子について僕は多くを知らない。どこで生まれたのかも、どこで今まで暮らしていたのかも。僕が分かることは、そのあたたかい体温やご飯を食べるかわいらしい姿、身体をきれいにするときのすばらしい手際の良さ、そして、極端に人見知りをするその性格の反面、とっても寂しがり屋であること。僕が知っているのは、この程度のことだけだった。少なくとも、頼子は僕のことを受け入れてくれるし、僕は頼子に救われている。それがすべてだった。単純な関係。それでも、僕にはそれが必要だった。
「あなたたちって良く似ているわ。」彼女は、よく僕と膝の上の頼子を見て言ったものだった。すると僕は、「似てるらしい」って彼女の言葉を繰り返した。それに対して、頼子が不服そうな声を出したので、僕らは2人して笑った。
朝のニュースが終わる頃に、僕は頼子のために窓を開けてやる。頼子はどこかに出かけていった。行き先を僕はもちろん知らない。誰にだって秘密の一つや二つはあるものだから、僕は詮索しない。もちろん頼子も。僕は、しばらく椅子に座っていたけれど、少し散歩することした。家には思い出が染み付いていて、頼子が出かけると僕は圧倒的な寂しさに押しつぶされそうだった。
歩いて5分ほどで河川敷に着く、まだ9時にもならないのに少年野球をしているのが見えた。キレイとはいえないけれど、一応は芝生のグラウンドが広がる。犬の散歩の人たちとすれ違いながら、ゆっくりと歩く。朝の日差しがまぶしくて、僕はこのまま蒸発してしまうのではないかと心配になる。僕は石の城に住んでいるわけではないけれど。夜行性っていうのはちょっと似ている。
しばらく歩くと、隣に住む安達さんにあった。安達さんは50台の後半ではないかと想像するのだけれど、年の割にはきれいな女性だった。目じりについたしわは、とても自然で年相応の美しさをその顔に浮かべていた。
「おはようございます。」安達さんは意外だという顔をして僕に話しかける。
「安達さん、お散歩ですか?いい天気ですね。たまには朝の散歩ってのも良いですね。」
「あなた、しばらく見ないうちにすこし老けたみたいよ。目の下に隈なんて作って、あんまり働きすぎるのも良くないわよ。」すこしも遠慮しない、安達さんの言葉はいつだってとても正直だ。だから、僕は安心して話が出来る。
「ここのところ、すこし忙しくて。」
「あれから、1週間くらいでしたっけ。もう、立ち直れた?」
1週間前の騒ぎが、隣の家にまで聞こえていたらしい。僕はだいぶ決まりが悪い。
「えぇ、まぁ。頼子もいますから。あんまりしんみりしてると、怒られちゃいます。」
「頼子ちゃん、たまにうちにも来るのよ。こないだなんか、妙な紙切れをくわえていたけれど。あれってなんだったのかしら。宝くじなんかだったら良いわね。」そういえば、なにかひろって来ていた。
「頼子は、時々へんなものを拾ってくるんです。おかしな人形とか、何に使うのかも分からない機械とか、あんなちっちゃい身体でどうやって持ってくるんだか分からないけれど、」
「なにか、ステキなものでも持ってきてくれたら良いわね。ちゃんと良いもの食べなさい。病気になるわよ。」気をつけますといって、安達さんと別れた。
30分ほど歩いてから、家に戻った。頼子はまだ帰っていない。僕は家の掃除をすることにした。掃除機をかける。じゅうたんを持ち上げて、フローリングもしっかりと掃除する。たまっていた洗濯物もいっぺんに洗う。布団もベランダに干した。今日の夜は日向の匂いのする布団で熟睡できるに違いない。頼子の毛布も洗ってしまおうと思って頼子の寝床をきれいにする。毛布を取り出すと、下のほうに何かものがあることに気付いた。
「なにこれ?」頼子の拾ってきたものだろうか。小さな人形の腕だった。すこし古びている。肩の部分が繋がるようになっていて、それが人形の一部なのだとわかった。頼子が拾ってきたものは、ダンボールに入れてしまってある。それは、頼子にとっては何か意味のあるものなのだろうと、彼女が言い出したからだった。
「頼子ちゃんって不思議ね。あなたのことは何でも知っているみたい。私よりも長くあなたと一緒にいるもの。だからきっと、頼子ちゃんが持ってくるものは、あなたの大切なものなんじゃないの。せっかく、苦労して運んできているんだから、捨てちゃうなんてかわいそうじゃない。」
「そんなことないよ、きっとみんなガラクタだよ。」
「そうかしら?あとであなたの役に立つんじゃない。」
「なんで君は、そんなに頼子の肩を持つんだい。」
「そんなことないわ。頼子ちゃんの持ってくるものは、なんだかステキなものが多いと思わない。」
「そうかな、ステキというよりも不気味っていうほうが、正しいと思うけど・・。」
「味があるって言うのよ。そういうのを。」
僕と頼子と彼女の生活は、とても幸せでその中心はいつも頼子だった。ある日のこと。頼子は怪我をして帰って来た。僕はあわてて病院に連れて行こうとした。体中傷だらけで、僕はどうしていいかわからなかったから。僕は頼子と名前を呼びながら、嫌がる頼子にどうすることも出来ずにいた。頼子は心配するなというふうに声を出した。頼子は知らない場所に連れて行かれることを知っていたのだろう。その反応は、人見知りの頼子には当然の反応だった。
「どきなさい」彼女に肩を叩かれて、僕はその場を離れる。彼女は驚くほどの手際で頼子の傷を手当した。彼女は僕なんかよりもずっと強い人だった。
「たいしたことはないわ。単なる切り傷よ。他の子とけんかでもしたんでしょう。」
僕は、頼子の顔をじっと見つめる。けんかなんかしちゃだめじゃないか。と目で訴えかける。頼子は不服そうな顔をして、自分の寝床に行った。
翌日、僕は頼子のそばを離れなかった。僕の大切な頼子だから。今になって思えば、彼女はそんな僕をつめたい目で見ていたのかもしれない。
「ねぇ」彼女は僕を呼ぶ。
「頼子と私どっちが好き。」無邪気な顔をして彼女は聞く。
「そんなの比べられないよ。だって、二人とも大切だから。」
彼女はため息をついた。
「こういうときは、嘘でもいいから、君だよって答えるものじゃないかしら。」
僕はあわてて、君だよって言った。
無理しなくて良いわよって、すこし悲しそうな顔だった。
それからすぐだった。彼女は僕に別れ話をした。そして、すぐに出て行った。それも頼子を連れて。しばらく頼子ちゃんを借りますと書置きを残していった。どうして頼子を連れて行ったのかは分からない。彼女には他に男がいたというのを、そのとき僕は初めて聞いた。
大切な二人がいなくなると、僕の部屋には急激にさびしさが漂い始めた。色を失った世界の中で、僕は味のない食事をして、仕事を単にこなすようになった。
僕は何度も彼女に電話をした。そのたびに、連絡してくれだとか、元気かだとか、伝言を残した。彼女は行き先を告げなかった。実家にも電話したし、恥をかくことを恐れずに彼女の仕事場にも電話を入れた。受付の女の子は、彼女が無断欠勤していることを教えてくれた。僕は途方にくれた。でも、この間に僕は一つのことに気付いた。僕が心配しているのは、彼女のことではなくて頼子のことだった。
それから三日後に頼子は何事もなかったかのように、うちに帰って来た。初めて出会ったときのように、僕は窓を開けてベランダの頼子を抱き上げる。そしておかえりと言う。頼子は、小さく声を上げる。僕の顔を舐める。僕は泣いていることに気付いた。僕は、頼子の首輪に、一枚の紙が挟まっているのに気が付いた。
「ごめんなさい」
そこには、僕が良く知っている文字でそう書いてあった。
初投稿です。
前半はそこそこ書けていると思うのですが、
後半が酷すぎですね。
仕掛けを作るつもりが、
見事に計画倒れしてしまいました。
この失敗を次回に活かしたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。