表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

孤独の城壁

掲載日:2025/01/11

 


 その日も、大佐はラッパの音が鳴る二時間前に目を覚ました。城壁はまだ眠りに沈んでおり、石廊下には愉快な宴の匂いがまだ残っていた。

 薄暗い石廊下で、巡回中の兵士二人が大佐の影を見て「城壁」といった。大佐は「希望」と返した。正しい合言葉を聞いて、兵士は大佐に敬礼した。それは、毎日必ず行われるやり取りで、機械的かつ儀式めいたものだった。

 大佐は見晴台の手すりに肘を置き、葉巻をふかしながら、二メートル先にあるB国城壁を眺めた。

 B国城壁の上では、最新式の大砲がこちらに顔を向けており、その周辺を兵士数人が機械的に往復していた。

 大佐は四十年程前に、国境の狭間で、B国城壁と二メートルだけ間隔を開けて立つA国城壁に赴任した。

 A国とB国の情勢は大佐が赴任してきた四十年前から変わらず安定していた。

 

 大佐は葉巻が灰になるまで、二メートル先の城壁のB国兵士達が、寸分乱れず、二分おきに行ったり来たりするのを見つめていた。

 A国とB国の友好状態が長く続いていたため、両城壁の兵士は互いに仲が良かった。

 しかし、いつだって大佐だけは向かいの城壁を警戒していた。

 今は友好的な振りをしているが突然牙を剥いてくるに違いないと、四十年前から大佐は考えていた。幾度となく城壁を後にする機会が大佐には訪れたが、その都度、A国とB国の戦争が勃発する予感に足を引かれ続け、城壁を遂に去れなかった。緩慢な日々が急激に流れ落ち、気がつけば大佐の頭頂部は禿げ上がっていた。

 葉巻を吸い終わるまで、大佐は普段と変わらぬ兵士達の往来をじっと見ていた。

 その間に、太陽が山を越えて、城壁の煤けた石壁を黄色く照らした。

 大佐は、他の老齢軍人と無言の朝餉を済ませてから、医師に会って薬を受け取った。「年なんですから、体には気をつけてくださいね、もし戦争が始まったら病人は追い出しますよ」医者は大佐の去り際にそう言った。冗談めかした言い方だったが、この医者は本当にそうする気だろうと、大佐は思った。大佐の持病は日に日に悪化しており、顔は目に見えて黄色くなっていた。

 

 大佐は城壁の屋上で唯一の友人に会った。

 「連中の人数は日増しに少なくなっているな」

 友人は、わざわざ双眼鏡で二メートル先のB国城壁を覗きながらそう言った。

 「戦争は当分起こらないってことか」大佐が言った。

 「そんなことはない」

 友人はしばし黙った後に、城壁の上にいる敵の将校を指差しこう言った。

「私が彼を撃ち殺せば、すぐさま戦争が始まるだろうよ」

 A国、B国両方の兵士達は笑った。

 だが、大佐だけは黙っていた。黙って、城壁を闊歩する鉄帽を被り腰に軍刀を差した将校の姿を見つめていた。

 視線に気がついた将校は、大佐のはげ頭をからかうように、自分の被ったツルツルの鉄帽を手で擦って見せた。兵士達はまたも笑った。


 暑い日だった。

 兵士達は溶け落ちた髪の油で顔をぬるぬるさせていた。


 大佐は調子が悪いことを暑さのせいにして誤魔化し、自分の部屋に戻った。

 城壁の最高司令官は大佐だったが、彼のところに訪れる者は誰もいなかった。この城壁では、ぜんまい仕掛けの人形のように、ひたすら同じ一日が繰り返されているのだから、司令官の指示が必要になることは滅多に無かった。

 大佐は形式的な書類の束を前にして苛立っていた。

 しみったれた部屋で孤独に死ぬ夢は現実味を増していた。四十年待ち続けた戦争は、いまだ起こらない。

 友人の言葉が大佐の頭から離れなかった。

 B国の城壁の将校めがけて一発撃つ。それだけで良いのだ。英雄の夢が大佐の心をそそのかしていた。

 どうせ戦争が始まれば、何がきっかけだったのかなんて直ぐに忘れ去られてしまうのだ。英雄になれば、城壁で朽ちてしまった青春が再び訪れるだろうか?大佐は机の上に置かれた、古びて茶色くなった写真を見つめる。獅子のような髪の毛を持つ男と、艶やかな姿の女が共に笑顔を浮かべていた。

 

 城壁の後ろに日が沈むと、昼と打って変わって、冷たい夜風が吹き始めた。どうしようもない寂しさが大佐の心を埋め尽くした。大佐は、友人がこぼしたあの一言をひたすら反芻していた。

 

 大佐は寝台の傍らに置いてある、拳銃を手に取った。弾倉に溜まった埃を払い、銃身を磨いた。この拳銃は士官学校を卒業した時に教官からもらったものだった。大佐は、この拳銃の引き金を引く日を待ちわびながら、毎日丁寧に磨き続けてきた。

 拳銃を磨き終えると大佐は葉巻を一本ふかし、吸い終わると寝台に横たわり眠りについた。

 夕飯は食べなかった。

 

 

 夜中、大佐は咳の発作に襲われた。

 ベッドから、転がり落ちた。何度も壁を掴んで立ち上がろうとしたが、そのたび膝から崩れ落ちた。

 

 喘ぎながら洗面台にもたれかかり、水を飲もうと蛇口をひねった。

 窓から差し込む月光を浴びて、その水は赤く光った。大佐はぎょっとした。何処から、この赤は出ているのだ。大佐はあたりを見回した。

 大佐の足元から寝室まで続く水溜りが、反射した月光の明かりを揺らめかせていた。大佐は首を振った。水勢を強め、血を洗い流そうとした。今や、大佐の腹の底から血が溢れ出しているのは明白だった。

 洗面台の鏡には、幽鬼のようにやつれ、今にも死にそうな大佐の姿が写っていた。あの忌々しい医者の言葉が大佐の頭によぎった。

 大佐は鏡を拳で叩き割った。「病人は追い返すだと?ふざけるな!俺は、将軍になる機会を蹴ってまで、この城壁にいるんだぞ!」

 血を全て吐き出して、貧血になった大佐は、半狂乱で叫びながら、寝台に横たわった。

 大佐は窓から外を見た。静寂が広がる夜の空に、星々が煌めいた。大佐はその星の一つに自分の姿を見出した。その星は、この夜と共に何処かへ去り、二度とここに帰ってくることは無いだろうと感じた。

 大佐はハッとして、寝台の横をまさぐった。

 夕方に磨いた拳銃が一丁と、ありったけの弾丸、とっておきの麻薬葉巻が三本出てきた。大佐は気力で寝台から起き上がり、壁のフックにかけられた、特別な軍服、戦争が始まった時に身に着けようと思っていた、金糸で鷲の刺繍が施された軍服を羽織った。


 彫り込みの入った金のボタンを抜かりなく一つ一つ嵌める。黒革の拳銃嚢に拳銃を装備した。はげ頭を隠すために、軍帽を被った。裏地が赤い、上質なマントをきっちり首元に留めた。麻薬の葉巻を一本吸って、あとの二本は胸ポケットにしまった。視界が段々と歪み始め、腹の底から湧き出すような痛みは抑まり、体中が高揚感で震えだした。

 再び鏡の前に立った大佐は、自分が前線の指揮官らしい格好であることを認め、頷いた。

 大佐は部屋を出た。

 石廊下は、半開きになった部屋の扉から漏れ出る、娼婦のあけすけな笑い声や、陽気な男たちの話し声でやかましく、大佐は、誰にも気が付かれず、見晴台までたどり着いた。

 豪放な笑い声の中、いつもと変わらない、B国兵士の往来を眺めながら、大佐は麻薬の葉巻を吸い始めた。麻薬葉巻を吸い終えた時、もう両城壁は眠りの中に落ちていて、二時間後のラッパの音を待っていた。

 大佐は見晴台から、二メートル先のB国城壁内に飛び込んだ。

 

 あてもなくB国城壁の廊下を彷徨っていると、大佐は城壁内を巡回する兵士に出くわした。「希望」兵士はそう言った。

 「まやかし」

 大佐はそう答えながら、ホルスターから拳銃を抜き、二人の兵卒の頭を撃ち抜いた。


 「警戒!」

 銃声を聞きつけた兵士が叫んだ。

 緊急の銅鑼が鳴らされ、両城壁はまどろみの中から叩き起こされた。

 平和に浴して危機感を欠いた兵士達が状況を飲み込めず、石畳の上を呑気に歩き回る音で城壁は騒がしくなった。

 大佐は、拳銃を抜いたまま、B国城壁の石廊下を駆け回り、兵士を見つけ次第、発砲した。

 麻薬で研ぎ澄まされた五感を頼りに足腰の痛みも忘れて、B国の兵士達を殺し回った。

 

 両城壁は混乱状態に陥った。対岸の城壁から攻撃を受けていると勘違いした兵士達がすぐに反撃を開始した。

 窓越しにライフルを撃ち合い、ライフルを覗かせていない窓に兵士達が飛び移った。両城壁内に両陣営の兵士が入り乱れた。兵士達は泣きながら相手国の友人を照準に捉え、引き金を引いた。


 一方の大佐は誰彼構わず城壁内で拳銃をぶっ放しまくっていた。

 B国城壁に飛び移ったばかりのA国兵士が肩を喘がせながらも大佐に敬礼した。大佐は躊躇せずにその頭を撃ち抜いた。柘榴のように弾けた後頭部から真っ赤な脳味噌が飛び出した。

 大佐にとって、麻薬で歪みまくった視界に映る全てが敵だった。A国兵士もB国兵士も電球も食料の入ったツボも鉄の扉も、まとめて蜂の巣にした。

 

 城壁間を、混乱した兵士達が放った弾丸が行きかい、窓の側には体中から血を流した兵士の死体が沢山転がっていた。

 大佐は階段を上った。

 踊り場に待ち構えていた数人の兵士は、大佐の姿を捉えるや否や、気狂いのようにライフルを乱射した。散らばった弾丸は、手すりをへし折り、階段の段差を砕いた。大佐の腹にも二、三発の鉛玉が撃ち込まれ、大佐は何とか近くの物陰に飛び込んだ。

 弾を撃ち尽くした兵士達は恐慌状態となり、暗闇の中、足元もおぼつかないのに、銃剣を構えて大佐に襲いかかろうとした。案の定、兵士達は途中で階段の段差に躓き、自分の銃剣に胸を貫かれて死んだ。

 大佐は階段を転がり落ちる死体を避け、穴だらけの階段をよたよたと上り、屋上に向かった。腹の傷を左手で抑えていたが、手の隙間から溢れ出した血で軍服の袖の金刺繍が赤く塗りつぶされてしまった。


 屋上は既に阿鼻叫喚だった。両軍兵士は対岸の城壁と二メートル越しの撃ち合いを繰り広げ、たまに城壁を飛び越えて対岸に向かおうとする勇敢な兵士が、飛距離不足で城壁の狭間に飲み込まれていった。


 そんな中、B国の鉄帽を被った将校はたった一人で対岸のA国城壁に飛び移り、腰に差していた軍刀を振るって屋上のA国兵士達を斬り殺していった。

 

 B国城壁の兵士達は対岸のA国兵士との撃ち合いに躍起になって、大佐が屋上にたどり着いたことには気が付かないようだった。大佐は背後から彼らの頭に片っ端から風穴を開けていった。


 むせ返るほどの凄まじい鉄と硝煙の匂いの中、大佐はただ一人、死屍累累としたB国城壁の屋上に立っていた。

 対岸のA国城壁には、鉄帽を被ったあの将校が、同様にたった一人で立っており、血塗れの軍服の裾で軍刀の血を拭っているところだった。

 大佐と将校は睨み合った。先に攻撃を仕掛けたのは大佐だった。拳銃を将校に向けて乱射した。将校は城壁を駆け回り、拳銃の弾倉が空っぽになるまで、全ての鉛玉をかわした。

 将校は大佐の弾切れを悟り、軍刀を上に振りかぶった。

 大佐はとっさに最新式の大砲に駆け寄った。

 大佐の腹の傷は広がり、血の泡を帯びた腸が飛び出した。

 将校が軍刀を大佐に投げつける。大佐は大砲を撃つ。

 放たれた砲弾は恐ろしい音を立てて、A国の城壁屋上に着弾した。爆風は屋上全体を埋め尽くし鉄帽を被った将校と周辺の死体の肉片が空に飛び散った。痩せ細った、屍肉喰らいのハゲワシ達が、肉片を攫っていった。

 真上に打ち上がった将校の鉄帽は、ハゲワシの一匹にぶち当たった。ハゲワシは落下し、肉片の山の中に埋もれて、二度と姿を現さなかった。


 大砲が発射される直前に将校が投げた軍刀は、大佐の腹に突き刺さった。衝撃で大佐は後ろに仰け反り、自分の腸に躓いて倒れた。


 もはや、大佐に立ち上がる力は残されていなかった。黒地を金で彩っていた軍服も、ぱりぱりに固まったどす黒い血糊で見る影もなかった。軍帽を何処かに落としたので、無惨なはげ頭がむき出しだった。腹に突き刺さった軍刀はまるで墓標のようだった。

 大佐は腹の激痛に悶えながら、血に濡れて火のつかなくなった最後の麻薬葉巻を、震える指で摘まみ口に咥えた。


 城壁に向かって軍隊が行進する音の響き渡る大空、太陽の黄色い光に追い立てられて、白く輝いていたあの星が彼方に消えていったのを、大佐は確かに見た気がした。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ