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第一部 リリシア・メルクは如何に婚約を破棄されたか

「リリシア、貴様との婚約を破棄する」

 王立学園の卒業パーティーのさなか、面前で婚約者ニコロに告げられた。目の前が真っ暗になった。その言葉を昨日のことのように思い出す。深く抉られた傷は今なお癒えない。その傷を抱え、心の底のわだかまりとともに過ごした二十代。けれどそれも終わり、明日で三十歳、新しいパートナーへの返答の日。この記憶を振り払うんだ。そう思っても、暗い二十代を思い出してしまう。


 卒業の後、学園時代に見つけたパートナーと続々と結婚する同期たち。卒業後、言い寄る男は多々いたし、両親も縁談を探してきた。それでも、突如裏切られたあの件のせいで、男性不信に陥っていた。持ち掛けられた縁談は全て断った。本当は、私だって幸せになりたい、他の女学生が送るような、普通の生活を送りたいのに。

 その思いを振り切ろう、好きだった学問の世界に救いを見出そうと、学園附属の研究室で働くも、男社会のこの国のアカデミアの世界、女というだけで下に見られる世界に幻滅した。好きだった学問への情熱も消え果て、職を辞した。


 貴族しか通えなかった王立学園に、優秀な平民も受け入れる。その決定を聞き、第一期生になるため、熾烈な選抜に挑み、血の滲む努力をした。あれはいったい何だったのか。

 気が付けば、両親が営む貿易業の商会で、経理と契約書の翻訳の仕事をしている。職業婦人の草分けと褒められても、その言葉の奥にある、婚約破棄された出しゃばりの平民が、という真意を読み取ってしまう。せめて自分で選んだ道ならよかったのに、あの男のせいで。


 そんな私も、気が付けば明日で三十歳。先日、結婚の申し込みが届いた。学園の同期だ。保守的なこの国で、年齢を考えれば最後のチャンスだろう。相手の家柄は申し分なし、両親も賛成している。かつて、私のことを、小ばかにした男だということを除けば。

 返答の期限は明日。どう答えるかはもう決まっているのに、ギリギリまで先延ばしにしてしまっている。胸の棘が邪魔をするのだ。

 もう実家を出るのだから、そう思って、私室の家財を処分している。想いを振り切るように。暗い二十代、そしてその記憶、さようなら。ある抽斗(ひきだし)を開けると、手紙の束が入っていた。ニコロからの。未練が残り、どうしても捨てられなかったものだ。今度こそ捨てよう、けれど、手に取ると、耐えられず読んでしまう。一番上、最後に届いた封筒を開く。便箋には、

「ニコロ・メディシスは、リリシア・メルクとの婚約を破棄する」

 たった一文。けれど、ニコロの筆跡に、幸せだった学園時代の記憶が蘇ってくる。


 リリシアが十歳のとき、貴族の子女のためのものだった王立学園の門戸が、初めて平民に対し開かれることが決まった。優秀な官吏を育成するため。極めて保守的な、ここラティーナ公国では、大きな改革だった。なにせ、それまでの王立学園は子女を許嫁(いいなずけ)とともに生活させる顔合わせの場となっていたのだ。あわよくば上流階級とお近づきになれる、そう踏んだ平民たちは、わが子を入学させようと躍起になった。貿易商だったリリシアの父親もその一人。政商になる糸口とするべく、リリシアに入学試験の勉強を叩き込んだ。

 朝から晩まで続く、厳しい指導。けれど、リリシアはそれに耐えた。上流階級の仲間入りのためではない。女の権利が制約された保守的な国で、一年でも長く、勉学を続けたかった。学園に入ればそれが叶う。たとえ、女が入学したら、良妻賢母を育成するためだけのものになるとしても。

 選んだ志願先は文科の語学専攻。面接はなく、名前を伏せた聴解試験と筆記試験だけで合否が決まる。ラティーナ公国は、強大な異教の隣国、オスム王国から圧迫を受けていた。オスム王国から得た情報の解析要員として、大量の生徒を募集していたのだ。未知の世界を知りたい、そう願うリリシアにとって、うってつけだった。

 猛勉強の末、オスム語を習得し、見事合格をつかみ取った。平民の受験生の一位だった。


 入学後、優秀な同期と、思い切り学問に打ち込もう、そのリリシアの夢は打ち砕かれた。家柄での区別、階級が、すべてを決める世界。家と家の関係で細かく定められた貴族のしきたりに疎いリリシアは、すぐに孤立した。勉強ばかりに打ち込んでいてはダメだったのだ。悔いるリリシアに向けて、

「平民に、ラティーナ公国の学園は早すぎたようですね。入学試験の成績がよいと、鼻を高くしていたようですが」

 レオが言う。男子生徒の中で、取り巻きを従えた中核的存在だ。悔しいけれど、レオの細かな所作、服装の感性、幼い頃から叩き込まれた気品を、リリシアは真似できない。

 周囲が当たり前のように持つ、高価な服装と様式美の振る舞い、幼い頃からよく手入れされた髪ときれいな手、平民の世界との断絶だった。


 講堂の隅に座り、オスム語のテキストを読んでいることが増えた。「鼻を高くした平民」という周囲に対し、目立たないよう、わざと試験を間違え、成績を中位に落とした。一度始めると身が入らなくなり、だんだんと、理解が追い付かなくなってきた。

 ちょうど通りがかったレオが言う。

「成績を上げようと勉強ですか、熱心なこと。これだけ努力しても点は取れない。なぜでしょう」

「からかうのはやめにすることだ」

 後ろから、一人の男子生徒の声が聞こえる。

「君主はその治める者に支えられる。政は民の安寧のためにある。その君主に仕え、支え奉るのが、我ら貴族階級の役目。憲章にそうあることは習ったはず。それとも、君の家では、平民を侮辱するのが、貴族の役目と習ったのですか」

 レオはすごすごと引き下がっていった。

 代わって正面に立った男子生徒。凛とした顔立ち、力強い眼差し。決して高価ではないけれど、場をわきまえた服装。高貴さと気品を漂わせる。髪は黒くて短く切りそろえられ、手は平民のように荒れているけれど。

「助けていただき、ありがとうございます。わたし、リリシアといいます。貴方は?」

「ニコロ・メディシス。同じ年に入学した、薬学科の端くれです。」

 端くれ、には見えないけれど、とリリシアは思いつつ、

「見ず知らずの人に、ここまでよくしていただいて、何とお礼してよいのか」

「当然のことをしたまでですよ。それより、貴女がリリシア・メルクさんですね。お話は聞いています。平民の試験では、一位で入学されたと。今は、語学科で、オスム語を専攻されている。優秀なのですね」

「優秀だなんて。授業についていくので精一杯です」

「謙虚なのはいいことだけれど、偽るのはよくないですね。貴女のページをめくる速度、誰よりも速かった。」

 よく見られている。

「いえ、パラパラと眺めていただけで」

「試しに読んで、訳してみなさい」

 間違えたリリシアに、

「今のはわざとだね。もっと訳すのが難しい箇所があった。」

 ニコロは、すっと指をさす。

「なぜ分かったんですか?もしかして、オスム語が読める?」

「薬学書や医学書を読むために、外国語は少し勉強したからね」

 少し勉強しただけで、読めるような文章ではないのだけれど、そう思いながら、ニコロの手を見る。

「み手、ひどく荒れてしまっています。痛くはないですか?」

「心配させてしまったね。強い薬草で丸薬を作るとこうなるんだ。気にかけてくれてありがとう」

「高位の学生は、召使にさせると聞きましたが」

 リリシアのその言葉を無視して、

「ついでに、この黒い髪、これは祖母譲りだ。祖母はオスム王国から亡命した薬学者。当主の病を治療したことから、後継ぎとの婚姻で貴族の家に入った。そして、落ち目だった家を復興させて、僕を学院に入学させてくれた。亡命者を受け入れてくれたこの国には感謝しているよ。だから、この国を、女性と男性、平民と貴族、そんなことは関係なく、誰もが認められ、大切にされる国にしたい。」

理想を語るその横顔に、リリシアは見とれてしまう。

「すこし話し過ぎてしまったね。さあ、勉強を続けよう」

 ニコロは、すらすらと、難しいテキストを読み解いていく。リリシアはその内容が頭に入ってこない。ニコロの速さについていけないからではない。ニコロは、易しくかみ砕いて教えてくれる。集中できない理由はもちろん……。

「ところで、君の夢は何かな?」

「え、はい」

 ふと我に返ったリリシアに、

「君の夢は?」

「ええと」

 言葉に詰まる。国の未来を語るニコロに、私は何と返せば。

「月並みですが。よいパートナーを見つけて、子供を持ち、明るい家庭を築くことです」

 とっさに、父親の夢を語ってしまう。

「いい夢だね。一人一人が幸せにならなくては、国全体が幸せになることはないから」

赤面するリリシア。その横には、微笑むニコロがいた。

 校舎の施錠のため、守衛が回ってくる。

「おっと、こんな時間だ。長く付き合わせてしまったね」

「そんなことはないです」

 別れがたく感じてしまうリリシア。なんだろう、この気持ちは。

「ええと、勝手なお願いですが、またお会いすることはできますか?」

「もちろん。」

 これが、ニコロとの出会いだった。


 のちに、ニコロは薬学科の最優秀学生ということを聞いた。周囲からは、嫉妬と冷やかしの声が聞こえる。けれど、リリシアはニコロとの「勉強会」を重ねた。周囲の声が耳に入らなかったからではない。ニコロといるときの、心のときめき、愛おしさ、そちらが勝ったからだ。この気持ちは間違いなく。

「ニコロには、許嫁はいるの?」

「いや、いないよ。貴族の中では、家柄は高くないからね。それに、子供のころから薬学ばかり勉強していて、お声がかからなかったんだ。もしかして、リリィ、君」

「ち、ちがいますから」

 そう言いつつ、付き合うことしばし、ニコロからのプロポーズを経て、二人は婚約を結んだ。

「本当にいいんですか?私で」

 リリシアは問いかける。

 保守的なここラティーナ公国では、離婚は厳しく禁止されている。男女のどちらかが死ぬまで、連れ添うことが求められた。ただし、相手の行方が知れなくなった場合は、失踪宣告のあと、七年が経過すれば、相手が死亡したとみなされる。相手の死か七年の失踪、それだけが、再婚が認められる条件だった。婚約の場合は、公正証書で破棄ができるが。

「何をいっているんだい、リリィ。リリィの、卑屈にならず、ひたむきに努力を続けるところが好きなんだ。道を切り拓いてきた祖母に似て。一緒にこの国を変えられる」

「ニコロはおばあちゃんっ子なのね」

「そうかもしれないね」

 二人は互いに笑いあった。


 ところが、卒業式の数日前、一通の手紙を読んだニコロは、突然顔を厳しくした。

「どうしたの、ニコロ。もうすぐ卒業式、準備が忙しいでしょう」

 返事はない。

「何なの? ねえ」

「タンシヒトタヒユキテマタカヘラス」

 そう言うと、ニコロは部屋を出て行った。

 そして、卒業式の日、他の生徒たちと同じように、手を取り合って祝賀会に入ってきたリリシアとニコロ。会場の中ほどで、ニコロはリリシアの手を振り払い、大勢の参加者達の前で、婚約破棄を宣言したのだ。


 いままでの優しさがウソだったみたい。暗闇の中に突き落とされた。一瞬、ニコロの顔には、苦渋の表情が浮かんでいるように見えた。けれど、それはすぐに涙にかき消されて。

「ねえ、どうして、どうしてなの!」

「新しく屋敷に入った侍女のイザベラと恋に落ちた。真実の愛を見つけた」

 淡々と言うと、ニコロは会場を出て行った。呆然と立ち尽くして、そのあとの記憶はない。気が付いた時には、自室の寝台で枕を濡らしていた。


 数日後、ニコロの屋敷を訪ねた。卒業祝賀会での出来事が、悪い夢だったのではないか、と思ってしまって。ニコロの屋敷は、喪に服しているときのように、すべてのカーテンが閉め切られていた。まるで、訪れる者を拒否するかのように。

「お引き取りください」

 何度入り口で尋ねても、使用人から返ってくる答えはそれだけ。しばらくすると、扉を閉められてしまった。


 さらに数日後、手紙が届いた。

「ニコロ・メディシスは、リリシア・メルクとの婚約を破棄する」

 公証役場の印が押されたそれは、間違いなくニコロの筆跡で。直視できずに、やり取りした手紙を入れた抽斗にしまい込んで、封印していた。記憶を押し込めるように。


 財産目当てに言い寄ってくる男たち、両親が設定した縁談、それらから逃げるように進んだ学問の道。何もかも拒否して、ここまでやってきた。

「誰も信じられない」

 ただ、それだけ。何をするにも、心のどこかでニコロが浮かぶ。彼との破局とともに。


 けれどそれも終わり、三十歳の誕生日を前にして、婚約を申し込む男が現れた。婚期を逃さないためには、これが最後のチャンスだろう。両親も賛成している。客観的に見れば悪くない相手だと思う。学園時代、私を散々からかってきたうえ、わがままから婚約相手を逃したレオだということを除けば。

 結婚生活がどうなるかは、目に見えている。冷め切ったものになるだろう。けれど、これは、私への報いだ。古い記憶に囚われ、無為に生きてきた私への。男に従い、家庭に入る、それだけが、保守的なラティーナ公国で女が生きる道なのだ。さようなら、私の二十代、さようなら、子供みたいな私。


 気が付くと泣いていた。ぽつ、涙が手紙に落ちる。手紙のインクが滲む。いけない、あんな男のために泣いちゃって。あれ、よく見ると、今涙が落ちたところの他にも、インクが滲んだ跡がある。乾いているから古そうだ。ニコロ、泣きながら書いた? まさか。そういえば、婚約破棄を告げたときのニコロ、目を赤くしていた。泣き腫らした後のように。真実の愛のために、私を捨てたんでしょう。泣きたいのはこちら。


 手紙をたたみ、暖炉に向かう。もうこんな記憶は御免。新しい人生を歩むの。手紙を炎に投げ入れようとする、まさにそのとき、後ろから声が聞こえる。そう、学園時代以来聞いていない、懐かしい声。

「リリィ」

「ニコロ?」


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